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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第8章 獅子とアンティーク
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獅子とアンティーク 4









 その日は朝から雨が降っていた。

 暗い景色に反して寒気はそれほどでもなく、翌週には梅雨が明けるだろうと、朝の情報番組のキャスターが晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 六月が終わり、夏服に着替えた生徒たちの関心は、もっぱら間近に迫った期末テストとその先の夏休みに集中する。

 出かける人、バイトに明け暮れる予定の人、なんらかのイベントに参加する人……教室の中には、そんな悲喜交々の話題とテンションの高い笑い声があふれかえっていた。

 中にはすでに試験の存在を忘れている者もいるのかもしれない。そういう人間は往々にして補習という恒例行事に泣かされることになるのだが、おそらくその悲しい過去も覚えていないのだろう。長期休暇のはじめ頃、毎度のごとく泣く泣く登校する常連を何人か知っている。曰く、無人の下駄箱で靴を履き替える瞬間が一番ツライらしい。

 一応、それなりに勉強するために強制補習などと縁の遠い俺は、賑やかな教室を隅の自席からぼんやりと眺めている。

 高揚した空気は同調しないその他大勢をも綺麗に隠してくれる。


 だから、そう。

 誰もその変化には気づかなかった。

 クラスの外の出来事など誰の意識に留まることもない。

 現実に起こる些細な波風は、明日への期待と永遠に思える時間が押し流してしまう。

 平穏な日常だ。華やかな青春だ。高校生活とはかくあるべし。

 ずっと待ち望んでいたものが、すぐそこにある。


 放課後になっても絶えない話し声を背に、席を立つ。

 外から届く雨の音が、やけに耳障りだった。






 部室の扉を開くと、そこはまるで通夜の会場のようだった。

 狭い倉庫に湿気が充満している。

 物理的にも、心象的にも。

 先に来ていた部員二人の姿を見ると、背中にきのこでも生えているんじゃないかと不安になる。


「お疲れさん」


 そのうちの一人が弾かれたように顔を上げる。……が、変化しないはずの無表情には、すぐに落胆の色が滲んだ。


「ほう。人の顔を見るなり失望するとは、随分と嫌われたもんだな」

「あ、ち、ちが…………ごめ、なさい……」

「冗談だよ。本気にするな」


 軽く返して入口に一番近い席に腰かける。

 いつもならここらで大和の揶揄が飛んでくるところだが、どうやらあいつもそんな気力はないらしい。

 ただ霧小路さんとは違って、落ち込んでいるというよりも脱力しきった様子だった。いうなれば目標を見失った時のような。昔、一時期あいつの好きだったマイナーアイドルが引退と結婚を発表した時とすこし似ている。小遣いで買い集めたグッズのお焚き上げに付き合わされたのは非常に面倒くさかった。ちょうど秋だったこともあって、隣で焼き芋をしようとしたら怒られたのだ。あれはいまでも意味がわからない。


「暁彦、織目さんから連絡は?」

「まったく。相変わらずの音信不通だ」


 そもそも彼女はケータイを持っていないので、個人的に連絡はとれないのだが。

 ありのまま事実を伝えると、大和は「そっか」と嘆息して肩を竦める。

 こちらは予測していたのだろう。とくにがっかりしたという風ではない。


 ――織目さんが再び不登校になって、五日。


 獅賀の御曹司との直接対決は明後日の夕方。

 期限はすぐそこまで迫っている。


 けれど俺は焦っていなかった。

 なにしろ、もう急ぐ理由がない。


「……ちゃんと、ごはん食べてるか……心配……」

「そこらへんは大丈夫だろ。単身用アパートとはいえ、寮みたいなもんだからな。あそこは」


 会ったことはないが、世話焼きの管理人さんがなにかと入居者の面倒を見ているらしい。住人もちょっと……たぶん、ちょっとだけ、どことはいわないがおかしな人ばかりに見えたものの、最年少の織目さんにはよくしてくれているそうだ。

 なので、健康面の心配はないと思う。

 そう説いても、霧小路さんの顔色は晴れない。

 ……これ以上どうしろと。

 溜め息をついて、パイプ椅子にもたれた。


「前も説明しただろ? 織目さんは世界規模の企業から試験を出されていて、自分の意思でそれに答えることにしたんだ。今は課題の制作に集中してるんだろう。だから、そこまで心配しなくても、試験が終わればまた学校に来るようになるさ」

「本当に、そうなるかな」


 ぽつ、と。

 大和が疑問をこぼす。

 視線は正面に向けたまま、誰を見るでもなくやつは言う。


「おれも織目さんが選んだ道に反対はないよ。おれたちと同じ歳で、生き方を決められるほどの才能や努力は、純粋に尊敬する…………でもさ」


 幾分か逡巡しながら、続く言葉を口にした。


「……なんだか、このまま帰ってこないような気がするんだよね、織目さん」


 俯いた霧小路さんが、不意打ちで氷に触れたみたいに身を竦める。

 いままで誰も言わなかった。けれど、誰もが想像していたのかもしれない。

 否定するべきだ。

 織目さんは学校に来たがっていたし、友達ができたことを喜んでいた。

 あるはずのない未来を恐れて過剰な不安を抱くのは、あまりに非合理的すぎる。

 考えすぎだ、と一蹴しようとして――――しかし、声が出なかった。


「すまん……用事を思い出した」


 なんの意味もない言い訳をして立ち上がる。

 古いパイプ椅子の軋む音が、静かな部室の中でやけに大きく響いた。

 大和はこちらを見ない。悲しげな霧小路さんの眼差しから逃げるように、俺は急ぎ足で部室を出た。

 ように、ではない。

 ……逃げたのだ。

 計略でも、誰かを慮ったのでもなく。

 ただ気まずさに耐えきれず、部室から逃げ出した。


「……なにやってんだ、俺は」


 雨の降りしきる玄関口で立ち尽くす。

 コンコースを叩く水音はさっきよりも激しさを増して、まるで灰色の壁の前にいるようだ。

 帰ろうとして、玄関脇のスタンドに傘がないことに気づく。そういえば折り畳み傘を教室に置きっ放しだった。あまりの自分の間抜けさに、もはや溜め息すら出ない。

 抜け殻のように外を見る。

 視界を覆い尽くす雨は、当分の間、やみそうになかった。



 助けたい人がいた。

 乗り越えたい過去があった。


 その機会を…………俺は、もう失くしてしまった。



        ◇



「――新屋さんに、お話しがあります」


 雲の隙間から一条の光が差した。ぼんやりとした月明かりが、レトロなアパートの中庭をかすかに照らす。

 青白い光の元に、久しぶりに見る織目さんの素顔があった。

 獅子の顔を脱ぎ捨てた彼女は、夕刻の凪いだ海のように、穏やかな表情を浮かべていた。


「話ってなんだ?」

「お祖父様の遺言の探索を、中止していただきたいのです」


 突拍子もなく、織目さんはそう申し出た。

 しかし、それほど驚きはなかった。現状を鑑みれば、彼女ならそう言ってくるんじゃないかという予感があった。


「……理由を訊いてもいいか」

「私、お人形を作ろうと思います。ええと、つまり……『商会』の試験を、受けようかと」


 しかし、この答えは予想外だった。


「試験、受けるのか」

「そのつもりです。合格できるかは、わかりませんが……」

「いやいや、ちょっと待て……あんた、人形作れるのか?」

「はい。祖父の知り合いの人形師さんから、基礎はしっかり鍛えていただきましたので」


 いや、それは知ってる。そういう意味じゃない。

 とぼけた発言の真意が読めず、黙って顔を見返した。

 涼しげな切れ長の瞳が、困ったように笑う。


「すみません。すこし、緊張しているのです」

「あ、ああ……」


 ここ最近は彼女のずれたペースも掴めてきたと思っていた。

 だというのに、いまはまるで読み解ける気がしない。

 自ら古傷を抉ってみせる織目さんの考えが、まったくわからなかった。


「……この一年、私はずっと後悔していました。私がいなければ、多くの人が傷つかずに済んだ。…………獅賀の人たちも平穏に暮らせたかもしれない。ひょっとしたら、祖父はもっと長生きできたのではないか、と」


 それはおかしい。そんな仮定は大きな間違いだ。

 ……頭にはわかりきった否定が浮かぶのに、声を出すことができなかった。

 伏せていた織目さんの顔が上がる。

 その表情は、はじめて見た。

 いつも仮面の下で浮かべていたどれとも、たぶん違う。


 ――――彼女は笑っていた。


 神に仕える聖女のように。凍えた冬を終わらせる眩い陽射しのように。

 すべてを赦し、包み込むような笑顔で。

 ……綺麗だと思った。

 こんな状況だというのに俺は、その美しい微笑に見惚れてしまっていた。


「でも、いまは違います」

「……え?」

「それよりたくさんのものを、新屋さんにいただきましたから」


 俺、が……?

 馬鹿みたいに呆けた頭は、その発言の意味を理解しなかった。


「……私、普通に学校に通ってみたかったんです。母を馬鹿にされることも、“できそこない”と笑われることもなく、お友達と一緒に、学校へ。……部活に入ったり、お休みの日にお友達と出かけるような日々を、一度でいいからすごしてみたかった…………そんな夢を、新屋さんが叶えてくれたんです」


 違う……違うんだ、織目さん。

 そんなのは当たり前だ。誰もが持っていて当然の権利だ。もしそうできないのなら、それは周りの環境の方が間違っている。

 芳倉さんや霧小路さんと縁ができたのも、大和が歴史研究部に入ったのも、すべて織目さんが自分から足を踏み出した結果だ。俺はただあとづけの補助をしたにすぎない。たとえこれまでの問題が解決しなくたって、お節介でお人好しの彼女なら、きっと現在とそう変わらない未来をいつか引き寄せただろう。

 ……しかし、そんな当たり前を「夢」と言えてしまう場所で育った少女は、黒曜の瞳をかすかに潤ませて、満ち足りたように笑う。


「大切な人とたくさん出会えました。ミシェルさんとも、昔よりもっと近くなれた気がして……こんなに、幸せでいいのかと…………朝起きたら、夢から覚めちゃうんじゃないかって、いつも眠る前に怖くなるぐらい……本当に、毎日が楽しくて」


 ――だから。

 彼女はそう言って、意志のこもる眼差しをこちらに向けた。


「もう逃げません。私は、自分のなすべきことを行います」

「……お祖父さんのことはもういいのか」

「はい。いくら悔やんでも時間は戻りませんから」


 どうしてだろう。

 前向きな言葉のはずなのに、全然そう聞こえない。

 頷くこともできず立ち尽くす俺に向けて、織目さんはゆっくりと歩きだした。

 一歩、二歩。

 やがて、互いの吐息が交わるほどの距離で、彼女は俺と向かい合った。

 おもむろに細い手が上がって、思わず目を閉じる。……なにをされるのか見当がつかなくて怖い。こんな状況でなければ、とんでもない事故が起きそうな距離だ。

 そして、淡雪のように白い指先は、そっと俺の目元を撫でた。


「ゆっくり、休んでくださいね……」


 囁く声に鼓動が跳ねた。

 慌てて目を開く。

 慈しむようなやさしい笑みが、ふわりと頬を染めてすぐに離れた。

 彼女はうしろ向きに距離をとる。三歩離れたところで、くるりと背を向けた。

 立ち止まらない。

 あまりにも潔く、織目さんは自分の住家へ帰っていく。


「あ…………ま、また、明日……」


 遠ざかる背中に、焦って呼びかけた。

 他に言葉が思いつかなかった。我ながら情けなくなるような、かすれた声。

 織目さんは足を止めて、肩越しに振り返る。

 花のようにほころんだ人形師の少女は、


「――おやすみなさい。新屋さん」



 たったそれだけの、穏やかな声を残して。





 俺たちの前から姿を消した。




        ◇



 目覚めた時、窓の外はすでに白みはじめていた。

 気だるさの残る身体を起こす。伸びをして壁の時計を見ると、まだ六時にもなっていなかった。

 土曜の朝。この週末は中学、高校ともにテストの準備期間で部活はない。よって早くから朝食を作る必要もないのだが、普段の慣習で目が覚めてしまった。

 さて、どうしたものか。

 二度寝しようにも、眠気はもう訪れそうにない。

 ……とりあえず、コーヒーを淹れよう。

 考えるのはそれからでいい。すこし前までとは違い、時間はたっぷりとあるのだ。

 すっきりしない頭を一つ振って、俺はベッドから這い出した。






「ちょっと出かけてくる」


 朝食のあと、外行きの服に着替えてリビングに声をかけた。

 外行きとはいっても、普段着より多少は小綺麗といった程度のシャツとジーンズだ。一丁羅と呼べるほど気合いの入った服装でもない。


「……どこ行くの?」


 なぜか蕗に呼び止められた。

 ……珍しいな、こいつがそんなこと訊くの。いつもは適当な返事で送り出すか、ついでにアイスを強請るぐらいしかしないくせに。


「用事だよ。そんな遅くはならないと思う」

「あ、あのさ、アキにぃ……」

「なんだ? 言っとくが、アイスは買わないぞ。欲しいなら自分で行け」

「ち、違うし! そんなんじゃないし!」


 怒った蕗がソファーからガバッと起きあがる。

 じゃあなんだよ。

 黙って返事を待ったものの、とたんに狼狽えた蕗は視線をさまよわせるだけで、なかなか用件を口にしない。

 やがて挙動不審の妹は小さく溜め息をついた。


「……ううん。やっぱ、いいや……いってらっしゃい」


 ? 本当にどうした。そういうの、逆に気になるんだが……。

 しかし蕗はそれ以上なにも言わなかった。

 ここのところ、こいつも様子がおかしい。織目さんの意思を伝えた時はそれほど取り乱さなかったのに、変なやつだ。

 気にはなったが、そろそろ出ないと電車が来る。

 首を傾げつつ玄関に向かうと、ぱたぱたとスリッパの音が追いかけてきた。

 リビングで古紙をまとめていた桂姉である。


「暁彦ちゃん、今日の夕飯は私が作るわね」

「え?」


 唐突な申し出に驚く。

 別に我が家の姉が夕食を作るのは珍しい話ではない。むしろ俺が部活をはじめてからは、交替してもらう機会も増えた……が、今日はそんな予定はなかったはずだ。


「帰るの遅くなるでしょう?」

「いや、そこまで遠くに行くわけじゃないし……」

「本当に?」


 訊ねられて言葉に詰まる。

 ……まさか、行き先がバレたのか?

 覗き込む桂姉の顔を見返したが、やわらかく笑う瞳からはなにも読み取れない。


「どうして……急に、そんな」

「蕗ちゃんもね、心配してるんだと思うの」


 この会話の主導権を譲るつもりはないらしく、桂姉はあくまで自分のペースで話を進める。

 蕗が、心配……? いったい、なにを。


「気づいてなかった? 暁彦ちゃん、ここのところずっと、突然ふらっといなくなっちゃいそうだったのよ?」

「…………え」

「もちろん、そんなことしないってわかってるけど……一緒に暮らしはじめた時、蕗ちゃんもまだ小さかったから……あの子、ずっとうしろをついて回ってたでしょう。覚えてる?」


 ……ああ。なんとなくだけど、おぼろげに記憶がある。

 幼い蕗はトイレにまでついてこようとして、よく困らされた。

 当時は俺のことが珍しいのだろうと思っていたのだが。


「あれはね、見張ってるつもりだったの――――大好きなお兄ちゃんが、どこかへ行ってしまわないように」


 耳元に寄せられた唇が、ひそやかな声で囁く。

 ――頬がいっきに熱くなる。

 慌てて身体を離すと、我が家の姉はまるでイタズラを成功させた子供みたいな顔で、笑っていた。


「だから、夕飯は私が準備するわ……その代わり暁彦ちゃんは、遅くなってもいいからちゃんと帰ってくるの。約束よ」


 有無を言わさぬ口調で。

 心配されていることが伝わる声で。

 すべてを見透かしたような表情の桂姉が言う。

 そのやりとりに居た堪れなくなって背を向ける。

 急いで靴を履いて、玄関のドアに手をかけた。


「……い、行ってきます」

「いってらっしゃい。気をつけてね」


 にこやかに見送られながら、玄関を潜る。

 撤退だ。ここ最近で二度目の敗走。……だが、今回は仕方ないようにも思えた。

 かつて新屋のおじさんが言っていた。家庭内の隠しごとにはあまり意味がないと。

 きちんと隠しきれているつもりなのは、男側の幻想なのだと。

 その意味が、たったいまわかった気がする。


 足早に駅を目指しながら、額に浮かぶ汗を拭う。

 とりあえず、このまま負けっぱなしというのはよろしくない。だからといって真っ向勝負は俺に分が悪すぎる。まったく勝ちのイメージが湧かない。

 だから、そう。

 これは暫定的な処置として。

 いい案が思いつくまでの、休戦協定の意図も込めて。

 とりあえず…………目的が済んだらアイスでも買って帰ろう、と。

 そんなことを、梅雨の終わりの陽射しの中で考えた。



        ◇




 地元ローカル線の車両に揺られること三十分。

 そう多くもない乗客に紛れて、古ぼけた駅のホームに降りる。

 錆の浮かぶ鉄柱にところどころ塗装が剥がれた壁。そこだけ新しい広告のポスターが、やけに浮いて感じられる。

 端の白くぼやけた窓には、遠く聳える山々の眺めがかろうじて見えた。

 気まぐれに吹く風が涼しくて心地いい。緑のにおいがするのはたぶん心象だろう。さすがにこの距離ではまだはっきりとは香らないはず。田舎町とはいえ、駅前は人工物の方が圧倒的に多い。すこし歩けばコンビニだってちゃんとある。

 しばらく佇んでいるうちに、発車を知らせるメロディーとアナウンスが流れ出す。


「……行くか」


 ガタン、と音を立てて、電車が走りだす。

 速度を上げる車体とすれ違いながら、人のいないホームを歩いた。




 ――決着を。


 ただそれだけを目的に。

 俺は、何度目かのこの地に足を踏み出した。






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