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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第8章 獅子とアンティーク
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獅子とアンティーク 7









 誰もが口を噤んだまま動かない。あの大和ですら、やや強張った表情で獅賀の嫡子を注視していた。

 それほどの脅威。幼い頃から従える側に立ってきた男の風格は、ただそこにいるだけで周囲を圧倒する。生まれつきか英才教育の賜かは知らないが、一般的な庶民からすれば天災のような存在だ。もし些細なことで睨まれでもしたらたまったものではない。


「さっさとはじめろ」

「……へえ、先手を譲ってもらえるのか?」

「どうせ結果は変わらん。あとから不公平だのと騒がれるのも迷惑だ」


 確認には簡潔な答えが返される。やはりそれだけ自信があるのだろう。ともすれば、すでに正解に辿り着いているのかもしれない。

 だが、ヤツは考え違いをしている。


「わかった……じゃあ、織目さん」

『は、はい』


 緊張した気配の織目さんが前に出る。

 たった一人、敵と対峙するように。

 ここにきてようやく御曹司の端整な表情が動いた。


「……これはなんの冗談だ」

「冗談どころか本気も本気だよ。お前の相手をするのは織目さんだ」

「ちょっとアキにぃ!」


 慌てた蕗が掴みかかってくる。

 驚いているのは蕗だけではない。事情を知らない者は軒並み動揺していた。

 様子が変わらないのは事前に話をした織目さんとミシェルだけだった。


「う、運任せって、こういうことなの? こんなのただの丸投げじゃん! どうして――」


 問い詰める声には避難の音色があった。

 気持ちはわかる。そんな反応も予測できた。

 ……しかし、俺はその手をそっと引き剥がす。


「これは最初から織目さんの問題だ。俺たちが無闇に口を挟むべきじゃない」

「でもっ」


 なおも言い募ろうとする蕗を流して、相手に向き直る。

 獅賀明臣は苛立つように眉根を寄せたまま、こちらを睥睨していた。


「戯れ言も大概にしろ。青鷹館(ウチ)の授業すらまともに理解できなかったその女に、暗号など解読できるわけがない」

「いいから黙って聞けよ。順番を譲るって言ったのはそっちだろ?」


 反論すると、御曹司は舌打ちして口を閉じた。その方が効率的だと判断したのだろう。決して相容れない相手ながら、そういうところだけなら共感はできる。

 だいたい青鷹館学院の授業なんて、たぶん俺もついていけない。

 そんな括りをするなら誰が問題に挑もうと同じだ。

 いっきに場が静まりかえる。俺たちがいるのは例の石碑が見つかった空き地だが、ここは本当に見通しが悪い。まるで外界から隔離された異空間のようだ。

 誰も声を発さない。静寂が木々の間隙に染み込んでいく。

 やけに長く感じられる時間の中――やがて、織目さんが動いた。


『もうしわけありません……たくさん考えましたが、私にはわかりませんでした』


 事実上の敗北宣言をして、深々と腰を折る。

 周囲から悲嘆の短い声がもれた。

 対する兄から返されたのは、侮蔑の視線と嘲笑だった。


「くだらん。古いガラクタを眺めるしか能のない落ちこぼれになにができる。まさか、そいつが奇跡を起こせるとでも思ったのか? ……愚かな。所詮は負け犬の浅知恵でしかない」


 吊り上がった口から憎悪が吐き出される。

 聞くに堪えないその雑言を、しかし、いまの俺は聞き流せた。

 ついでに激昂しかけた蕗を止めておく。こいつはメンバーの中で最も沸点が低い。放っておいたら問答無用で殴りかかりそうだ。

 大丈夫。

 まだ思考は冷静に動いている。


「もういい……こっちの結果は聞いた通りだ。次はお前の番だが、どうする?」


 重くなった空気を切り換えると、御曹司は皮肉っぽく鼻を鳴らした。

 呆れて追い返される可能性も考慮していたが、おそらくこいつは途中で止めないだろう。

 たったいま確信した。

 獅賀明臣が勝負を受けたのは、織目さんを貶めたいからだ。

 目の前で俺たちを徹底的に叩きのめせば、きっと彼女は深く傷つくから。

 それはあまりにも捻じ曲がった感情。

 ……あるいは。


「虫ケラに己の立場を思い出させるにはいい機会か」


 粘着質な声は獲物を前にした毒蛇を彷彿とさせる。

 昏い愉悦の滲む眼差しが、どろりと織目さんに絡みついた。



「――見ていろ。そして絶望しろ。もうお前にはなにも残されていないことを、ここで教えてやる」



        ◇



 獅賀明臣は荒れた空き地の中央へ足を進める。

 周囲の視線など気にもせず、まるで無人の野を往くように。

 やがて、ピタリと中心地で足を止めた御曹司は、こちらを振り向くでもなく独り言のように語りはじめる。


「お祖父様は遺言のキャンバスに反体制派の作品を選んだ。中でもベルメールはナチズムを嫌悪したアーティストだ。それだけでこの『罪人』に該当する要素は読み取れる。いずれにせよ、極刑に科せられて当然の大罪を犯した者たちの暗喩だろう」


 再び歩きだす。今度はやや森に寄った位置で立ち止まった。


「ここが刑を執行するはずだった場所だ。ある筋から仕入れた情報に寄れば、当時の処刑方法は(はりつけ)……この地で死罪を命じられた咎人どもは、複数の槍で命果てるまで何度も貫かれるはずだった」


 誰かが怯えたように息をのんだ。

 おそらく霧小路さんや芳倉さんだろう。こちらの事情など知る由もないと思うが、わざわざ必要なさそうな情報まで明かすあたり、潔癖と露悪趣味の判別がつけがたい。

 そしてある筋から仕入れた情報とは石材屋から得た資料のことか。

 いまだ詳細は把握できないが、当時の設計図のようなものだったのかもしれない。


「“死を臨め”――罪人が死を強く意識する瞬間はいつか? 無論、ここで人生の終わりを待つ刹那だ。ならば暗号の始点はここで間違いない。“過去は価値を失くし”とはすなわち『死』を意味する。いかなる財宝であろうと、終焉を目前にした人間には道端の石と同じ。

 ……つまりこの暗号は、罪人の視点から見た情景を表しているということだ」


 断じた口調は確信めいたものだった。

 その目は暗く濁っているが、鋭い視線には強固な意思が感じられる。

 ふいに顔をこちらへ向けた獅賀の嫡男は、おもむろに片腕をあげた。物言わず差し出された手のひらに、付き人らしき男性が手提げ鞄から例の人形を取り出して渡す。……彼は秘書かなにかだろうか? 二十代半ばから三十代頃の大人が、年下の学生に唯々諾々と従事する姿はあまりにも自然で、現代では異様に映るその主従関係が獅賀家の不気味さをかえって浮き彫りにした。

 粟立つ心を抑え込んで、掲げられた人形に意識を集中する。


「散文的なメッセージは遺産のありかを示しているが、そのものだけでは意味を為さない。――――これは地図だ。無軌道に記された文の配置こそが、暗号を解く鍵になっていた」


 御曹司がそう告げると、隣の付き人は鞄から取り出した紙を広げた。

 距離があるので見えにくいが、どうやら随分と古い絵のようだ。能面のごとく表情を消した男の唐突な挙動に驚いたものの、その正体にはすぐ思い至った。


「……刑場の見取り図だ。長らく入霞に店を構える石材屋の主人より厚意で譲り受けた。奇しくもその老舗は我が家と古い付き合いでな。詳しく話を訊いたところ、以前に店を訪れた祖父に頼まれてこの図面を見せたそうなのだ」


 ……ああ、なるほど。

 それでは勝てるはずもない。

 先代当主の人脈など本家の人間であれば簡単に調べられる。遺言の指し示す場所を割り出したあとなら、絞り込みは尚のこと容易だったろう。

 情報戦のアドバンテージは向こうに大きく傾いている。

 俺たちに圧勝する算段が、最初から獅賀明臣にはあったのだ。


「これらは二つ揃ってはじめて暗号の鍵となる。咎人の詩歌は補助的な役割を果たすだけのデコイにすぎない。大方、そこの出来損ないが気づけなかった時のためにヒントを示していたんだろう。残念ながら、それでも辿り着けないほどの無能だったわけだが」


 これみよがしに織目さんを侮蔑したあと、御曹司は付き人に人形を放り投げた。寡黙な従者は遺品の粗暴な扱いに驚きもせず、危なげなく受け取った人形を持ったまま無表情に佇む。

 ふつふつと蕗たちの煮え滾るような感情が伝わってくる。

 尖った空気が肌に突き刺さるようだ。

 けれど御曹司は不穏な気配にかまいもせず、薄ら笑いながら先を続けた。


「人形のサイズと図の縮尺の度合いは完全に一致している。同じような内容を延々と繰り返す詩の中で、着目すべきはただひとつ……“不義なる富”の位置だ」


 示されたのは順序通りなら四番目の文章だ。本来なら人形の右肩がある位置……この偽ベルメールでは二つある下半身の上部左大腿の付け根に、問題の“不義なる富は幻となり”の記述がある。たしか、大和が怪談との関連を指摘した箇所だった。

 ……そして俺は、獅賀明臣の言わんとすることを理解した。

 簡略化された風景画のような刑場の古い見取り図。紙面と人形を重ねると、『富』の文字がある位置には花をつけた木が描かれていた。

 そこにはこう銘が打ってある――――「霞桜(かすみざくら)」と。

 誰もが唖然とする中、大和がぽつりとつぶやく。


「……石碑があった場所だ」

「その通り――せっかく正解の一歩手前まで近づけていたのに、残念だったな」


 呆けたように立ち尽くす俺たちを、獅賀明臣は嗜虐的にせせら笑う。


「この土砂は二十四年前の氾濫によって積み上げられた。豪雨によって増加した川の水が、桜の老木をへし折って飲み込んだ。問題の石碑は古い桜が失われたことを惜しんだ物好きが設置したものだ。さらに土砂を切り崩せば老木の残骸も見つかるだろう。

 さて……“死の足元に罪は開かれる”。

 『死の足元』は場所、『罪』とは財宝の暗喩だ。“不義なる富は幻となり”が地に埋もれた遺産の存在を補強する。

 “亡骸がせめて花の許にあれば”――折れた桜は墓標たりえず、目印はあくまで慰霊碑ということになる。これで位置は確定した。あとは…………おい」


 不遜な態度で従者を呼ぶ。たったそれだけで意味が通じたようだ。

 軽く袖を捲った青年は土砂の山の前に跪くと、そのまま石碑の下を掘り返しはじめた。

 道具など使わず、節くれだった指で。

 ――それは異様な光景だった。

 いくら雇用先の継子からの命令とはいえ、成年を越えた人間が犬の真似事のような行動を強制されて、なにも感じないのだろうか? ……それとも、獅賀の家ではこれが普通なのか。

 特殊すぎる閉じた関係に理解が追いつかない。

 あまりにも不気味な状況に、周りの困惑した気配が伝わってくる。


「……見つかっちゃうのかな」


 顔を向けると、うつむいた蕗が身体を強張らせていた。

 声には不安といくばくかの悔しさが滲む。

 それはわからない。俺の中には返せる答えがなかった。

 いま明かされた情報はすべて未知のもので、検証するには圧倒的に時間が足りない。きっと結果が出るのはそれよりずっと早いだろう。

 織目さんとミシェルは同じ姿勢で佇んでいた。意識したのかはわからないが、小さなエージェントは天才と目された少女を守るように立つ。

 大和はさすがに緊張した視線で機械じみた従者の背中を注視し、霧小路さんが祈るように両手を握る。桂姉や芳倉さんもまた、蕗と同じく不安を隠しきれない面持ちで推移を見守っていた。

 この場の全員の視線を背負う寡黙な青年は……やがて、ぴたりと腕を止めた。


「――――ありました」


 息をのむ音がする。蕗が悲鳴をこらえるみたいに歯をくいしばっていた。

 静かに振り向いた青年の手には、土にまみれた小さなアタッシュケースがあった。深く埋まっていたわりに外装はまだ新しい。単行本よりすこし大きい程度のサイズだが、いかにも頑強な拵えのそれはずっしりと重たそうに見えた。

 彼は主人に宝を捧げるように、恭しく汚れた銀灰色の塊を掲げる。


「開けろ。その手で中身には触れるなよ」

「はい」


 横柄な物言いにも従順に頷いて、地面の上でアタッシュケースに手をかける。どうやら鍵はかかっていないようだ。

 ざりざりと噛んでいた砂を吐き出した留め具が跳ね上がる。

 まるで下された命令そのものが財宝であるかのように、青年が慎重な手つきで蓋を開いた。


「なに、あれ……」


 誰かが愕然とつぶやく。

 視線が青年の手に集中する。

 開かれたケースの中には――淡く輝く金板があった。


「ふん……“小判金”か。リストにあった失われたコレクションのひとつだ。暗号解読の対価にこんなものを選ぶとは、実にお祖父様らしい」


 歩み寄った御曹司が無造作に一枚を摘まみあげる。

 それを実際に目にしたのはこれがはじめてだ。俺にはせいぜい時代劇で使われる小道具程度の認識しかない。古い貨幣であることは承知しているが、日常的になじみがなさすぎた。

 濃紫の袱紗のようなクッションに収められた十枚ほどの金貨は、俺が知るものよりもシンプルな造形をしていた。

 特徴的な横向きの溝がほぼなく、形もなんとなく不揃いで歪だ。

 はたして、あれは本物なのだろうか?


『……おそらく、宝永小判だと思います。……別名“乾字金(けんじきん)”とも呼ばれる、江戸幕府で三番目に流通した小判です』

「え、あれって本物なんですか?」

『はっきりと見ていないので、真贋までは……ただ、もし実際の宝永小判であれば、一枚あたり百万円前後の値がつくかと』

「い、一枚、百万円……!?」


 答えを聞いた芳倉さんが目を見開く。

 すごいな……それが本当なら、この場所には一千万近い遺産が、すくなくとも一年以上は眠っていたということになるのか。

 いくら今生の際の思いつきとはいえ、とても真似できない大胆な行動だ。

 ……そして、立ち尽くす織目さんにわざわざ近づいて、獅賀明臣はこれみよがしに嗤った。


「お祖父様が最後に情けをかけてくださったというのに……気分はどうだ? 小夜子。手に入るはずだった大金を、目前でとり逃がしたいまの気分は? せっかく必死になってガラクタの知識まで覚えて媚を売ったのに、すべて無駄になってしまったなあ?

 だが、恨むのなら無能な自分自身と、ランクの低い仲間しか集められなかった不運を恨め。――――ああ、そうだ。そこの全員で土下座でもしてみるか? 虫ケラらしく無様に這いつくばって懇願すれば、あるいは一枚譲渡するぐらいは考えてやっても……」

『……いりません』


 止めどなく吐き出される雑言を、震える声が遮った。

 しん、と空気が凍る。

 調子づいていた御曹司は、それが予想外の反応だったのか、口を開いたままの状態で固まった。


「は……?」

『高価な宝永小判など私には必要ありません……お祖父様の人形も、欲しいのであれば差し上げます』


 ライオンの頭が、ゆっくりと持ち上がる。

 まっすぐに前を見つめて、織目さんは言った。


『ですから、いま侮辱したことを皆さんに謝ってください。大切な人たちを傷つけられることだけは、なにがあっても許せません』


 臆さず。

 怯みもせず。

 かつて項垂れて震えるだけだった少女とは別人みたいに、織目さんはしゃんと綺麗に背筋を伸ばして、降り注ぐ悪意に今度こそ力強く抗ってみせた。


「あ、謝る……? は……お前、誰に向かって口を利いてるつもりだ?」

『私は兄様に申し上げています。――先程の発言を取り消して、謝罪してください。ここにいる皆さんは、けして兄様が悪し様に言うような方々ではありません』

「ふざけるなッ!!」


 怒号が響き渡った。

 さっきまでの余裕を見る影もなく削ぎ落とした御曹司が、悪鬼のような表情を浮かべて織目さんを睨みつけていた。

 唐突な豹変に周囲から驚愕する気配が漂う。

 目的の遺品を手に入れられなかった事実はなにひとつ変わらないというのに、相手との形勢だけがすっかり逆転してしまっていた。

 その原因は、おそらく……


「遺産が必要ないだと……そんなわけないだろう? お前はお祖父様の庇護なくして生きられない弱い人間だ。他には塵ひとつも価値のない虫ケラだろうが…………それとも、すでにお祖父様から受けた恩を忘れたとでも言うつもりか? ……あれほど苦労をかけておきながら、貴様は……っ!」

「なあ……それぐらいにしとけよ、お坊ちゃん」


 もう、ここらが潮時だろう。

 こちらの望む結果は得られた。このまま口論を続けても無意味な泥仕合にしかならない。

 それに、そろそろ織目さんだって限界のはずだ。

 ……俺がはじめてしまった勝負に幕を引くのは、もうここでいい。

 ぎょろりと血走った目を向けてくる名家の嫡男に、俺は終幕へ向かう問いを投げかけた。


「……お前が欲しかったものは、それじゃないんだろう?」


 水を打ったように静まり返る。

 困惑した気配が方々から発せられた。

 ただ一人……憤怒の形相を浮かべた、獅賀明臣を除いて。


「……部外者が知った風な口を利くな」

「へえ、なら満足したのか? 腹違いの妹が受け取るはずだった遺産を横取りして、死にかけの爺さんが遺した古いだけの小銭を、貴重な時間を浪費してまで手に入れ……っ!」


 肉迫した御曹司に胸倉を掴まれる。

 身長差はあまりない。憎悪に燃える眼差しが、至近距離で俺を射抜いた。

 慌てて駆け寄ろうとする蕗たちを手だけで制止して、俺は真っ向からドス黒い視線と向かい合う。


「どうした。せっかくの戦利品を馬鹿にされて怒ったのか?」

「…………黙れ」

「別にいいじゃないか。お前はゲームに勝って、一千万もの大金を手に入れたんだ。名家の跡取りからすればたいしたことない額かもしれないが、こづかいの足しにでもすればいい」

「…………黙れ」

「ああ、それとも自慢の祖父を貶されたのが気に障ったのかな? お前、自分は俺の家族を意気揚々と罵倒したくせに、随分と器の小さい……」

「うるさいッ、黙れ!」


 叫ぶと同時に拳が振りかざされて、周囲から短い悲鳴があがる。

 ……しかし、顔面に届く前にその腕を掴んで止めた。黙って殴られるいわれもない。

 理性を失くした御曹司は振りほどこうと必死にもがいたが、とくに鍛えてもいない細腕を拘束するのにさほどの労もなかった。

 こちとらどこかの大喰らいのおかげで月に何度も十キロの米を担いで帰っている身だ。そうそう体力で頭でっかちの秀才に負けるつもりもない。

 暴れ回る身体を逆に押さえつけて、額がつくほどの距離で相手の目を見返す。


「そうやって傍若無人に振る舞えば、本当に欲しいものは手に入るのか? ――甘ったれるのもいい加減にしろ、獅賀明臣。祖父さんにかまって欲しかったのなら、本人に直接そう言えばよかったんだ。妹に八つ当たりしてんじゃねえよ」


 ――沈黙。

 動きを止めた御曹司が、目を瞠って硬直する。

 これは図星を突いたか、それとも、はじめて自覚したのか……。

 なんにせよ、続いていた抵抗はピタリと止んだ。


「……ち、違う…………八つ当たりなど、僕は……」

「なら、お前はなぜ織目さんに執着するんだ? たとえば獅賀家の財産を奪われるから? ……ありえない。もう織目さんはなにも持っちゃいない。名前ごとごっそりお前たちに奪われたんだ、そんな事情は彼女の身の上を知ればすぐにわかる。

 じゃあこの隠し財産を先に発見されたくなかったからか。

 それこそふざけた話だ。お前は妹が暗号の解読に向かないことをよく知ってる。実際に織目さんは俺が示唆するまで、暗号の可能性を疑うことすらなかった。警戒では、わざわざ蛇蝎のごとく忌み嫌う相手に接触して対立を煽る動機としては弱すぎる」


 じわじわと追い詰められる御曹司の視線がさまよう。

 あきらかに動揺していた。……けれど、容赦はしない。

 今後の面倒を断ち切るために、ここできっちり心を折っておく。


「お前はどうしても織目さんを傷つけたかった。それはなぜか?

 ――“嫉妬”したからだ。尊敬する祖父に目をかけられた才能を持つ妹に、自分では決して追いつけないと理解してしまったから。だから、お前は妹を憎まずにはいられなかった」

「違うっ! 羽虫の分際で、適当なことをぬかすな!」

「だったら理由を言ってみろ。お互い二度と関わらないという制約を破ってまで、散々傷つけて住む家すら奪った無力な女の子を追いかけてきた理由を」


 端整な顔からは、すでに血の気が失われていた。

 青褪めた表情にはついさっきまでの覇気は微塵も見当たらない。

 ……ずっと目をそらしてきた、決して認めたくない本音を、強制的に自覚させられたから。

 つい最近、俺自身も経験したからよくわかる。準備も覚悟もなく心の最奥に隠してきた弱い部分に触れるのは、二度と立ち上がれなくなるほどつらい。こいつのようにプライドの塊みたいな人間なら尚のこと。

 誰よりも攻撃的な人間は、誰よりも傷つくことを恐れる臆病者だ。


「お前はデパートのおもちゃ売り場で駄々をこねる子供と一緒だよ。いくら泣きわめいたって本当に欲しいものは手に入らない。もう、祖父さんはこの世にいないんだ」

「う……うるさ、い……」

「受け入れられたいのなら、まずは自分が受け入れろ。お前と織目さんの違いはそこだ。たまたま貴嗣の好きなものと織目さんの適性が合致したって、たったそれだけのことだろうが。……だいたい、祖父さんはお前のことだって気にかけていたんじゃないのか? 大切にされなかった相手ならこうもこだわることはない。お前がいままで執着を捨て去れていないのが、そのなによりの証左だ」

「……うるさいうるさいうるさいッ!!」


 絶叫する。より強い力で、胸元を締めあげられた。

 獅賀明臣の顔は歪んでいた。怒りなのか混乱なのかはわからない。

 ただその切迫した表情は、決壊しそうな感情を無理矢理に押し殺しているようにも見えた。


「お前になにがわかる!? 赤の他人のお前に! 僕のなにがッ!」

「わかるかよ……自分の不足を認められずに無抵抗の妹を傷めつけるやつの気持ちなんて、一ミリたりともわからんし、理解したくもない」


 でも。

 そうだとしても。


「そろそろ自力で歩けよ、獅賀明臣。後悔なんて燃料じゃ人は前に進めないんだ。いい加減に気兼ねなく胸張って歩ける方法探さないと、いずれ一つの願いも叶えられずに破滅する。

 ――お前、誰よりも認められたかった獅賀貴嗣の孫なんだろうが」


 返事はなかった。ぷつりと糸の切れた人形みたいに脱力した御曹司の身体を、うしろから寡黙な従者が静かに支える。

 ……驚いた。いつのまに近寄っていたのか、まったく気づかなかった。

 獅賀が錯乱しようと一度も手を出すことのなかった青年は、そのまま森の出口へと物言わぬ主人を誘導するように歩き去っていく。その無機質な顔つきからは、どんな感情も読み取ることができない。

 やがて二人の姿が視界から消えたところで、俺は詰めていた大きく息を吐き出した。


「アキにぃ! 大丈夫!?」


 血相を変えた蕗が飛びついてきた。

 いや、もうこの衝撃ですらいまは深刻なダメージなんだが、お前はいつになったら加減というものを覚えるのか。

 へたりこみそうになるのを残りカスの気力で堪えつつ、猪のような妹の突進を受け止めた。


「……結局、タカツグが後継をうまく育成できていなかったということね……あの不器用な男がきちんと孫を観察していれば、小夜子を取り巻く環境もここまで悪化することはなかった」


 咎めるような声音でミシェルがつぶやく。

 ……その結論はどうだろう?

 誰しも相手のことを完全に理解しきれるわけではない。たとえ、それが家族の間柄であったとしても。獅賀貴嗣が不器用な性格だったのに異論はないが、孫の明臣が歪んだことに関しては、閉鎖的な環境もいくらか影響しているのではないかと思う。

 まあ、そこら辺は子育てという未知の領分なので、俺がどうこう言えるものでもないが。


 ふと視線を向けると、織目さんはじっと森の先を見つめていた。

 道の向こうへ消えた二人の背中を追いかけるように。


「すまん、織目さん……これが限界だった」


 思わずこぼした謝罪に、ライオンの頭がゆっくりと振られる。


『いいえ……ありがとうございました、新屋さん…………きっと、これが最良だったと思います』


 声は力なくかすれていた。しかし、その口調から後悔の念は感じられない。

 最初に間違えたのは俺だ。

 この問題は、勝負になんてするべきではなかった。

 おかげで進むべき道を見失って、みんなを巻き添えに盛大に迷うことになった。

 ひょっとしてもっと他の手段を選んでいれば、いろんなところで被害を出さずに済んだんじゃないか……そんな風に思い返すと、たやすく酷い自己嫌悪に陥りそうになる。

 本当に目指すべきだったのは、そう。


 ――織目さんが、自分で決着をつけること。


 彼女の歩くペースは、たぶん余人よりもゆっくりだ。

 だというのに、俺は結果を焦るあまり、彼女に無理をさせ続けてしまった。

 その結果がすこし前の空中分解なのだから笑えない。危うく取り返しがつかなくなるところだった。


 獅賀の要求なんて無視すればよかったのだ。

 大切なのは、織目さんが自分の心に折り合いをつけられるかどうか。

 なんなら祖父の遺産だって、絶対に必要だったとは言いがたい。

 騒動の根っこにある真に解決すべき問題を、俺は完全に見誤っていた。


『……昔、私がまだアンティークを知らなかった頃……兄様は、あれほど辛辣な言葉を口にしない人でした。私のことを警戒してはいましたが…………それでも、いまより幸せそうに笑うことも、あったように思います』


 独白じみた昔語りを、黙って聞く。

 たぶん、そう。

 織目さんは、あの兄でさえも傷つけたくなかった。

 たとえ嫌いになった相手でも、彼女は他人が傷つくことをひどく厭う。

 だからこそ俺はこの解決が最善と思い、全力を尽くした。


「いまはまだ、だな」

『はい……これからじっくり時間をかけて、考えてみます』


 覆面で見えないが、そう言った彼女は微笑んでいるように思えた。



        ◇



「でもさー、これってどうなるの? おじいちゃんの遺品は持ってかれちゃったし」

「試合に負けて、勝負に勝った……って感じなのかな?」


 幾分か弛緩した雰囲気が流れる中で、中学生二人組がそんな感想を口にする。

 勝利条件を満たしていない上、なにかが解決したわけでもないので、その前提だとこちらの完全敗退ではないかと思うのだがいかがなものか。


 神経の酷使で凝った首筋を伸ばすように頭上を仰ぐ。

 紫がかった夕暮れの空は、間もなく訪れる夜の気配を濃厚に漂わせている。

 ……長い一週間だった。

 織目さんとはじめて会った日を始点とすれば二ヶ月以上が経ったのか。

 ひたすら悩まされ続けた問題から、これでようやく解放される。


「さて……それじゃあ、行くか」


 呼びかけると、皆がきょとんとした表情になる。

 いかにも不思議そうな顔で蕗が訊ねてきた。


「行くって、どこに……? もう帰るんじゃないの?」

「いや、まだだ。早めに行っとかないと、落ち着かないだろ?」


 ますます困惑する妹に向けて、このあとの行き先を告げた。


「獅賀貴嗣の本当の遺産を探しに行くんだよ」

「――――――は?」



 全員の声がきれいに揃った。







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