獅子とドール 3
――すこし、状況を侮っていたかもしれない。
木箱から出された遺品を見て、俺はそんな感想を抱いた。
それは単純に言い表すならば、あまりにも奇怪で、醜悪な姿をしていた。
皮肉だとか、嫌悪だのといった、人間のマイナスの感情を煮詰めて凝り固めたような――おぞましいモノ。
ある意味で織目さんの人形と対極に位置するようなそれを前に、俺は言葉もなく硬直していた。
「……なにかわかりそう?」
訊ねられて顔を上げる。
いつになく不安そうなミシェルが、こちらを覗き込んでいた。
「あ、ああ…………いや、これは……」
動揺を取り繕おうとしたものの、上手くいったか定かではない。
嫌な音を立てる胸を押さえて、俺は考える。
――「善良」と評された老人が、なぜ孫娘にこんな“悪意の塊”を残したのかを。
◇
『……こちらが、祖父の遺品になります』
そう言って色褪せた畳の上に置かれたのは、白っぽい木でできた箱だった。
桐だろうか? 長辺が五十センチほどの長方形で、なにやら上等そうな材質だ。新屋家に年賀で送られてきたお高い日本酒が、たしかこんな箱に納まっていた気がする。
……いったいなにが入っているのだろう?
このサイズで手紙だけ、ということはないと思うが。
『開きます』
宣言した織目さんが幾重にも巻かれた紐を解く。
白い指先が震えているように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
やがて蓋が取り外されて――――そこにあった“異常”に、肌が粟立った。
「なん、だ……これ……」
冷たい感覚が背筋を這い上がってくる。
訊ねるまでもなく、それがなにかは理解できていた。
人形だ。
たしか球体関節という、可動式の人形。
だがその見た目は「人間」などとはほど遠い。
――肌色の蜘蛛。
そんな感想が無意識に浮かんだ。
人体を模した各部のパーツを球状の関節が繋ぐその人形には…………しかし、腰より上の部位が存在しなかった。
代わりにあるのは二つの節くれだった下半身。
鏡合わせのように、腹部を挟んで壊れた下肢を無理やりくっつけられたそれは、子供がする残酷な遊びを想起させた。
織目さんが静かに持ち上げると、欠損した四本の脚がだらりと垂れ下がる。
まるで、蜘蛛の死骸だ。
戯れに脚をもがれ、惨たらしく殺された、肌色の蜘蛛の化け物――……
『……祖父が遺したものは、これがすべてです』
沈んだ声に、ハッと意識が浮上する。
首筋が冷たい。知らない間に汗が伝っていた。
「これで全部、なのか? ほかに、手紙なんかは……」
『はい……箱の中を何度も探しましたが、見つかりませんでした』
細い指先が不気味な球体関節の胴体をなぞる。
そこには、赤黒い血のような色の文字が綴られていた。
この人生は春先の露と消ゆ 獅賀 貴嗣
下部にあるのはお祖父さんの名前か。
引っかかるところはあるが、なによりその歪な文が目に焼きついた。
なぜ、彼女の祖父はこの言葉と人形を遺した。
自分が死ねば一人きりになってしまう孫娘に、どうして。
これでは、まるで……
「――“呪いのよう”でしょ」
俺の内心を察したようにミシェルが告げる。
彼女の視線は、禍々しい人形をじっと見つめていた。
……そう。これは“呪い”だ。
死の瀬戸際で抱いた無念を。
やり場のない虚しさを。心の奥底で膨れ上がる憤りを。
すべて――――織目さんに、押しつけようとするような。
「……すこし、見せてもらってもいいか?」
差し出された人形を落とさないよう丁重に受け取る。
かすかに触れた織目さんの指が、酷く冷たく感じられた。
手のひらに外見相応の重み。芳倉さんの時のように、中身に仕掛けがあるということはなさそうだ。
「うん……?」
よく見ると、膝関節の横にも字があるのがわかった。
どうやら背中側から続いているようだ。
裏返すと……そこには、やはり同じような赤黒い文字がびっしりと敷き詰められていた。
罪人よ
死を臨め
過去は価値を失くし
不義なる富は幻となり
死の足元に罪は開かれる
亡骸がせめて花の許にあれば
文の配列はてんでバラバラだった。
国語の教科書と同じ読み方をするのなら、右上の脛の部分からそれぞれの関節をまたがるようにして、いくつも短文が書かれている。
文章の意味はわからない。
誰かを厳しく批判しているようにも読み取れるが、その相手がまさか織目さんなのか?
だとすれば、彼女はいったいどんな罪を犯したというのだろう。
「……なにかわかりそう?」
訊ねられて、顔を上げる。
いつになく不安そうなミシェルが、こちらを覗き込んでいた。
「あ、ああ…………いや、これは……」
さっきから考えているものの、いつもの感覚はやってこなかった。
古い機械が動きだす時のような。
錆びついた歯車が唸りをあげて走り出すような……あの、閃光にも似た衝撃が。
「……すまん、わからん。たぶん情報が足りてないと思う」
正直に答えると、二つの息を吐き出す音が重なった。
そこに落胆の色を感じるのは、俺の被害妄想だろうか。
『こちらこそ、申し訳ありませんでした……新屋さんの手を煩わせてしまって』
「おい、まだ終わるつもりはないぞ。勝手にあきらめるな」
かぶりものの奥から『……え?』と小さな声がもれる。
こちらも気持ちを切り換えるように、意識的に呼吸を深くした。
「ちょっと時間をくれ。ミシェル、猶予は八月までだったな?」
「え、ええ。そうだけど……」
「確約はできない。それでも、なんとか間に合うように努力はする。……どうもこのメッセージには、違和感があるんだ」
『違和感、ですか?』
「ああ。とはいっても、どこがどうとは説明しづらいが……」
不透明な話であることは承知している。
――だが、なにかおかしい。
言葉で表せないもどかしさが、頭の奥でじくじくと疼いた。
「乗ったわ」
あどけない声が届いた。
先に口を開いたのは、まっすぐに視線を返すミシェルだった。
「どうせ他に方法なんてないんだもの。頼んだ以上、ニーヤのやり方に合わせるわよ」
「いいのか?」
「女に二言はないわ。……その代わり、間に合わなかったら許さないんだから」
いつものような憎まれ口を叩いたミシェルが、ぷいっとそっぽを向く。
……これは、信用されたと考えていいのだろうか?
このこまっしゃくれた少女が、わずかなりとも心を開いたことに想定外の感動を覚える。
なんというか、いくら餌づけしてもまったく懐かなかった野良猫が、ある日いきなりすり寄ってきたような気分だ。
それを本人に言ったら冷たい目をされそうだが。
『……どうして、そこまでしてくださるのですか』
疑問に染まった声が耳朶を打った。
顔を向けると、織目さんは俯いたまま手のひらをギュッと握りしめていた。
『……私は、ずっと新屋さんにご迷惑ばかりかけてきました。まだそのご恩を一度もお返しできていません。すぐに返せるものだって…………なにひとつ、ありません。
なのに、どうして……』
――……ああ、そうか。
その閃きは、夏の嵐のように、前触れもなく訪れた。
織目さんは自信がないんじゃない。
もう自信を持とうとする意思すら、持てないのだ。
四つ足の人形に目を落とす。
腹部に書かれた、彼女の祖父の名前。
おそらくこの「獅賀」というのは本名だろう。
それが意味する事実は……一つしかない。
彼女はすべて奪われた。
居場所も、名前も。
未来や、幸せだった頃の思い出さえ。
「優秀じゃないから」というふざけた理由で、その大鷹宮の名家とやらは、当然のように幼い娘から根こそぎ略奪し続けてきたのだ。
――ギシ、と喰いしばった奥歯から音が鳴る。
ともすれば叫びそうになるほどの激情を押し殺して、俺は顔を上げた。
「……いまは、信じられなくてもいい……でも、覚えておいてくれ。対価なんて支払わなくたって、あんたを手助けしようって人間は、探せばちゃんといることを」
織目さんから発せられたのは、困惑の気配。
そんな反応もいまは仕方ない。
あの頃のおじさんたちも、同じことを考えたのだろうか?
俺は長く息を吐いて、くすぶっていた不快感を飲み下した。
「とにかく、遺品の解読には力を貸す。織目さんたちはできるかぎり情報をくれ。祖父さんに関することや、この人形について思い当たることでもなんでもいい。たぶん、しらみつぶしに探した方が早いと思う」
空気を変えるためにこちらから要請を切り出した。
すると、どうしてかミシェルがうすい笑みを浮かべた。
ずいと身を乗り出した彼女は、吐息のかかりそうな距離で言う。
「……わたし、あなたのそういうところ、結構気に入ったわ」
そ、そうですか……。
ただ楽しそうなところ申し訳ないが、もうちょっと離れてほしい。
背丈はともかく、綺麗な顔してるんだ。表情だけ妙に大人っぽいし、この近さだとなにやらマスカットみたいな甘い匂いもする。
ライオン頭に続いてミシェルサイズの女の子にドキドキしたとなると、俺はもう自分のなにを信じていいのかわからなくなりそうだから。
「さて、じゃあどうするか……」
なにげなく人形を見下ろした。
そうだな……まずは手近なところから攻めるか。
「この人形って、骨董品なのか?」
あえて質問は織目さんに向けた。
いまだに戸惑っている彼女は、けれど律儀な性格のせいか、流しもせず声を返してきた。
『……いいえ。その人形は、市場に出回ったものではありません』
歯切れは悪いが、受け答えはきちんとしていた。
しかし、骨董品じゃないのか。ますます意図がわからないな。
再び裏返して観察してみる。
不気味な人形は、本来なら右腕のある位置の脚が膝から下を欠損して、対角に左の足首がもがれたように失われていた。
なにかの符丁だろうか? だがそれだと相手に伝わらなければ意味がない。
祖父さんに近しい二人が理解できていない以上、その可能性は低いように思えた。
いったいどういう人形なんだ、これは……。
首を捻っていると、織目さんが『あの……』と小さく声をあげた。
『アンティークではありませんが、モチーフになった芸術作品なら、一応わかります』
「え、これ元があるのか?」
『はい……“ハンス・ベルメール”という、ドイツの作家さんが作った人形です』
はあ、知らない人だな。
まあそもそも人形作家なんて一人たりとも知らないが。
「ベルメールは、人形師よりもグラフィックデザイナーとして有名な作家よ。
作風はシュルレアリズム。この人形のようなグロテスクで倒錯的な写真を、いくつも発表しているわ」
要領を得ない俺に、ミシェルが説明してくれる。
というかこいつもその手の話に詳しいのか。
もしかして『商会』とやらでは、そういう知識を持ってるのが常識なのか?
「グラフィックデザイナー、な……」
いよいよ意味がわからなくなってきた。
なんだかもう地図にない道をコンパスもなしに進んでるような気分だ。
完全に思考が煮詰まっている。
「……ダメだ。ちょっと頭冷やすか」
俺のつぶやきに、二人がきょとんとした顔を向ける。
実を言うと、ここのところずっと考えていたことがあった。
具体的にはミシェルの目的に気づいたあたりから。
問題を解決する以外に、なにかできることはないか、と。
悩む俺にその方法を提示したのは、やたらと察知能力の高いわが家の長姉だった。
実行に移すか決めあぐねていたが、今日はちょうどいいタイミングだ。
呆けたような二人に、俺は外へ繋がるドアを指差してみせた。
「なあ……このあと、俺に付き合う時間はあるか?」
◇
「ただいま」
ドアを開けると、すぐにぱたぱたとスリッパの音が近づいてきた。
ダイニングから顔を出したのは、先に帰宅していた桂姉だった。
「おかえりなさい、暁彦ちゃん。小夜子ちゃんも……それと、あなたがミシェルちゃんね。いらっしゃい。さあさあ、二人とも遠慮せずに上がって」
もはやなにごともなかったかのように、桂姉はふわふわと突然の来客二人を出迎えた。
「……ねえ、あなたのお姉さんは、いったいどういう神経の強度をしているの?」
「さあ、昔からあんな感じだったからな……そこはなんとも」
新屋家の子供で、最も性格に変化がないのは桂姉だ。
彼女はいきなり同居することになった俺でさえ、平然と笑って受け入れてくれた。
そういった経緯もあり、俺はいまだに桂姉に頭が上がらなかったりもするのだが。
「…………あと、あれはどういうことなの?」
困惑したようにミシェルが凝視しているのは――ニット地のワンピースを押し上げる、桂姉の迫力ある胸部パーツであった。
……お願いなので、身内にそういう話題を振るのはやめてほしい。本当に気まずいから。
どういうことって、それこそどういう質問だよ。俺がいかに小学校高学年あたりから一定の高さより目線を下げないよう努力してきたかを聞きたいのか?
中学の時に一度、首が筋肉痛になりましたが。
『あ、あの……本日は、お招きいただき……』
「小夜子ちゃん、そんなにかしこまらなくていいのよ? うちはそんな上等な家じゃないんだから」
案の定ガチガチに緊張している織目さんを、桂姉が「うふふ」と流れるように家へ上げる。
やっぱり、こんな時は誰よりも頼りになる人だ。
情けない話だが、俺では彼女の心までケアするのは難しい。
ここは、ホストの役割を買って出てくれた桂姉に任せた方がいいだろう。
「暁彦ちゃん。下ごしらえだけ済ませてあるから、あとはお願いね」
「ああ。ごめん、買い物まで頼んじゃって」
「そんなこと言わないで。たまには私だってお姉ちゃんの仕事をしたいもの」
いや、だからそれは役割分担でもう……と返しかけて、やめた。
ここで水掛け論をしても仕方ない。
俺は自分の仕事に取りかかるべく、廊下に上がった。
「ねえ、なにをするつもりなの……?」
訝しむようにミシェルが訊ねてくる。
ああ、そういえばまだ言ってなかったな。
「夕飯をみんなで食べるんだよ」
解凍したドミグラスソースが溶け込んで、炒めた玉ねぎとトマトの芳醇な香りがダイニングに立ち込めだした頃、わが家の最大の胃袋が帰宅した。
「ただいまー。おっ、今日はハヤシ? ……いや、ビーフシチューですかな! これは! おなかすいたー!」
帰ってくるなり騒々しいやつだ。
ドタドタと廊下を歩く蕗の賑やかな声は、しかしリビングに到達するなりピタッと止まる。
「……あ、あれ? ……織目さん? なんでここに…………えっ、なにそのお人形みたいな子!? ……ま、まままさか、誘拐!?」
でも結局は騒がしくなるのか。
さんざん部活で走ってきたはずなのに、すさまじい体力だ。
そしてドダダダッと足音が近づいてきたかと思えば、勢いよくキッチンの扉が開いた。
「アキにぃ! 出頭しよ!」
「誰が誘拐犯だ。泣かすぞ」
「だってうちで一番可能性高いのアキにぃじゃん!」
そうだな。……いや、そうだな、じゃないが。
男が自分しかいないという状況に危うく納得しかけた。
「二人ともお客だよ。ちゃんとあいさつはしたのか?」
「あ……ま、まだ、かな」
「先にあいさつ、そして風呂に入ってこい。もうすぐできるから」
気まずげに返事をした蕗がキッチンを出る。
なんだろうな。俺は、いつまでこのオカンみたいなポジションでいればいいんだろう。
あの馬鹿な妹はいつになったら落ち着いてくれるのか……。
「……よし、こんなもんか」
具材によくソースがしみ込んだのを確認して、コンロの火を止める。これですこし冷まして味を全体になじませたらシチューは完成だ。本当は圧力鍋を使わずにじっくり牛バラ肉と野菜を煮込みたかったのだが、今日は時間がないので仕方ない。
待つ間に手早くスパニッシュオムレツを仕上げにかかった。基本のジャガイモと玉ねぎの他にアボガドとチーズとダイストマトを混ぜ込んだ、わが家の定番レシピ。
そこに副菜のミニサラダとバゲットを盛りつけたところで、桂姉が顔を出した。
「暁彦ちゃん、もうできた?」
「ちょうどだよ。あとは運ぶだけ。今日はリビングで食べるんだろ?」
「ええ。スペースは向こうの方が広いし……運ぶの、手伝うわね」
『あ、あの、私もなにかお手伝いを……』
ついてきたらしい織目さんが扉の向こうでおずおずと声を上げる。
が、予想通り桂姉にやんわりと追い返されていた。
お客だからな。新屋家に来た人は、基本的に座りっぱなしを強要されるのだ。
料理を運びこんだ居間では、所在なさげにそわそわする織目さんと、ここでも相変わらずすまし顔のミシェルが、ゲスト席にちょこんと座らされていた。
ちょうど風呂から上がってきた蕗も髪を濡らしたまま合流して、かくして新屋家の突発的な晩餐会がはじまった。
『新屋さんは、お料理もできるのですね……すごいです』
「女子力高いよねー。アキにぃなら、いつでもヒモになれそうだよ!」
蕗、うるさい。
いかにも生真面目な織目さんに、そういう不穏な発言をするな。
『ひも、ですか…………?』
……通じてない、だと?
「さあ、冷めちゃう前に食べましょうか」
そしてやっぱりマイペースな長姉の呼びかけで、全員が手を合わせた。
どう見ても外国人のミシェルまでそうしているのがすこし意外だ。
慣れ親しんだ唱和のあと、真っ先に蕗がバゲットへ手を伸ばす。食欲の権化のような妹はちぎったパンをビーフシチューにたっぷり浸して、大きく開いた口に放り込んだ。
「んーっ! ……美味しい! やっぱアキにぃのシチューは最高だね!」
それはなにより。急ごしらえの品だが、とくに失敗はないようだ。
反応を見た俺はまずシチューだけを口にする。咀嚼すると、やはり多少は味のばらつきを感じたものの、まあ及第点だろうという仕上がりだった。
やわらかく煮込まれた牛肉がほろりと解けて、噛みしめるごとに旨みがしみ出してくる。
じっくり炒めた玉ねぎや人参の甘さも悪くない。トマトのかすかな酸味やソース自体の深いコクと混ざり合って、ちゃんとほどよいバランスが保てていた。
「……おいしいわね」
驚いたようにミシェルがつぶやいた。
こちらとしてはミシェルが食事で心を動かしたことこそ予想外なのだが、まあ気に入ってもらえたのなら純粋にうれしく思う。シチュー自体はそうでもないものの、自家製ドミグラスソースにはちょっと手間をかけているのだ。
今日は、この料理を出したい理由があった。
おそらく桂姉はすでに察しているのだろう。余計な口は挟まず、にこにこと笑いながら織目さんを見ている。
そして、肝心の織目さんはというと……
『……い、いただきます』
宣言しつつ、スプーンを持った状態で固まっていた。
それもそうだろう。彼女はまだライオンの頭を装着したままである。
いったいどうやって食べるつもりなのか。
気になって眺めていると、織目さんは意を決したように覆面に手をかけ――
ぱか、とライオンの口を開いた。
――――それ、開閉式なのか……
全身の力が抜ける。
なんてシュールな光景だ。
ちょうど拳一つ分だけ開いた隙間に手を突っ込むその姿は、とても食事中の女子高生のものとは思えない。なんだか喉に引っかかったエサを無茶な方法で取ろうとするライオンの人のように見える。
ライオンの人ってなんだ。もうよくわからなくなってきた。
誰もが固唾をのんでその異様な食事風景を見守る中、しばらく同じ体勢を保っていた織目さんは、やがてゆっくりとスプーンを口から引き抜いた。
『…………届きませんでした』
食べれてないのかよ。
目を向けると、スプーンにはシチューがそのまま残っていた。
まったく役に立たない機能だな。いったいなんのために作ったんだ?
静まり返ったリビングに、えもいわれぬ微妙な空気が流れる。
そうしてスプーンを持ったまま項垂れる織目さんの手を……歩み寄った桂姉が、やわらかく包みこんだ。
「小夜子ちゃん。あなたにとってそれは、すごく勇気のいることかもしれないけど――ちょっとだけ、そのかわいいお面をはずしてみない?」
『で、ですが……』
「大丈夫。ここには、あなたを傷つける人なんて誰もいないわ」
……どういうことだ?
俺が料理している間に、なにか話したのだろうか。
その場に居合わせたミシェルの方を向くと、困惑した表情で首を振られた。
どうやらなにも聞いていないらしい。
『あ、あの……』
「もう聞いたかしら? 今日のお食事会を企画したのは私だけど、献立を決めたのは暁彦ちゃんなの。どうしても小夜子ちゃんに、このシチューを食べさせてあげたいって」
それを口に出した記憶はないのだが。
さらに織目さんに提供するならこれかと思っただけで、どうしてもというわけではない。
などと気恥ずかしさから胸中で言い訳を並べ立てていると、戸惑ったように織目さんがこちらを向いた。
その真意を問う視線に、思わず溜め息がもれる。
「……これはな、俺の“おふくろの味”なんだ」
短く息をのむ音が届いた。
そんな大げさに受け取らなくていい。
これは、平凡な俺の、取るに足らない昔話だから。
「俺はもう両親のことをあまり思い出せない。けど、この味だけはどうしてかずっと記憶に残ってるんだ。誕生日になると、毎年このシチューを母さんが作ってくれた。
おかしな話だけどな。他にも好きだったものは、たくさんあったはずなのに」
どんなに忙しくても。
仕事で疲れていたとしても。
手間も時間も惜しむことなく。
ずっと鍋の前に立って、真剣な表情で味見をする母の横顔を、ちゃんと覚えている。
「俺がこっちに来てからはじめての誕生日に、新屋のおばさんがレシピを調べて作ってくれたんだ。……たぶん俺がここで生きることを自覚できたのは、その時が最初だと思う」
愛情で料理は美味くなる、なんて俺は信じていない。
材料を惜しまず、分量をきっちり守って適切に調理すれば、美味いものは誰でも作れる。
だからきっと、それが形作るのは“記憶”だ。
時間が経ったあとでようやく気づく、たしかな温度を持った思い出。
疲れて立ち止まってしまった時、それがあれば、人はいつかまた歩き出せる。
「とくに理由はないんだが、あんたに作るならこの料理かなと思った。気が進まなければ食べなくてもいい。俺のエゴを押しつけてるようなもんだしな。
ただ、この家の雰囲気を忘れないでほしい。もし織目さんが望むなら、うちは来訪を拒まない。もちろんミシェルもだ。ここはいつでも適当に遊びに来られる場所の一つだとでも思っておいてくれ」
――俺を受け入れてくれた、この家なら。
ひょっとしたら、織目さんの居場所の一つになってくれるんじゃないかと思った。
さて、じめじめした話はこれで終わりだ。
言外に伝わるように、俺はバゲットに手を伸ばした。
……どうにも気恥ずかしい。
柄にもなく真面目な話をしてしまった。
みんなも早く食事に戻ってくれないだろうか……と密かに願っていると、沈黙していたミシェルが静かにスプーンを置いた。
「……ニーヤ、次はカレーライスが食べたいわ。もちろんハンバーグとチーズが乗っかってるやつよ」
「もう予想外の食いしん坊だったって解釈でいいか? ……ていうか、日々の家庭料理でそのトッピングを当たり前みたいにつけられる家があると思うのか?」
「なにそれ……超食べたい。目玉焼きとフライドポテトもつけてほしい」
「いいわね。ニーヤならやってくれるわ。だってわたしたちは友達になったもの」
「ミシェルちゃん、次はいつ来る? できたら魚の日に遊びにきてね」
「魚の日がわからないけれど、任せなさい」
待ってください俺の都合は?
予算的には問題ないが、作る側の手間も考慮してほしい。ハンバーグはまだしも、カレーは料理しないやつが考えるより意外に下準備が面倒くさいんだぞ?
いつのまにか仲良くなったチビっ子二人は、なにやら次に食べたいものの話題で盛り上がっている。
……まあ楽しそうだからいいか。話もそれたし。
ミシェルには蕗の誕生日に来てもらおう。八月なので二ヶ月後だが。
ビーフシチューに浸したパンを食べつつ、ちらっと織目さんの様子を窺う。
彼女は押し黙ったまま、じっとテーブルの皿に視線を落としていた。
無理に食べなくていいと言ったが、やっぱり気にするか。
……すこし、急ぎすぎたかもしれない。
別に料理はタッパーに移して持って帰ってもらえばいいのだ。
気に入らないなら捨ててもいい。
とにかくあまり思い詰めるなと声をかけようとした時――――織目さんは、ゆっくりとライオンの頭を掴んだ。
猛々しいかぶりものが取り外されて、誰かの息をのむ音がする。
当然のように中は蒸れるのだろう。伸びた前髪が汗で形のいい額に貼りついている。
何時間かぶりに見た彼女の素顔は、まるで湯あたりしたみたいに、真っ赤になっていた。
「い、いただき、ます……っ」
こんな時でも行儀よく両手を合わせて。
古いロボットみたいにぎこちない動作で。
織目さんは、ビーフシチューを口元に運んだ。
誰も、一言も声をもらさない。
こんなに注目されてたら食べにくいんじゃないかと思ったが、織目さんはもう目の前の料理しか見えていないようだった。
余裕がないのだろう。
その表情からはあきらかな緊張が伝わってくる。
さすがと言うべきか、それでも彼女の食事をする姿勢は、とても丁寧で綺麗だった。
やがて――儚げな少女の瞳から、透明な雫が流れ落ちた。
「……あ、あれ? 織目さん、ひょっとしてまだ熱かった!? お、おおお水を!」
「い、いえ、違います……へ、変ですね……悲しくないのに、どうして、私は泣いているのでしょう……?」
彼女は困惑したように目元を拭う。
けれど流れ出す涙は止まることなく、真っ白な頬を次々と濡らした。
なぜだろう。俺はその姿を見て、心のどこかで安堵していた。
幼い日の俺と重なったのかもしれない。
自分でもこの気持ちの説明はどうも難しいが。
ただ……この家に織目さんを呼んだ目的は、無事に達成されたのだと感じた。
「新屋、さん……あの、とても……っ…………とても、おいしい……です……っ!」
子供みたいにしゃくりあげながら、それでも彼女は無理やりに笑みを浮かべる。
……本当に不器用な性格だな。
思わず「もっと肩の力を抜けよ」と言ってやりたくなる。
しかしいまの彼女にそれは難しいだろう。
だから、俺は代わりにこう言った。
「……まあ、おかわりはいくらでもあるから、慌てず落ち着いて食べろよ」
返事はろくに言葉になっていなかった。
桂姉がやさしく肩を抱いて、憮然とした顔のミシェルがおそるおそる背中を撫でる。蕗がティッシュペーパーを片手に右往左往しているが、そいつの役目はもうしばらく先だろう。
俺は冷めた料理でも温め直してこようか。
空になった自分の皿を持って、静かに立ち上がる。
実はもう一つ、彼女に提案することがあった。
それを伝えるのは食後に落ち着いてからでいいだろう。
さて、話を聞いた彼女はどんな反応をするのか……
人が増えていつもより賑やかな声を背中で聞きつつ、そんなことを考えた。




