イタズラクロック 3
しん、と静まりかえった古物だらけの部屋に、コツコツと規則的な音が響く。
それはもちろん壊れた偽サンパティークの秒針ではなく、このクロノ古物堂に元からある柱時計の振子が奏でる音色だ。あの木製の大きな時計を手入れしているクロ爺を見て、かつての幼い俺は有名な童謡を思い出して悲しくなったものだ。いま思えば、我ながら幼稚な連想だよなと思う。
誰もが口を開かず、驚いたような視線を俺に向ける中――そのクロ爺が、静かに肩を叩いてきた。
「暁彦、悪いことは言わねえ……やめとけ。アホにはアホの生き方ってもんがあるだろうが」
「――いきなりクソのような忠告をありがとう」
このジジイ、なんて顔してやがる。まるで邪気眼に目覚めた親戚の中学生でも見るような目つきだ。本当に古時計といっしょに動かなくしてやろうか……とドス黒い感情が湧き上がる。
巻き込んだくせにこちらをまったく信用しない老人の手を払いつつ、俺は偽サンパティークと懐中時計を手元に引き寄せた。
なんの価値もない、と二人に評されたそれを確認する。
――絶対ではないが、たぶんこの推測は合ってると思う。
自分でも意外だった。
腹は立つが、クロ爺の発言もあながち間違ってはいない。
俺の学校での成績は中の上。どの教科もほとんどが揃えたように平均点だ。こういった頭を使う作業に不向きな人間であろうことは、俺自身が一番よく理解している。
……しかし、いまにも泣きだしそうな年下の女の子を放っておくのも、気が引ける。
こっそりと溜め息を一つ。
踏ん切りをつけるように偽サンパティークを指先で叩いて、俺は口を開いた。
「まず状況を確認したい。芳倉さんの祖父さんは、奥さんへのプレゼントとしてこの置物を手に入れた。それじゃあ、お祖父さんがいつ買いに行ったのかは把握してるか?」
「い、いいえ。…………でも、知ってたら、絶対に止めてました」
苦いものでも飲み下したような表情の芳倉さんが言う。
「まあ、それはひとまず脇に置いてくれ。……続き。あくまで推測だけど、この偽サンパティークが購入されたのは、おそらく結婚指輪の約束をするよりも前だ」
「ええっ!?」
『な、なぜです? なぜ、そんなことがわかるのですか!?』
身を乗り出してきた中学生に加え、なぜかライオンさんまで詰め寄ってきた。一瞬、『女子高生サファリパーク』という珍妙な言葉が頭に浮かぶ。……字面だけなら男が一度は行ってみたい楽園っぽさ、あるな。
などというくだらない考えを脳の隅に追いやって、俺はさらに空いたスペースへ避難しつつ論述を続ける。
「物理的な問題もあるけど……さっきクロ爺が言ってただろ? 昔は夫婦で指輪を交換するような習慣はなかったって。話を聞く限り、同世代のお祖父さんも同じ価値観の持ち主なんだと思う。しかもクロ爺に『偏屈』とまで言わしめる職人だ。当然のように奥さんには指輪を贈っていなかった。
そんな人間が、いまさらになって急に自分から指輪をプレゼントするなんて、おかしくないか?」
「それは……お、おばあちゃんを、驚かせたかった、とか……」
「だったら、なにも言わず当日に指輪を渡すだろう。ただサプライズがしたいんだったらそっちの方が簡単だし有効だ」
重ねて反論を返すと、芳倉さんは「あ、そっか……」と短く声をあげて押し黙った。
とはいえ、これは本当にただの憶測だ。面識もない他人の、それもすでに亡くなった人の心情など、事細かに読み取れるとは俺も思っていない。
そもそもこの部分の推測はさほど重要でもない。
「おい暁彦……だったらあいつは、いったいなにをするつもりだったんだ?」
「そりゃあサプライズだろ。他に理由なんて思いつかない」
「は、はあ? お前、またワケのわからんことを……」
呆れたように息を吐いたクロ爺が、憐みの眼差しをこちらに向ける。
……この老人、どうあっても俺をかわいそうな子にしたいようだ。
いつか絶対に敬老式フランケンシュタイナーをお見舞いしてやろうと決意しつつ、鬱陶しい表情のクロ爺を無視して話を進めた。
「なあライオンさん。この二つを見て、なにか思いつかないか」
この面子の中では最もそういう話題に詳しそうな女子高生(仮定)に訊ねる。
俺が指差したのは、置時計の側面――鼠と馬をモチーフにした黒いシルエットと、べったり落書きされた保証書だった。
しばらく二つを見較べていたライオンさんは、ハッとなにか思いついたように顔を上げた。
『ひょっとして…………“サンドリヨン”ですか?』
「ああそ……う、うん……?」
『あっ、す、すみません。てっきり原作の方かと……えっと、シンデレラ、でしょうか?』
慌てて告げ直されたタイトルに戸惑いつつ頷く。
……あの童話、原作なんてあったのか。最初からああいう話なんだと思ってた。
そんな俺の失敗を目撃したクロ爺がニヤニヤしだしたので、気恥ずかしさを押し殺して強引に先へ進むことにした。性根のひん曲がった年寄りに構っていたら、さらに帰宅時間が遅くなる。わが家の食事当番は俺なのだ。急がないとスーパーのタイムセールがはじまってしまう。
「原作の内容までは知らんが……ネズミと馬が出てきて、さらに靴が関連する話となると、俺はそれぐらいしか浮かばなかった。おそらく芳倉さんの祖父は、この偽サンパティークを見つけてから計画を思いついたんだろう。
さて、そうなるともう一つ重要なキーワードが出てくる――――『時間』だ」
俺は偽サンパティークのガラス板を差した。
「こいつは午前0時になるすこし前で止まっている。シンデレラが靴を忘れるには、文字盤の針をここから進めなきゃいけない」
「でも……このポンコツは壊れてて、どうやっても動かないんですよ?」
訝しむように芳倉さんが言う。
まあ、そう思うのも仕方ない。
「この偽サンパティークは、別に壊れてないぞ」
「え……?」
「そもそも、これは時計じゃない」
そう告げると、傍らのクロ爺が短く声をもらした。
気づいただろうか? ――旧友の仕掛けた、子供じみたイタズラに。
「時計じゃないって……な、なら、なんだっていうんですか!?」
焦れた中学生の声に応えたのは、ずっと考え込んでいたライオンさんだった。
『……オートマトン?』
というと……西洋のからくり人形とかのあれか?
詳しくはわからないが、そういうニュアンスであればたぶん間違いではないと思う。
「まだ推測の域は出ないけどな。これまで聞いた情報を整理すると、そう考えるのが一番しっくりくる。この置物は、芳倉さんのお祖父さんが仕掛けたイタズラで、ちゃんとそれを解くためのヒントも準備されてたんだ」
一拍分の呼吸をおいて、俺はテーブルに手を伸ばした。
指先に冷たい手触り。
俺が掴んだのは、鈍い輝きを放つ『懐中時計』だった。
『それが、仕掛けの“鍵”なのですか?』
「ああ。……もう一度、この保証書を見てくれ」
全員の視線がテーブルの古い紙切れに集中する。
黄ばんだ紙面に『靴を忘れた とりに戻る』と走り書きされた保証書。
実際にやたらと古く感じられるそれは、もしかすると最初から偽物にくっついていたのかもしれない。ただ紙やインクは紅茶だかコーヒーだかを使えば簡単にヴィンテージ加工できるとテレビで見た気がするので、芳倉さんの祖父がわざわざ加工した可能性もあるが。
しかし、問題はそこではない。
いま重要なのは……二行ある落書きのうちの、後半。
「読んでみると、この“とりに戻る”って記述はすこしおかしい。落書きがシンデレラを暗喩しているのなら、この行動は物語の流れに反することになる。さらに保証書は奥さんへのプレゼントに付属するものだ。ただの覚え書きと考えるのも状況の不自然さが拭えない。
だが……もしこれが、実は独立した内容の文章なんだとしたら?」
説明を続けながら、手にした懐中時計を偽サンパティークの台座に戻す。
そして、指で元の位置から奥へと押し込むと――かち、とかすかな反動を指先に感じた。
もはや誰も言葉を発することなく俺の手元に視線を注いでいる。その緊張と興奮のごちゃまぜになった奇妙な高揚感は、俺の中にもわずかながら、たしかに存在した。
「こいつが示す時刻は『九時十五分』。ここから」
懐中時計を――――時針と反対周りに、回した。
パチンと今度はハッキリした感触が返ってくる。
――おそらく、仕掛けの歯車が噛み合った。
そして……古い映写機のような音をたてて、中のぜんまいが回りだす。
やがて偽サンパティークの針がゆっくりと動き、完全に「12」の位置で重なった。
「うそ…………動いた……っ!?」
芳倉さんが驚嘆の声をあげる。
さもありなん。俺も先に事情を把握していなければ、同じような顔で呆けていただろう。
他の二人は完全に無言。
愕然とした顔で(片方はわからないが)、テーブルの上を凝視していた。
その視線の先で――――偽サンパティークが、前後に割れていく。
懐中時計は、台座の縁に竜頭らしき突起をくっつけた状態で止まっていた。
九時十五分を差していた針は、この状態だと六時を表しているように見える。
二十四時間表記なら『十八時』。
そして日本の時刻には、かつて数字以外での呼び方があった。
「“酉に戻る”……まあ、くだらない言葉遊びだよ」
時間表記に十二支を割り当てた『酉の刻』はおおよそ十八時。
古くは季節によって変動したという話だが、俺は中学の授業でそう習った。
その間もゆっくりと変形しているカラクリから視線を外したライオンさんが、じっとこちらを見つめてくる。
『……あなたは、何者ですか?』
何者と言われましても……。
返事に困った俺は、近くにあったクロ爺の老眼鏡をかけ、両手はポケットに突っ込み、わざとらしい決め顔をやや斜め向きに伏せて、言った。
「新屋アキヒコ……凡人さ」
ライオンさんがぬっと顔を寄せてくる。
『そうでしょうか……? とても凡庸な方とは思えないのですが……』
――ひとの渾身のボケを容赦なく捻り潰すとかなんなの?
想像を絶する羞恥に襲われた俺は、ライオンさんの視線から逃れるように顔を背けた。
そしてチラッと目を向けると、まるで魂を落っことしたような表情を浮かべる中学生が、内部の機械ごと割れた偽サンパティークを見下ろして、呆然と口を開いた。
「こ、これ……」
わずかに震える指が、金属部品の中心から出てきた台座の上にあるモノを差す。
――小さなガラスの靴の上に置かれた、白銀の指輪。
素材の種類など俺には判断できないが、これが祖父から奥さんに贈られるはずだった結婚指輪であることは間違いないだろう。
「あのバカタレが…………最後までガキみてえなマネしやがって……」
クロ爺が呆れたようにつぶやく。
そんな悪しざまな言葉とは裏腹に、眉間には堪えるような深い皺が刻まれていた。
……もう、ここにいない旧友。
おそらくかの老人は、こんなイタズラをずっと繰り返してきたのだろう。
二人の間に横たわる親交の深さなど俺には知りようもないが……その喪失感だけは、多少なりと理解できるとは思う。
「な、なんで? おじいちゃんは……どうして、こんなこと……」
茫然自失といった様子の芳倉さんは、うわごとのように疑問をこぼした。
「言っただろう。驚かせたかったんだ」
「でも……おばあちゃんに指輪を渡すなら、わざわざこんなことしなくたって」
「違う」
いまだに要領を得ない少女の反論を遮る。
「お祖父さんが驚かせたかったのは――君だ、芳倉さん」
「あ、あたし?」
「そう。たぶんいつかは、この謎かけの種も明かすつもりだったんだと思うぞ」
――しかし、その算段は崩れた。
倒れてからの緊急入院だったというなら、まともに話もできなかった可能性が高い。
「さっき違和感の話をしただろう。君のお祖父さんが、奥さんに結婚指輪を買うと言いだした理由……なにか思い当たることはないか」
「そんなこと言われても……」
戸惑う表情に溜め息を吐く。
本当にわからないのか。
……この理由には、自分で辿り着いた方が良いのだろうけど。
「話を聞く限り、君のお祖父さんは自分から指輪を購入すると申し出た。しかし、それをとくに重要だと思っていない人間にしてはあまりにも行動が唐突すぎる。偏屈で変わり者と呼ばれる職人を動かすきっかけが、なにかあったはずだ」
少女の目をひたと見据えて、言う。
「ところで、芳倉さんは結婚指輪に並々ならぬ思いを抱いているようだが…………そういう話を、お祖父さんの前でしなかったか?」
――焦茶色の瞳が大きく見開かれた。
その反応が、立てた仮説の正しさを物語っていた。
それがいつのことかはわからない。だが、おそらく祖父を動かしたのは孫娘である芳倉さんの言葉だ。
気づいたのは、そう。
「……長年連れ添った奥さんへの贈り物としては、シンデレラはちょっと少女趣味が過ぎる。
なにしろ子供みたいな性格だったって話だからな。たぶん、芳倉さんが小さかった頃みたいに、驚くところを見たかったんじゃないか?」
もちろん、これは奥さんへのサプライズでもあったのだと思う。
カラクリに込めたのは職人としての誇り。あと、すこしの照れ隠し。
……同じ男としては、まあ理解できなくもない。
いつまでも子供みたいな部分が消えず、素直に贈るには気恥ずかしいプレゼントを、彼は得意とする複雑な機巧の中に封じたのだ。
「…………ばかだ……あたし…………」
消えてしまいそうな声が、ぽつりともれた。
「おじいちゃんのこと、なんにも…………わかってあげようと、してなかった…………っ」
大きな瞳からぽろぽろと涙の粒が落ちる。
スカートの裾を握りしめる指先が白い。狭まった喉の奥から、絞るような嗚咽が響いた。
もう誤解は解けただろう。……しかし、このあとはどうしたものか。
ただ仕掛けの解明と説明に必死で、先のことをなにも考えていなかった。
そうしていまさら焦りだした俺の隣で、たん、と軽やかに床を蹴る音がした。
『――まだです』
立ち上がったライオンさんが、狭いスペースをものともせず中学生に歩み寄る。
『新屋さんの推察には、きっと正しいのだろうと思わせる説得力がありました。その言葉を信じるなら、お祖父様の目的は成し遂げられたのです。
……だって、芳倉さんは驚いたではありませんか。願いが込められた機巧を見て、心を震わせたではありませんか。
あなたはお祖父様の想いをたしかに受け取ったのです。絶対です。間違いありません』
さっきまでのやわらかな物腰が幻のように、ライオンさんは力強い口調で言いきった。
どこか必死さすら感じさせる様子で、彼女は続けた。
『まだ、あなたには遺された想いを伝えるべき人がいます。この機巧はまだ生きています。お祖父様の想いを引き継ぐのは、芳倉さんにしかできないことなのですよ』
……それは、おそらく彼女なりの精一杯の激励だった。
うっすら気づいていたが、やっぱり不器用な人だ。頭はすごい良さそうなのに。
しかしその言葉はきちんと届いたようで、しゃくりあげる芳倉さんは、声を詰まらせながらもコクコクと頷いていた。
――うん、まあ、一見落着か?
急速に集中の解けた俺は、くたびれたソファーに身体を深く沈める。
ああ、疲れた……。
◇
ようやく解放された頃には、もう夕暮れがそこまで迫っていた。
タイムセールはあきらめた方がいいだろうか。差し迫って必要な物はないが、今日の夕飯は魚にしたかった。いいのがあれば鰆でも焼こうかと思っていたのだけど……。
あれからなんとか落ち着いた芳倉さんは、何度もお礼を言いながら帰っていった。
その胸にお祖父さんが改造した偽サンパティークを宝物のように抱いて……彼女のそんな態度を見る限り、なんやかんやで生前も仲が良かったのではないかと思う。祖父と孫娘でおかしな話かもしれないが、『喧嘩仲間』とか、そういう感じで。
そして、一応という程度にクロ爺からも礼を言われた。
よく考えれば、偽サンパティークを分解して鑑定したのはライオンさんで、仕掛けられた謎を偶然とはいえ解いたのは俺だ。
これは報酬をもらうべき! と判断して要求すると、奥の冷蔵庫から缶ジュースを一本ずつ放り投げてきた。小学生のお手伝いか。
なんとなく育ちの良さそうなライオンさんは、金銀財宝でも与えられたのかってぐらい恐縮していたが。
……で、現在はなぜかそのライオンさんと一緒に帰り道を歩いてる。
どうしてこの人はついてくるのだろう? 家が同じ方向なのか? すくなくともこんな前衛的な見ための人、同じ地域では噂すら聞いたこともないんだが。
もはや正しい対応の手段もわからず、無言のままちらほらと人の行き交う街路を進む。
やがて目的地である地元密着型のスーパーに近づいたその時、きっちり三歩後ろをついてきていたライオンさんから声をかけられた。
『あの……』
このまま買い物にまでついてこられたらどうしよう……? と危惧していた俺は、こっそり胸をなで下ろしつつ振り返る。
「どうした?」
『ありがとうございました、新屋さん』
不意打ちどころの騒ぎではない。
なぜ礼を言われたのかさっぱり理解できず、深々と腰を折る少女の背中を眺めて硬直した。
「え……あ、お、おう………………え? なんで?」
『新屋さんは、私の願いを叶えてくださいました。そのお礼です』
そしてライオンさんは再び「ありがとうございました」と頭を下げる。
はあ、なるほど…………なにを言ってるのか、やっぱりわからない。
「その、なんだ……あんたの願いってのは、あのカラクリの仕掛けを解くことか?」
『いいえ』
彼女は首を振る。
ライオンの頭がぐらぐら揺れる。
『……物に込められたお祖父様の想いを、芳倉さんに伝えてくださったことです。これまで私があきらめてきたことを、新屋さんはまるで手品のように、あざやかに解決してくれました。なので、どうしてもお礼が言いたくて』
「別にあんたのためにやったことじゃない。それに、あの仕掛けに気づいたのは偶然だ。たまたま上手くいったことに感謝されてもな……」
『それでも、です』
大きな覆面の下で微笑みを浮かべているのがわかる、そんな声だった。
まったく退く気のないその態度に、意図せず溜め息がもれる。
「……もういいか? 俺は買い物して帰らなきゃならないんだ」
『あ、申し訳ありません。お引き止めして……』
また堅苦しい慇懃な謝辞がやってきそうな気がしたので、さっさと踵を返す。
数歩進んで……しぶしぶ背後を振り向いた。
かぶりものでよくわからない、しかし、どこか所在なさそうに佇む少女を見据える。
「……新屋暁彦だ」
『え?』
「名前だよ、名前。……名乗りたくないのなら別に構わんが、いつまでも“ライオンさん”のままじゃ据わりが悪いだろ?」
そんな言葉に、彼女は面白いぐらい動揺した。
衝撃を受けたように硬直。かと思えば鳥が離陸するように手をはためかせ、しまいにはきょろきょろと視線をあちこちに飛ばす……なんだ? 俺はそんなに変なことを言ったか?
しばらく挙動不審な動きを繰り返していた少女は、やがて気分を落ち着かせるように胸に手を当てて、何度も大きな深呼吸をした。
『…………織目……小夜子と申します』
頭の中で字を探す俺に、ライオンさんは丁寧に漢字を教えてくれる。
織目小夜子。
聞き慣れない響きの苗字だ。そして名前の奥ゆかしさと外見のギャップがすごい。
とはいえ、俺に他人の名を品評して喜ぶような趣味もない。
「ひょっとしたら学校で会うかもな。……まあ、俺は気づけないかもしれないけど」
『そ、そうですね…………もしそうなれたら、とても嬉しいです』
……? どういうことだ?
妙な言い回しに引っかかりを覚える。
しかし、当の織目さんはお手本のような綺麗なおじぎをして、そそくさと来た道を引き返してしまった。
「……変なやつ」
ぽつりとこぼした言葉は、時とともに増えていく買い物客の雑踏に消える。
濃い橙色のグラデーションに染まる空、煌々と点りはじめた街灯、行き交う車のエンジン音と、遠くで響く子供の帰宅を促す町内放送――
高校生になったところで、とくに変化もしなかった日常の風景。
俺が引っ越してきた七年前から、ずっと同じ景色を保ち続ける穏やかで平凡な街並み。
冬を越えて訪れたはじまりの季節は、もう間もなく終わりを告げようとしていた。