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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第6章 オールドカメラは知っている
20/37

オールドカメラは知っている 4







 いつもと変わらない通学路を黙々と歩く。

 変わったことといえば、メンバーに織目さんが加わっているのだが、さりとてそれで街中の風景がいきなり変化するわけでもない。

 とくに俺はここのところ連日のように彼女と顔を合わせているので、新鮮味が他の面子よりも薄れてしまった感がある。

 もう六月も半ば、五時台の空はまだ明るい。

 きっとこれから本格的に蒸し暑くなるのだろう。

 街路を抜ける湿った風が、初夏の訪れを感じさせた。




「……ねえ暁彦、本当にこれでよかったの?」


 隣を歩く大和がジトッとした目を向けてくる。

 もう何度目だろうか。よく飽きもせず同じ質問ばかりできるな。


「いいんだよ。あそこに俺たちがいたところでなにも解決しない。部外者はさっさと退場するのが一番だって、さっきから何回も言ってるだろうが」

「ずるいよね、一人だけ真相がわかっちゃってさ。……普通、ああいう場面になったら推理を披露するものなんじゃないの?」


 普通の定義がわからんが、俺はそんな法則に従うつもりはない。

 どこにでもいる量産型の高校生に天才的な立ち回りを求められても困る。

 理想のミステリーショーにならなかったことが不満なのか、いまだ納得していない様子の旧友に溜め息をつく。


「また落ち着いたら教えてやる。だから今日はおとなしく帰れ。俺も夕飯の準備があるんだ」

「はいはい。本当、きみは所帯じみてるよね」


 やかましい。

 尚もぶつくさと文句を垂れ流す大和と別れ、再び車道沿いの通学路は静かになった。


「……二人とも」


 エンジン音にすらかき消されそうな声が聴こえたのは、駅前に続く別れ道にさしかかった時のことだった。

 振り向くと、道の脇に寄った霧小路さんが立ち止まっていた。

 彼女はそのまま、静かな仕草で深々と腰を折る。


「まだ、ちゃんとお礼を言ってなかった……助けてくれて、ありがとう」

『そ、そんな! 霧小路さん、頭を上げてください!』


 唐突に礼を言われた織目さんが慌てて走り寄る。

 あんたも似たようなことをよくしてくれるのだが……どうだ、自分がされたら驚くだろう。これを機に突拍子もない行動は控えていただけると、こちらも非常に助かるのだが。


「それだけじゃない。二人は、歴史研究部にも入ってくれた。……すこし前までは、あの部屋に自分以外の誰かがいるなんて、想像もできなかった……いまは、本当に部活が楽しい。だから、ありがとう。これからも、仲良くしてくれると、うれしい」


 お、おう…………やめろよ。なんか泣きそうになる。

 うっすらと微笑む霧小路さんの両手を、織目さんが包むように握った。


『こちらこそ、よろしくお願いします。あまり、お役には立てないかもしれませんが……』

「ううん……わたしも、歴史のことは、限定的にしか知らないから」


 ……うん?

 ちょっとよくわからない言葉が聞こえたが、どういう意味だろう?

 しかし訊ねるよりも先に、霧小路さんは話題を変えた。


「いつか、家にも遊びにきてほしい」

「家って、霧小路さんの家か?」

「そう。近くに、天然の温泉がある」


 天然温泉……ああ。そういえば、入霞は温泉街だったか。

 たしか元は宿場町として栄えていたと聞いた記憶があるが、実際に行ったことがないので詳しい話はわからない。

 ……しかし、霧小路さんの実家か。


『はい、是非』

「うれしい」


 俺が黒服の運転手を思い出して悩んでいるうちに、気づけばもう約束が交わされていた。

 お願いだからもうすこし考えてほしい。

 脊髄反射でものを決めるのはよくないと思う。


「それじゃあ……また、明日」


 まるで宝物の名前でも呼ぶみたいにその言葉を告げて、霧小路さんは駅前に続く道を折れていった。

 家か。家なあ……。

 そうそう物騒なことも起きないと思うが、ここのところの厄介な出来事との遭遇率を考えると、どうも手放しでは安心できない。

 もう雪崩のごとく面倒な案件が積み重なっていくな。


「……それで、あんたは納得したのか?」


 大和のこともあり、解決を懇願してきた織目さんにも訊ねてみた。

 いろいろと必要箇所を省いた質問だが意味は伝わったようだ。

 横目で視線を向ける俺に、彼女は頷いて返した。


『私は、新屋さんを信じます』


 期待が重い。

 まだすべてが判明したわけでもないんだが……。


『すこし…………本当に、ちょっとだけ、真相を知りたい気持ちはありますが……』

「……今度また教えるから。いまは勘弁してくれ」


 控えめに主張してくるのはやめろ。

 面倒くさいやつだな、おい。


『新屋さん』


 ぐったりする俺に、織目さんは改まって頭を下げた。


『――どうか、よろしくお願いします』


 なにを、とは訊かない。

 彼女の答えなんてわかりきっていた。

 ……まったく、世話が焼ける。


「なんとかするよ……だから心配しないで待ってろ」



        ◇



 遠ざかる織目さんの背中を見送って、進行方向を変更する。

 憂鬱ではあるが、まだやるべきことが残っていた。

 それは依頼を完遂するための後づけ作業。

 さて――


「……戻るか」


 萎えそうな心を奮い立たせて帰り道を逆行する。


 俺の予想が正しければ、そろそろ密室事件は解決しているはずだ。



        ◇



 学校に戻る道すがら、見覚えのある男を目にした。

 尾和田竜犀だ。俺が怒らせたせいで部室を出ていった色男は、寄りそうように一人の女子生徒を連れて歩いていた。

 ……たぶん、彼女が“豊内清花”なのだろう。

 小柄で華奢な少女だ。大和の評価通り、たしかにおとなしそうな雰囲気だが、整った顔立ちをしている。

 ただ、その顔色はお世辞にも良いとは言えない。

 やがて距離が縮まって、向こうもこちらに気づいた。

 尾和田は舌打ちして俺を睨みつけてくるが、豊内という女子生徒には怯えたように顔を逸らされてしまった。

 随分と嫌われたものだ。

 まあ仕方ないとは思うが。




 校門を潜り、鈍色のコンコースを通りすぎる。

 下駄箱に向かおうとして……思い直した。

 たぶんもう資料室にはいない。

 忘れ物を探すような時間はとっくにすぎている。

 なら、あの人はどこにいるだろう。

 まだ残っているとは思うのだが、学校中を探すとなると骨が折れそうだ。

 グラウンドから響く運動部のかけ声を聞きつつ、校舎外の共有スペースを探す。……ああ、見つけた。


 目的の人物は、植え込みに囲まれた中庭のベンチで項垂れていた。

 近づくと彼はのそりと顔を上げる。


「君は……」

「さっきぶりですね。すこし、無駄話をしにきました――戸森部長」


 俺の発言に驚くこともなく、戸森部長は口元に薄い笑みを浮かべる。

 その反応を見る限り、俺の目的にはもう気づいているのだろう。

 はたしてその読みは正しかったようだ。


「……いつか来るんじゃないかと思っていたが、まさか当日とはね」

「はい。うちの新入部員がうるさいもので」

「新入部員?」

「いたでしょう、あのライオンの」


 最もわかりやすい特徴を出すと、眼鏡の部長は「ああ……」とすぐに納得した。

 こういう時は便利だよな。あの着ぐるみ。

 異様な光景を思い出して呆けた戸森部長に、こちらの事情を明かすことにした。


「彼女は常軌を逸したアンティーク好きなんです。今回のカメラが壊された事件にはショックを受けたみたいで」

「そうか。やさしい子なんだな……」


 常軌を逸した、のくだりを聞いてたか?

 ひょっとすると誇張だと思われたのかもしれない。余さず事実なのだが。


「だから、真相をたしかめにきました」


 用件を告げても部長に動揺した気配はない。

 なら、と俺は確定した事実から話すことにした。


「あのカメラを壊したのは――――豊内清花さんですね?」


 先輩は答えを返さなかった。

 代わりに、顔を下げて考え込むような姿勢になった。

 その視線の先には、織目さんが直したハッセルブラッドがある。


「……どうして、そう思うんだい?」


 力のない声が訊ねて返す。

 興味を持ったというより、なにもかも諦めたような口調だ。


「単純な消去法です。そうですね、順番にいきましょうか。

 床に落ちたカメラを発見した時、物理科資料室には鍵がかけられていた。

 この状況でまず部外者の線が消えます。写真部とまるで関わりのない人間が、それなりに高価なカメラを盗むでもなく壊して置いていくのも、ましてやわざわざ施錠してから逃げるのもリスクが大きいだけで合理的な理由がない」


 広げた手の親指を折る。

 戸森先輩はこちらを見ていないが、自分の思考の整理のようなものだ。

 続けて、人差し指を振って第二の可能性に言及する。


「次に尾和田先輩。彼は、戸森先輩に恋人を脅されたと思い込んで恨みを抱いていた。

 ですがやはり鍵を入手する方法がない。しかもわざわざ自分から現場に戻っています。犯人がとる行動としてはあまりにも不自然すぎる」


 二本目。


「なら、部員の星崎先輩はどうか。彼女なら顧問に頼めば鍵を貸してもらえる。

 しかしそうなると、戸森部長が鍵を借りに行った時、御手洗先生からなにか言われているはずです。『さっき星崎が自分で取りに行ったはずだが』とか、そんな風に。よってこの選択肢も棄却される。一応ですが、同じ理由で大和にも不可能ですね。

 では残り一つ……戸森部長が犯行を自分で偽装していたパターン。

 密室に侵入するという一点において、これが最も可能性は高いでしょう。先生に鍵を借りて部室に入ったあと、カメラを落として施錠したら、なにくわぬ顔で星崎先輩と合流する」


 検証しきる前に、俺は中指を折った。

 論ずるまでもない。

 その答えは……「否」だ。


「……それこそ、理由がない。仮になんらかのメッセージだとして、それは誰に向けたものなのか。星崎先輩にはあきらかに伝わっていないし、尾和田が部室に来たのは偶然だ。同じことが俺たちにも言えます。あの場にいた全員が、まるでその意図を理解できていない。

 しかも戸森先輩は、カメラが壊されて慌てる演技すらしなかった」


 閉じた指を開く。可能性の話はこれで終わり。

 そして返事を待つこともせず、俺は真相の究明に向けて進む。


「では、この不可解な状況はどうやって作られたのか?

 答えは一つ。――――戸森部長が、犯人をかばったんです」


 その言葉にようやく部長が反応した。

 複雑な感情をにじませた瞳が、静かにこちらを向く。


「これまでの条件を元に考えるなら、密室を作り出せるのは部長ただ一人。ここからはかなり俺の憶測も混じりますけど、カメラが発見された時の真相はおそらくこうです」


 軽く息を吐いて……論述を開始する。


「犯人はとある事情から、ハッセルブラッドに細工をする必要ができた。そこで一計を案じた犯人は、自身の選択科目の担当教師を利用することを思いつく。

 方法は星崎先輩がしたのと同じ。授業の準備を手伝って、あとから『落し物をした』とでも言って鍵を借りればいい。この時点で文系選択の尾和田は完全に犯人候補から除外されます。

 ……しかし、犯行の最中に運悪く戸森部長が資料室に来てしまった。焦った犯人はカメラを落とし、そのせいで混乱状態に陥った。

 さらに犯人の不運は続き、今度は星崎先輩がすぐ近くまで迫っていました。あの部屋は壁が薄く、階段からの足音もかなりはっきりと聞きとれます。部室があるのは廊下の奥。逃げ場がなく、ショックですぐには動けない犯人に、部長は言いました。……“どこかに隠れろ”と」


 そう――あの部屋には、ずっと犯人が潜んでいた。

 おそらく、掃除用具入れにでも隠れたのだろう。


「……戸森部長がなにごともないように振る舞っていたのは、部室から早くみんなを追い出すためですよね? あれだけ熱く語っていたカメラが壊されたのに、微塵も心配する素振りを見せなかったのは、話をあまり大事にしたくなかったからです。そうしないと犯人が見つかってしまう恐れがあった

 ――つまりあの密室は、入念に練られた計画的な犯行などではなく、偶発的なトラブルが積み重なって作られたものだったんです。

 そして状況を見る限り、部長が匿う必要があるのは豊内先輩しかいません」


 論述を終えた俺は、大きく息を吐き出した。

 喉が渇いた。一人で延々と話し続けるのは、やっぱり消耗する。


「すごいな、君は……まるで見ていたかのようだ」


 多少は驚いたような返事を聞いて、安堵する。

 今回は手がかりが本当にすくなかった。なにしろ被害者であるはずの先輩が隠ぺいに加担していたのだ。想像で補った部分も多く、十全の自信があったとはとても言えない。


「どこで気づいた? ……その、僕が豊内君を匿っていることに」

「尾和田が現れた時です。あの先輩は恋人が待ち合わせに遅れたからと言って、まっすぐ物理科準備室に来ました。しかし写真部は活動を禁止されている。テニス部に在籍していたのなら厳重な鍵の管理も知っていたはずだ。

 彼には心当たりがあったんでしょう。たぶん“豊内清花が写真部の部室に忍び込んだ”と勘繰るような言動を、前日までに彼女がしていたんだと思います」


 色男がずっと警戒していたのも、たぶんそのためだ。

 あの二人は、戸森部長に弱みを握られていると勘違いしていた(、、、、、、、)


「……やっぱり、あのことか」


 弱々しい笑みを貼りつけた先輩がぽつりとつぶやく。

 内容までは知らないが、俺も思いついたことがあった。


「戸森部長。また憶測ですけど、部長と豊内さんは小学校か中学が同じだったんじゃないですか? ……それも、おそらくはここから遠い土地の」


 ハッセルブラッドの説明をする時、部長は『住んでいた街』という言葉を使った。

 そこから組み立てた推論だが、どうやら間違いではなかったようだ。

 戸森部長は視線を下げる例のポーズをとって、緩やかに首肯した。


「――本当に、見事だ」


 正解を告げた部長が、やや逡巡しながらも口を開く。


「小学生の時、一度だけ同じクラスになったことがあるんだ。あの時も彼女は転校生で、一年もしないうちにまた親の仕事の都合で引っ越していった」


 さほど遠い過去でもないだろうに、戸森部長はまるで大昔のことを懐かしむような口調で、当時のエピソードを語る。

 それは二人の間にできた心象的な距離を表しているようにも感じられた。


「僕が幸ヶ瀬に来たのは中学二年の時だ。あの頃は、まさか高校で豊内君と再会することになるとは思ってもみなかった。……新屋君、といったかな。君、口は堅い方かい?」

「わざわざ他人の過去を吹聴して回るような趣味はありませんね」


 本心から答えると、部長は「結構」と頷いた。


「実を言うとね……当時の豊内君は、その……すこし、ぽっちゃりした女の子だったんだ」


 言いにくそうに明かされた事実に、すこし驚く。

 さっき校門前ですれ違った豊内清花は、どう見ても痩せていた。

 ガリガリとまではいかないものの、すくなくとも『ぽっちゃり』などという形容からはほど遠いように感じられたのだが……。


「僕も最初は別人かと思ったよ。だが、彼女は僕を見て驚いていた。どうも僕は、あまり容姿に変化がないらしい」


 ああ、まあ、それはなんとなくわかる。

 とくに眼鏡なんかのトレードマークがある人は、多少成長してもどこか昔の面影が掴みやすい。


「同郷のよしみでもないが、あまりにも神がかり的な再会だったからな。彼女とは何度か言葉を交わした。どうも向うは乗り気じゃなかったみたいで、そう回数は多くなかったが。

 ……そのうち、彼女に頼まれたんだ」


 “昔の写真を捨ててほしい”と。


 その経緯を聞いて、ようやく不明瞭だった部分があきらかになった。

 なるほど。尾和田が言っていたのは、そのことだったのだろう。


「申し訳ないが、それはできないと断った」

「なぜです?」

「気が向かなかった……ではだめかい? 自分が素晴らしいと思った写真を捨てるなんて、そんな人間にカメラを愛する資格はないと思う」


 珍しく強い口調が出た。

 それが部長の誇りなのだろうか。

 しかし、突発的な勢いはそう長く続かない。


「……他の誰にも見せるつもりはないと確約したんだがね。それでも彼女は納得しなかった。一度は『目の前で写真とフイルムを燃やしてくれ』とまで言われたよ」


 それは……なかなか、過激だな。

 まあ話の流れからすると『過去の自分を知られたくない』とか、そういう理由じゃないかと推察はできるが、それにしたって燃やせとは。

 いったい、どんな写真を撮ったのだろう?

 気になって訊ねると、部長は気まずそうに頬を掻いた。


「…………彼女が、おにぎりを食べている姿をね……」

「は?」

「こう、昼食のおにぎりを、とてもしあわせそうに食べていたんだ。僕はどうしてもその光景をファインダーに収めたくて、頼み込んで一枚だけ撮らせてもらった。……あれはいまでも奇跡の一枚だと思ってる。なんとか資金を捻出して、焼き増しした写真を渡したら、当時の彼女はとても喜んでくれていたんだがなあ……」


 ああ…………そういうこと。

 俺の中に、すとんと落ちる答えがあった。

 確信はない。

 ただ、なんとなく。

 それは、まだ俺の持ち得ない感情ではあるけれど。


「……しかし、彼女は部室に侵入してカメラを壊すほど嫌だったのか。まさかそこまで思い詰めているとは思わなかったから、さすがに悪いことを……」

「ああ、それは違います」


 苦笑まじりの独白を遮った。

 違う。その一件に関しては、全員が勘違いをしている。

 驚く先輩の顔を見て、俺は低く抑えた声で訊ねた。



「戸森部長――傷つく覚悟はありますか?」



        ◇



 困惑した戸森部長は、質問の意図を計りかねたように目を泳がせた。


「どういう、ことだい……?」

「言葉のままの意味です。ここからは、たぶん、あまり気持ちのいい話ではないと」


 いまとなっては余計にそう思う。

 とくに知りたくもないのなら、部長はこの真相を回避すべきだ。

 しかし、そんな考えとはうらはらに、戸森部長は静かに首を振った。


「いや……教えてくれ。僕のなにが彼らを傷つけたのか、知らなければ頭を下げることもできない」

「……本当にいいんですか?」

「ああ」


 肚を括ったような表情で、部長は頷いた。


「――真実を写すからこそ、写真だ。僕が逃げるわけにはいかないよ」


 そうだろうか。

 俺はどうもその思想には共感できそうにないが。

 もう意志が変わらないらしい先輩を見て、溜め息を吐きつつ立ち上がる。


「先輩は深く考えごとをする時、学校中をあちこち徘徊するそうですね? たとえばこの一週間から一ヶ月以内に、それはありましたか?」

「あ、ああ、たしか何度か……」

「じゃあ、どこに向かったかは覚えていますか」


 訊ねると、部長は視線を下げて記憶を探りはじめる。

 その左手は、なにかを撫でるように腹のあたりをさまよっていた。


「それは考えごとをする時の癖ですか」

「え……?」


 質問の意味を理解できない先輩の前で、俺はそれとまったく同じポーズをとった。


「この体勢……ハッセルブラッドを構える姿に似ていると思いませんか?」


 沈黙のあと、短く「あ……」と呆けたような声があがる。

 これ以上はもう必要ないのかもしれない。

 ――だが、俺はある目的(、、、、)のために説明を続けた。


「戸森部長は静かな場所を求めて歩き回ると言っていました。大和の証言によれば、それは更衣室の裏などの薄暗い場所だ。……そこに、偶然あの二人がいたんです」


 尾和田の発言を思い返すと、彼はなにが起きたか把握していないようだった。

 だからこれは、彼女一人の勘違いだったのかもしれない。


「尾和田たちはそこでなにかをしていた。証拠がないので明言はできませんが……おそらく、人に知られればかなり立場が危うくなるようなことを。

 そこへ戸森部長がやってきて、視界の悪い場所でさっきのポーズをとった。気づいたのは豊内さんでしょう。彼女はハッセルブラッドを持つ時の姿を過去に見ている。

 慌てて姿を隠した彼らは、その後の戸森先輩がどうしたのかを知らない。そうして誤解が消えないまま、豊内さんは証拠のフィルムを回収するために犯行に及んだんです」


 論述を締め括ると、戸森部長が力なくベンチに沈む。

 その感情が抜け落ちたような顔に、わずかながら罪悪感がわいた。

 ひょっとすると、彼はいまになってようやく、自分の気持ちに気づいたのかもしれない。


「そうか……僕は…………」


 いまにも消えそうな声がもれる。

 しかし、俺はもうなにも答えない。

 この場に適した言葉など、いくら探しても見つかりそうになかった。







 しばらく時間が必要かと思われた部長は、しかし思ったよりも早く立ち直った。


「いやー、あの二人には随分と迷惑をかけてしまったようだな……いつか誤解だと教えてやらなければ」


 限りなく棒読みに近い口調で、戸森部長はそう(うそぶ)く。

 空元気でも元通りに振る舞おうとするそれは、年長者としての矜持だろうか。

 この先輩もたいがい不器用な人だ。

 しかし俺は、また残酷な事実を告げなければならなかった。


「……それは、やめた方がいいと思います」


 おそらく関係の修復はもう不可能だ。

 話を聞く限り、あの二人の目には互いのことしか映っていない。それはもはや執着にも等しい感情で、そんな危うい精神状態の人間に近づいても不幸な結果しか生まないだろう。

 ――平穏を望むなら、触れないこと。

 できるだけ距離を置くこと。

 三人がまともに話せるようになるとして、それはたぶんもっと時間が過ぎたあとだ。

 そのことは部長も薄々と理解しているのか「……そうだな」とかすれた声が返ってきた。


「ああ、なんだかコーヒーでも飲みたい気分だ……うんと熱くて、とびきり苦いやつを」

「有栖川に教えられた店ですが、いいところがあります。紹介しましょうか?」


 すこし考えて、戸森部長はゆるゆると首を振った。


「……今日みたいな日は、自分の足で探すことにするよ」


 ぎこちない笑みを浮かべて、部長は中庭をあとにする。

 本当に不器用な人だ。

 純粋で、弱い人でもあると思う。

 こういう時に感情を露わに叫べる人の方が、きっと生きる上ではずっと楽なのだろう。


 そうして取り残された俺は、彼の後ろ姿が完全に見えなくなってから、ベンチに腰を下ろした。



「――で? 話を聞いてどうでしたか、星崎先輩」


 植込みの陰に隠れた、もう一人の不器用な先輩に声をかけた。


「……イジワルだね、アッキーは」

「これでも優しかったと思いますけど。誰かさんが勇気を出してさえいれば、俺も余計なことを言わずに済んだわけですし」


 返されたのは鼻声だ。

 だから俺は絶対に振り向かない。

 実は座る時にすこしだけ背後が見えた。

 電気が消えて暗くなった校舎の窓に、その姿がぼんやりと映されていた。


 彼女は泣いていた。

 声も出さず。

 ぽろぽろとこぼれる滴を拭いもせず。

 ――ただ静かに、涙を流していた。


 俺はそれに気づかないふりをして、彼女に問いかける。


「気づいてたんですよね? 戸森部長が、豊内さんを匿ってたこと」


 そう――だからこそ、この密室事件はより複雑になった。

 慌てて豊内さんを隠れさせなければならないほど星崎先輩が接近していたのなら、きっと彼女にも聴こえたはずなのだ。

 ……あの、重たいカメラを落とした音が。


「最初は、なんとなく、だったけどねー…………あれで隠し通せたと思ってるとか、あーしのことバカにしすぎでしょ。あのおマヌケな部長さんはさー」


 たまに声を詰まらせながら、それでも星崎先輩はケラケラと笑う。

 そんな彼女が密かに協力しなければ、早々に犯人は引きずり出されていただろう。

 ……つまり、部長と豊内さんはこの奇天烈な少女に助けられたのだ。

 戸森部長が簡単に事件を畳もうとして、察した星崎先輩はそれに乗った。

 でなければ、部長を疑われただけで尾和田に詰め寄った彼女が、壊されたカメラを見て平然としているわけがない。


「昔っからそうなんだよね、あの人。なんつーか、ストレートすぎて空気読めないの。あーしが入学したばっかの時も、一枚だけ写真を撮らせてくれー、ってしつこくってさ。……意味わかんないじゃん? トモダチにもドン引きされるし。あんまりしつこいから、じゃあ撮ってもいいけど、可愛く写ってなかったらブン殴るって言ったんだ。

 そしたら『絶対にそんなことにはならない!』って、やたら鼻息荒くしてんの。あれは最高にキモかった。しかも、めっちゃ表情とかポーズに注文つけてくるし」


 普通に想像できるから困る。

 あの部長は、わけのわからないこだわりがやたらと強そうだ。

 しかし悪し様に(あげつら)ってはいるものの、彼女の声はどこかやわらかい。


「……でもさー、すっごいキレーだったんだよね。写真のあーし。なんか、自分でも見たことないような顔しちゃってさー。

 そんでちょっと感動してるあーしに、部長が自信満々で言ったの。『君はいつものふてくされた顔より、こうして楽しそうに笑っているべきだな!』って。……あと部員が足りないから写真部に入ってくれって、土下座された。

 足りてないのは部員じゃなくて、こいつのデリカシーと頭だなって思った」


 フォローする言葉が見つからない。

 もう痛々しすぎて、黙って聞いていることすらつらかった。


「まあ、そん時の部長の言葉も、間違っちゃいなかったんだけどね。あーしって、子供の頃からなにやってもつまんなくってさ。頭も悪いし。学校は退屈だし。親がうるさいからがんばって幸高(ユッコー)に受かった時も、まーたつまんないのが三年間も続くんだなーって、うんざりしてた。

 だから、カメラと出逢わしてくれた部長には感謝してるんだ。世の中にこんな面白いことがあるなんて、思ってもみなかった。とくにカメラを構えたら、ちっちゃい子がにこーっと笑ってくれるのがサイコーだね。あーし、こんな顔だからいっつも泣かれてばっかだったし」

「……そのメイクをやめれば済む話じゃないですかね?」

「アッキーも女心がわかってないなー。……いい? メイクってのはね、周りの環境に合わせてするもんなの。女はいろいろと大変なんだから」


 はあ、そういうものか。

 家に化粧をする人間がいないからわからなかった。

 もしかして俺が気づいてないだけで、桂姉もしているのだろうか?

 おばさんは「めんどくさい」の一言でスッピンで出かけるし、蕗は…………日焼け止めすら塗ってないな。

 どうも新屋家は俺の想像以上にフリーダムなのかもしれない。


「……うん。だからね、知ってたよ。部長にそういう人がいるってこと。

 誰かわかったのは、今年に入ってからかな……もうさ、めっちゃわかりやすいの。だって、ファインダー覗いてる時みたいな目で、その人のことずっと見てんだもん」


 それは、たぶん違う。

 わかっていたのは星崎先輩だけだろう。

 なにしろ本人どころか、ゴシップ好きの大和でさえ、その事実には気づいていなかった。


「にひひ。わかってたんだけどねー、これは敵わないなーって……なのに、どうしても試してみたくなって、一回だけイジワルしちゃった」


 ……試した、とは、たぶん御手洗先生の授業の話をした時だろう。

 あの瞬間だけ、彼女は戸森部長を追い詰めるような発言をした。


「ギリギリになっても、部長はあの人をかばうのかなって……ま、見事にかばわれちゃったわけだけど。あんだけ嫌われてたのに、一途だよね。……ほんと、バッカみたい」


 最後の嘲笑は誰に向けたものだったか。


 湧き水のようにこんこんとあふれ続けた言葉は、そうして唐突に止んだ。

 あとには小さく鼻をすする音だけが残される。


 こんな時、どうすれば正解なのかわからない。

 自分の在り方さえいまだ不確定な俺には、彼らの気持ちに共感することができなかった。

 やむをえず、浮かんだ中で最も合理的だろう意見を口にする。


「言い方はあれですが……逆にいまはチャンスだと思います。弱ってる男は、適当にやさしくしておけばコロッと落ちるので」

「なにそれ。サイテー」


 侮蔑するような言葉を返しながらも、彼女はおかしそうに笑う。

 背後で星崎先輩の立ち上がる気配がした。


「アッキーはさー、女関係に気をつけた方がいいねー。じゃないとー……そのうち刺されるかもよ?」


 ……おい、不穏なことを言うな。

 とても悲しいことに、変人に対する受け皿がだんだん拡張されてきた気がする俺だが、さすがにサイコパスじみたやつまで受容するつもりはない。


 やがて、植込みがガサガサ揺れる音が聞こえて、いたずらっぽい笑みを浮かべたギャルの先輩が姿を現した。

 もう泣き止んだようだが、目元は赤い。

 ついでに黒いものを擦ったような跡が頬についている。

 しかし、そんな汚れなど気にもせず、彼女はニイッとくちびるを吊り上げた。


「あーしはそういう卑怯なやり方は好きじゃないな。やるなら正面からブン殴りにいくよ」


 なんとも物騒な方針だ。

 同時に、なんだか彼女らしいなとも思う。


「アンタってイイ男だね、アッキー。部長がいなかったら、ホレちゃってたかも」

「それはちょっと本当にごめんなさい……」

「なんだとーっ!」


 どうせありえない話をして。

 さんざんふざけて。

 互いにすこし笑ったあとで、星崎先輩はくるりと踵を返した。


「じゃあね……いろいろあんがと、アッキー」


 彼女はもう振り向かない。

 たしかな足取りでまっすぐに進む姿が、まるで星崎先輩の生き方そのもののように思えた。

 役目を果たした俺は、ぐったりとベンチにもたれかかる。

 見上げた空はすっかり夕焼けに染まっていた。

 さすがに、疲れたな……。


「……夕飯は、鍋にするか」


 ちょっと暑いかもしれないが。

 トマトベースの出汁にして、ポトフみたいに肉と野菜を入れて。

 最後にごはんとチーズでリゾットにすれば、たぶん蕗も文句は言わないだろう。


 一人前の料理ではどうにも寂しい。

 今日は無性に、みんなで鍋でも囲みたい気分だ。



        ◇



 梅雨直前とは思えないほど晴れ渡った空の下、今日も織目さんと前後に並んで、朝早くから学校に向かう。

 俺が話しにくいので隣を歩いてほしいのだが、彼女は『い、いえ、殿方の隣を歩くだなんて……』と変な遠慮をして、定位置となりつつある斜めうしろをつき従うように歩いていた。

 さすがは良家の出とでもいうべきか。……このポジショニング、聴覚にそれなりの集中を強いられる。こんな非合理的な慣習を考えた馬鹿は耳がうしろ向きに生えてたのかと胸中で悪態をつきつつ、織目さんに昨日のことを説明する。もちろん、個人情報に関わる大部分は適当にぼかした上で、だが。


『そうですか……ハッセルブラッドが壊されたのは、故意にではなく事故だったのですね』

「まあ悪意がまったくないとは言えんがな。そもそも他人の持ち物を奪おうとしていたわけだし。あの二人が怯えたままなのは、やつらの自業自得ってとこだろう」


 そう答えると、背後の織目さんがくすりと笑う。


「……なんだ?」

『いえ……すこし、新屋さんが写真部の部長さんに肩入れしているように聞こえたものですから』


 酷い誤解だ。

 肩入れなどするわけがない。

 あんな濃い変人どもに近づくのは、もう二度と御免だ。


 憮然とした心持ちで歩いていると、次第に高校の門が近づいてきた。

 ……だが、どうもその様子がおかしい。


『どうしたんでしょう?』


 いや、わからん。

 すでに開かれた校門の向こうから、数はすくないが生徒のどよめきと、なにやら教師の叫ぶ声が聞こえた。

 なにごとかと訝しみつつ門をくぐる。そこには、ちらほらと足を止めた生徒たちが、校舎の屋上を仰ぐような姿で立ち尽くしていた。


 その中に見知った顔を発見した。

 呆けた戸森部長と……隣にいるのは大和か。

 いつも遅刻ギリギリに登校してくるやつが珍しい。


「おい、どうした。今日はやけに早いじゃないか」

「えっ……あ、ああ、暁彦か……いや、昨日の密室事件を自分なりに調べようと思ってさ。がんばって早起きしてきたんだけど……」


 そういう大和の制服のポケットからは、針金やドライバーのような道具がはみ出している。

 ……いったいなにをどう調べるつもりだったのか。

 気にはなるが、とりあえずいまは流す。


「それで、この騒ぎはなんだ?」


 訊ねると、やつは答えにくそうに「う、うん……」と言い淀む。

 本当になにがあった。

 こいつを困惑させるなど、ただごとじゃないぞ。


「実はさ……さっき、うちの副部長が告白したんだ。その、部長に……屋上から」

「はあ……?」


 思わず魂が抜けたように佇む戸森部長を見た。

 次いで、もうなにも見当たらない空間を。

 ……屋上って、生徒は立ち入り禁止じゃなかったか?


『まあ、とても大胆な告白ですね』

「うーん、大胆というか……奇想天外、奇々怪々というか」


 不穏な熟語が並ぶ。

 おい、あのギャル先輩はいったいなにをした。


「星崎先輩、服着てなかったんだよね…………なんか、下着姿で屋上から愛を叫んでたんだけど」

「……」


 人は、驚きすぎると声が出なくなるものらしい。

 引き攣った半笑いみたいな大和と、きっと俺は同じ表情をしていた。

 再び屋上に視線を移す。――――うしろから目に蓋をされた。


『い、いけません、新屋さん…………女性の……は、裸を、覗くなんて……』

「ああ、うん。別にそんな意識はなかったが……とりあえず、この体勢はやめないか? ものすごいマヌケっぽくて、正直恥ずかしいから」


 なんか硬いのが後頭部をかすってるしな。

 ライオンの圧迫感がすごい。

 そうこうしている間にも、どうやらまだ攻防が続いていたらしい屋上から、女性教師と星崎先輩の叫ぶ声が響いている。

 『もっと恥じらいを持て』とか『剥き出しの心で勝負したい』とか『剥くのは心だけにしろ』とか『告白にマナーなんて邪魔なだけ』とか『服はマナーじゃない、ルールだ』とか……聞くだけで知能指数の下がりそうなやりとりが、人もまばらなコンコースに降ってくる。


「ほ、星崎君……」


 近くで愕然とした声がこぼれた。

 ようやく意識が戻ったのか、戸森部長が肩を震わせていた。


「あ…………あれほど人前で服を脱いじゃいけないと言ったじゃないかあああぁぁぁ!?」


 切ない絶叫が瞬く間に遠ざかっていく。

 あのまま屋上に向かうつもりか。

 たぶん、男は近寄れないと思うが。


『……星崎さんの想いは、叶うでしょうか?』


 ぽつりと、織目さんが案じるようにつぶやいた。

 この状況でその部分の心配はだいぶとズレている。

 ……だが、まあ。


「叶うといいな」


 きっと俺は心の底から、そう答えることができた。







 ……次に不器用な部長がファインダーを覗く時、フィルムには誰の笑顔が写るのだろう?

 たぶんそれは、そう遠くない未来の選択。


 その答えは――オールドカメラだけが知っている。






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