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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第8章 獅子とアンティーク
33/37

獅子とアンティーク 5







 ――その場所は長い坂道の上にあった。

 勾配はさほど急でもないが、とにかく道程が長い。だらだら続くゆるい傾斜を歩きながら、首筋に伝う汗を拭う。毎度のことだが夏に訪れるのはキツい所だ。目的地は近くに駐車場がないので、車で来てもこの坂道を歩く苦行は免れない。

 徐々に強くなる陽射しに首筋を焼かれつつ、だるくなる足をえっちらおっちら動かして、ようやく丘の頂上に辿り着いた。


 大きく息を吐いて景色を見渡す。今度こそ、たしかに植物のにおいがした。

 夏の訪れに先立って青々と葉を茂らせた並木。先日までの長雨の名残か、湿った土のにおいも混じっている。

 あとは――――線香の煙と、季節外れの菊の香り。


 その場所は墓地だった。

 外観としては霊園や公園墓地と呼ぶ方が相応しいか。呼称が持つ一般的なイメージの陰鬱さはなく、素っ気ないほど整然と墓標が並ぶ風景は開けて明るい。聞いたところによると、できてまだ十年そこらの新しい墓所だそうだ。


 ここに、俺の両親が眠っている。


 手配してくれたのは新屋のおじさん達だった。身寄りのない父と母には当然ながら入る予定の墓なんてものはない。とはいえ作らない家も最近は多いそうなのだが、おじさんたちは当然のようにここで供養する方法を選んだ。

 幼い俺に両親との別れを受け入れる機会と時間を残してくれた。

 おじさんは自分達のためと言ったが、俺はそういうことなのだと思っている。


 夏の命日には家族揃って墓前で手を合わせるのが新屋家の恒例行事になっていた。

 だが俺が一人で訪ねるのははじめてだ。両親の命日もまだ先。

 今日、ここには決着をつけに来た。

 とはいえ、具体的になにをと訊かれても答えはない。

 強いて言うなら俺の根っこの部分の問題だ。

 それは確実にここにある。

 自分でもはっきり“異常”と感じられる反応は、この場所で最も明確に出る。


「思ったより気にしてたな、ばあさんに言われたこと……」


 情けない話だ。

 会ったばかりの人間に予想外の核心を突かれて、見事に動揺した。

 大和は知ったかぶりと笑ったが、俺の感想はすこし違う。

 “軸が見えない”と小金井のばあさんは断言した。

 それを聞いた俺は、思い出したのだ。――――結局、自分があの日から一歩も前に進めていないという事実を。


「……やっぱり、だめか」


 苦いつぶやきがもれた。かすかに膝が震えている。まるで自分の身体じゃないみたいだ。

 霊園に踏み出そうとした足は、入口の手前で止まっていた。

 まるで地面と靴底を縫い合わされたかのように、そこから一歩も動けそうにない。

 さっきとはまるで違う冷たい汗が、首筋を滑り落ちていく。


「どうしたの?」


 背後から聴こえた声にハッとする。

 我に返って振り向くと、背後に困ったような表情の女性が立っていた。傍らの四、五歳ぐらいの女の子が不思議そうに俺を見上げている。声をかけてきたのはその子供の方だ。

 なんのことはない、俺が道を塞いでいたのだ。


「あ……す、すみません」


 慌てて脇にずれる。子供と手を繋いだ母親らしき女性は、頭を下げて足早に通りすぎた。どうも警戒させてしまったようだ。……まあ、人相の悪い男が道の真ん中でぼんやり立っていれば、訝しく思うのも仕方ない。誰だって同じような反応をするだろう。小さい子供連れなら尚のこと。警戒心だって跳ね上がる。

 何度かこちらを振り返った女の子は、やがて不審な人物に興味を失くしたのか、前を向いて通路を遠ざかって行った。

 詰めていた息を吐き出して、天を仰ぐ。

 ……だめだった。

 なんの対策もなく当然といえば当然なのだが、切羽詰ったいまの状況ならあるいは、という期待もあったのだ。

 もちろん結果は惨敗。

 七年前となにも変わっていない。


 新屋家に引き取られてから、俺は一度も両親の墓を見たことがなかった。


 はじめてここを訪れた時、墓地に踏み入った俺は、嘔吐感とともにその場で蹲って動けなくなった。急に周りから酸素がなくなって、胃をわし掴みにされたような不快感。

 いまでも原因はわからない。……ただ、そこに行くのが強烈に嫌だと感じた。

 結局、おじさんに付き添われて外のベンチで待つことになった。

 それが毎年恒例の新屋家の墓参り。掃除はおばさんや桂姉たちがやってくれている。なんとも薄情な息子だと思うが、もう個人ではどうにもできる気がしなかった。


「情けない話だ……本当に」


 ふらふらとおなじみのベンチに腰を落とす。

 いつもはここで缶コーヒー片手におじさんと他愛もない話をするのだが、今日はその相手もいない。

 ――いない、はずだった。


「随分と景気の悪い顔ね、探偵さん?」


 落ちた視界に子供用と見紛うサイズのショートブーツが入り込んだ。

 驚いて顔を上げると、西洋人形のように整った小さな顔が、俺を正面から見据えていた。


「ミシェル……お前、いつから……」

「あなたが迷惑なオブジェになった瞬間なら見たわね」


 ほぼ全部じゃねーか。恥ずかしすぎるだろ、おい。

 それより……なぜこいつがここにいる。

 今日の行き先なんて誰にも言っていない。可能性は、思いつかなくもないが……。

 しかし、俺が考えを巡らせるより先に、あっさりと答えが明かされた。


「ケイに頼んでいたのよ、あなたが動いたら知らせるように。そうなる確信はあったわ」

「過大評価だな。俺の性格はミシェルが思うよりあきらめやすい」

「でも、いまは違う。今回の件に関しては、ニーヤは簡単に手を放せない」


 でしょう? とミシェルが小首を傾げた。

 冷静な反論になにも言い返せず、低く呻いて口を噤む。

 ここにいる時点ですでに言い訳は無意味なのだが、それでも正面切って指摘されると気恥ずかしいものがある。


「原因ならわかるわよ」

「……は?」

「ニーヤがそうなった原因がわかると言ったの。もちろん絶対というわけではないけれど、それでも発端となった心理的な要因はわかる……あなたと私は似た者同士だから」


 いつか聞いた言葉を口にして、空を湛えた双眸が俺を縫い止める。

 不思議と彼女の意思が伝わる気がした。……なるほど、“似た者同士”。思考のパターンに意外と共通点があるのかもしれない。

 ならミシェルがこれから言うことは――


「この辺りの喫茶店は遠いぞ? 歩きだとたぶん三十分以上かかる」

「あら、そう。だったら安物のレモンティーで我慢してあげるわ」


 可憐に、傲慢に、小さな淑女は髪をかき上げた。


「話をしましょう――それは、どうしようもなかった子供の、くだらない昔語りだけれど」



        ◇



 冷たいペットボトルを受け取ったミシェルは、早速キャップを開けて口をつけた。

 喉が渇いていたのかもしれない。聞けばタクシーでここまで来たそうなので、本人はまったく動いていないはずなのだが、やはり上がり続ける気温のせいだろうか。実に威勢のいい飲みっぷりだ。はたしてレディーとやらがそれでいいのか、と思わなくもない。

 隣のミシェルは美味しそうにアイスレモンティーを飲む。

 俺はそのあどけなくも整った横顔をじっと見る。

 まだ蓋も開いていない缶コーヒーを持って。

 ……帰ってくるなり持たされた日傘を、ミシェルの上に差しかけたまま。


「そんなに熱心に見つめて、ニーヤはこのわたしに求婚でもするつもりなのかしら?」

「欧州ではパラソルスタンド扱いされた男が愛を囁くのがスタンダードなのか?」

「レディーの求める役割を粛々とこなすのが紳士というものよ」

「紳士に人権はないのか」


 便利グッズの別称じゃないんだぞ、紳士ってのは。

 仕方なく片手で苦労しながらプルタブを開ける。たかが缶コーヒーを飲むだけで、なぜこんなに大変な思いをしなければならないのか。すこしぬるくなったブラックコーヒーがいつもより苦く感じられた。


「……あなたはおかしな男ね」

「ここからまだこきおろすとか、どれほどお上品な教育を受けてらしたんですかね……」

「それでも、楽しいわ」


 急に移り変わった声音にギョッとする。

 足元を見つめる少女は、胸に手を当てて微笑んでいた。

 おそらくは本人も自覚していない、自然にあふれたような喜色の滲む表情で。


「わたし、元難民なの」

「な……」

「住んでいた地域で紛争が起きて、わたしと両親は生まれた国を追われた。とはいってもほんの幼い頃のことだから、あまり詳しくは覚えていないのだけど」


 内容の重苦しさとは裏腹に、彼女はあっけらかんとした口調で言う。

 俺はといえば、想定外すぎる話に思考が追いついていなかった。

 知識だけなら報道から得られる遠い国の出来事は、実際に耳にすると、あまりにも日常とかけ離れすぎて現実味が薄い。

 そんな視線に気づいたのか、ミシェルは小さく肩をすくめた。


「この世界ではそう珍しくもない話よ。いざこざで母国から避難した一家が、なんとか受け入れてくれる国に辿り着いて、幸運を重ねた末に働く場所と住む家を見つけた。招かれたわけでもない国でまっとうな仕事に就ける人間の方が稀だし、雨が降れば床が水浸しになるチーズみたいな屋根のアパルトマンだったけど、それでもわたしたちは不幸ではなかったわ。たとえ夕飯のスープが薄い塩の味しかしなくても、パパとママンが笑顔でいる時間が永遠に続くと、幼く浅はかな子供は信じて疑わなかった」


 口調はずっと変わらない。

 ミシェルは淡々と、まるで昨日の夕飯のメニューでも諳んじるように、その後の悲劇を呆気なく口にした。


「ある日、急にママンはいなくなったわ。しばらく経ってから知らない男と朝一番の列車に乗ったって噂を聞いた。真相はわからないけど、たぶんその通りなんだと思う。きっとわたしとママンの幸せは違ったのね。

 ……あとには、三流以下の脚本家でも思いつくような末路しか残らなかった。わかりやすい家庭の崩壊、酒とギャンブルに溺れた父親の原因不明の事故死。住み家から追い出された娘はスラム街と呼ばれる地区に逃げのびて、物乞いとゴミ漁りで飢えをしのぐ方法を覚えた……ありふれた悲劇の、どこにでもあるうちの一つよ」


 ここに来て、俺の頭はゆるやかにだがようやく動きはじめていた。

 大変だったな、とか。どこにでもあるなんて言うなよ、とか……そんな意味のない慰めがいくつも浮かぶ。

 ――そう、意味がない。

 彼女は事実を語っただけだ。口先の同情や激励なんて、腐りきった生ゴミより価値がない。大和みたいに図々しく絡んでくる方がまだマシだ。善人を気取る連中の自己満足の捌け口に利用される虚しさは、俺も何度となく経験している。

 いまは傷を舐めあう時間じゃないし、誰もそんなことは望んでいない。

 だから、必要なことをしよう。

 話を聞いて、一つ思いついた可能性があった。


「……ミシェルも、こうなるのか?」


 確信もないまま曖昧に訊ねると、幼い顔に満足げな表情が浮かぶ。

 どうやら選択は間違っていないらしい。


「ええ、そうよ。場所はボスが用意してくれたのだけど、わたしはパパの前でまだ一度も祈りを捧げていない……まだ、辿り着けないの」


 同じだった。

 俺と同じように、ミシェルもまた過去を乗り越えきれずいる。

 ミシェルは原因がわかると言った。なら彼女はなんらかの答えを得たのか。

 ……この、得体の知れない不気味な感情に。


「ねえニーヤ。あなた、よく鈍感って言われない?」

「はあ?」


 いきなりなんの話だ。その質問と現状になんの関係がある。

 困惑しながら考えたが……よくわからない。多少なら自覚もあるものの、さすがに面と向かって批評されたことはないはずだ。……たぶん。


「周囲の言動には過剰なほど気を配って、一度でも懐に入れた相手は身を削ってでも助けようとするのに、自分の痛みには無頓着で気に留める素振りさえない……そういうところでしょうね、サヨコが心配したのは」

「お、織目さんのことは、関係ないだろ……」

「関係あるわよ。よくもわたしの未来の収入源を泣かせてくれたわね」


 な、泣いたのか……織目さん。

 正直ちょっとは覚悟もしていたが、いざ事実として聞かされると動揺する。

 あと、お前は本当に歯に衣着せることを覚えろと心の底から思う。

 どうせ照れ隠しのつもりだとわかってはいるが。


「ニーヤは自分の気持ちを軽視しすぎるの。だから、こんな単純な答えにも気づけなくなる。……いい? わたしたちが過去と正面から向き合えないのはね、思い出したくない記憶を鮮明に呼び覚ましてしまうから。それを思い返すことは、耐えがたい苦痛なの。

 “自分さえいなければ、大切な人は死なずに済んだのかもしれない”なんていう、強い後悔の記憶は」


 ――横っ面をブン殴られた気がした。

 思考が乱れる。

 馬鹿な。その結論はいくらなんでも乱暴すぎる。

 反論しようとして……喉が、震えた。


「あ、ありえない。だいいち、そんな仮定は、合理的じゃ……」

「そうかしら? 本当に? 一度たりとも、考えたことはない? たとえ内容は違っても――自分のせいで家族が死んだ、って。

 もし、一緒について行っていれば。

 行かないでと泣いて引き止めていれば。

 見送る時に、なにか一言でも声をかけていれば」


 じっとこちらを見つめて、ミシェルは言う。


「こんな悲惨な未来にはならなかったかもしれない――って」


 ドクドクと心臓が音を鳴らす。呼吸が苦しくなって胸を押さえた。

 違う。そんなはずはない。そんな仮定は、してはならない。

 実現しなかった未来を夢想するのは無意味だ。それは俺の信条に反する。「新屋暁彦」という人間は、ひたすら合理的に事実だけを見る人間でなくてはならない。


 ああ、でも。


 …………俺が物事の整合性にこだわるようになったのは、いつからだったろう?


 フラッシュバックする。

 夏休みにテレビから流れた速報。鳴り響いた電話をおばさんが飛びつくようにとったこと。わけもわからず桂姉に抱きしめられたこと。火がついたような蕗の泣き声。ぼんやりしたまま時間がすぎて……気がつけば、知らない部屋にいた。

 見たこともない畳の部屋で、おじさんとおばさんは黒い服を着て、桂姉と蕗は俯いていて、周囲には噎せるような線香のにおいが満ちていた。

 俺は……そうだ。ずっと実感がわかなかった。

 もう両親には会えないと。これでお別れなのだと。

 閉じていく分厚い鉄の扉の向こうに、二つの棺が飲み込まれるのを眺めながら、俺はまるで夢を見ているみたいに、


    “……生まれてこなければ、よかった”



「あ……!?」


 内側から圧迫するように、鋭い痛みが頭を軋ませた。

 記憶が、奔流する。


 ――覚えている。

 はじめてさか上がりができた日のこと。

 一人で自転車に乗れた日のこと。

 運動会のかけっこで一等をとった日のこと。

 はしゃぎすぎた父さんが顔を真っ赤にした母さんに叱られて、シートの隅っこで項垂れていた。散歩に連れて行ってもらえない犬みたいだと言ったら、怒っていた母さんは声をあげて笑った。笑いながら、項垂れた父さんをデジカメで撮影していた。

 帰りにみんなでハンバーガーを食べた。

 父さんが頼んだ新メニューはハズレだった。

 母さんは「だから言ったでしょ」と呆れていた。

 店を出ると、空はもう夕暮れだった。

 すこし冷たくなった風の中を、三人で手を繋いで家に帰った。


 大切だった。世界中の誰よりも。

 生きていてほしかった…………いなくならないでほしかった。


 覚えている。全部。

 忘れたつもりになって、記憶の奥底に閉じこめただけ。

 そうしなければ、きっと俺は――――


「そうね――大きな間違いだわ」


 やさしい声で意識が覚醒する……同時に、強い力で引き寄せられた。

 ぽす、と顔がやわらかなものに包まれる。


「親が死んだのはわたしたちのせいではないし、未来でなにが起きるかなんて誰にもわからない……けど、遺された人間はどうしても自分を責めてしまう。思いつめて、苦しんで…………どこかで歪んでしまうの」


 ミシェルの紡ぐ言葉が鼓膜をくすぐる。

 いつもの彼女らしくない、しかしそれこそが彼女の本質なのだろう慈愛に満ちた声を、俺は混乱した頭で聞いていた。


「わたしはあなたよりすこしだけ早く現実を知った。暴力と理不尽がそこら中に転がっている街で、自分がどれほど無力な存在なのかを思い知らされた。それぐらいあそこは命の価値が低い場所だったのよ。

 でも、いまはよかったと思えるわ。……だって生意気なあなたの弱りきった姿をこうして見下ろせるんだもの。きっとこんなに気持ちのいいことはないわね」


 それは揶揄なのか、照れ隠しだったのか。

 ここからでは顔が見えずに判断がつかない。

 やわらかな指が髪をなでる。冷静になった俺はいい加減にこの体勢が恥ずかしくなってきたのだが、どうやらまだ放してはもらえないようだ。

 ……歪んでしまう、と彼女は言った。

 実際、そうなのだろう。

 早くに支えとなる存在を失くした子供は、周りよりちょっとだけ早く大人になる。そうしなければ生き残れないと、生物の本能が理解するから。……しかし、いつかはしわ寄せがくる。

 きっといまがそうだ。

 無力な自分を認めてこなかった俺は、こんなところで躓いてしまった。

 だけど、


「――まだ終わりじゃない」


 くすりと笑う気配が降ってくる。

 小さな手が離れた。解放された身体を起こして、こちらを覗き込む視線と向き合った。


「ええ、もちろん。……だってわたしたちは生きているんですもの」


 涼やかな声に頷いて応える。

 そう。生きている。

 だからまだ終わりじゃじゃない。

 たとえ躓いたって、生きてさえいれば再び立ち上がって進みだすことができる。


 俺は顔を上げて背後の霊園を見た。

 遺された生者を迎え入れるための門。

 いまはまだそこには行けない。

 だけど……いつか。

 密かな決意とともに、まだ遠い入口を眺めた。






 どちらからともなく立ち上がって、駅に続く道を歩きはじめる。

 すると、前方にさっきの親子連れが見えた。向こうはこちらに気づいていなかったが、なんとなく気まずくて歩調をゆるめた。ミシェルが含み笑いをしてペースを合わせてくれる。今日はやけにやさしいな。いつか揺り返しがくるんじゃないかと不安になる。

 そんなくだらないことを考えていると、母親の叫ぶ声が響いた。なにごとかと顔を向ける。急に走りだした子供が途中で転ぶのが見えた。

 ヒヤッとした。まだ下り坂の手前でよかったが……いや、そうじゃなく。

 こういうシーンを見ると、赤の他人でもつい動揺してしまう。

 随分と派手に転んだが大丈夫だろうか?

 よほど痛かったのか娘はなかなか起きようとしない。

 追いついた母親が声をかけるだけで手を貸さないことに、もどかしさが募る。

 ――しかし、幼い少女は自力で立ち上がった。

 手の甲で目を擦りながら。

 痛みをこらえるように肩を震わせて。

 差し出された小さな手を、母親の手がギュッと握る。

 ……ああ、そうか。

 母親も耐えていたのだ。わが子に危険を教えるために。

 繋いだ手とは反対の腕の強張りが、それを物語っているように見えた。

 今度は固く手を結んだ親子連れの背中がゆっくり遠ざかってゆく。


「……あれぐらいの歳になると、自分から立ち上がることを覚えるのよね。親がその機会を奪わなければの話だけど」


 身につまされる話だ。俺なんてきっとすぐに抱き上げてしまいそうな気がする。

 痛みを教えることだって教育なのだろう。自分に機会があるのかはまだわからないが、その時が来たら悩むことの方が多そうだ。

 それにしても、ミシェルは意外と母性が豊かだな。……いや、意外じゃないか。なんやかんやで織目さんの面倒を見てきたわけだし、恥ずかしながら俺も世話になった。

 外見は幼くとも彼女はもう立派な女性なのだ。侮っては無礼になる。

 今回などはとくにそれを思い知らされた。


 だから、俺は恥の上塗りを承知で声をかける。


「なあ、ミシェル……一つ、頼まれてくれないか」








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