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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第5章 獅子とドール
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獅子とドール 2








 深窓の令嬢、という言葉を目にすると、おそらく誰もが図書館で静かに本を読む美人の姿を思い浮かべるのではないかと思う。

 肌は日に焼けず真っ白で、伏せられた表情にはあふれんばかりの知性が滲む。

 端整な横顔はやや憂いを帯びて、ページを繰る指先は透き通るほど美しい。


 いま、俺の目の前にいるのは、まさにそういった少女であった。



「…………にい、や……さん?」


 背中まで流れ落ちる長い黒髪、病的なまでに白い肌。

 切れ長の涼しげな目は驚愕に開かれて、真夜中の海のようにさざめく瞳が俺を捉える。薄い唇が半開き、というのはすこし間抜けだが。

 でもすごい美人だ。ていうか誰だ。

 いや、本当はわかっている。


 ――織目さんだ。

 彼女が、あの鑑定の天才の織目小夜子さんである。


 声を聴けば間違いようがない。

 ただ、


「ど、どうして、新屋さんがここに………………あっ!?」


 ようやく状況が理解できたのか、織目さんが慌てて両手で顔を覆う。

 そこまでしてその顔を見せたくない理由はなんだ、とも思ったが、俺も冷静とは言い難い状態だったので声が出ない。

 自宅でもなぜか制服姿だった彼女は、逃げるようにジリジリと後退しはじめる。

 そしてなんとなく想像できた通り「ああっ!?」と悲鳴が上がって、床から鈍い地響きがした。


 ……急いで目を逸らす。


 見えた。

 倒れた瞬間、真っ白なふとももの間に…………なにか、濃い青色の布が……。


 ――――この人は、俺の心をどうしたいのだろう?

 これまでずっとライオン頭だった変人が、実は知的な見た目の美少女で、しかしいまは「いたた…………あ……ひゃああああっ!?」と奇声を発しながら逃げているというこの状況。

 もうどんな気持ちでいればいいのかわからない。

 いきなり出てきた情報が多すぎる。

 もしこれでさっきのアレに反応してしまったら、俺の中の大切ななにかが永遠に失われてしまいそうな気がする。


 そんな、あんまりといえばあんまりな葛藤を抱えて立ち尽くす俺の目の前で、バンッ! と他の部屋の扉が開いた。



「なんだなんだーっ!? 侵入者かーっ!」

「いてまえー! 不埒モンはひっ捕らえて吊るし首じゃ!!」


 木張りの廊下に得物を手にしたお姉さんたちが次々と飛び出してきた。

 ……ああ。セキュリティーって、こういう…………


「覚悟せんかいッ! おんどりゃああああああ!」


 狂犬じみた動きで踊りかかってくる女たちを前に、俺が思ったことはただ一つ。



 ――帰りたい。




        ◇



『…………申し訳ありませんでした』

「もういいよ。別に織目さんは悪くないし、寸止めだったから」

「そうよ。むしろ謝罪するのは、堂々とレディーの下着を見たニーヤの方だわ」


 いや、それも違う。

 堂々とは見てないし、あれは事故だ。俺は決して悪くない。

 あと、あまり思い出させないでほしい。


『し、下着……』


 俯いた織目さんが正座した膝をもじもじとすりあわせる。

 ……そういう乙女チックな動作も、ライオン頭を装着済みの状態では、ちょっとご遠慮していただきたい。

 俺の精神面はもういろいろと限界なんだ。


「まあ、その、なんだ……よかったじゃないか。周りが、やさしそうな人たちで」


 ついさっき、早とちりを気さくに謝罪しつつそれぞれの部屋に帰っていったお姉さんたちを思い返して言う。

 勘違いで襲撃しておいて『いや〜、すまんな兄ちゃん。かんにんやで〜』と軽やかに流そうとするのは人としてどうかとも思うが、織目さんが止めてくれたおかげで実害はないし、それだけ同じ住人を大切にしているのだと考えれば溜飲も下がる。ポジティブ思考が身についてきたと感じる今日この頃だ。

 ……まあ、あの人たちにはできるだけ近づきたくないが。

 いったい何者なのだろう。

 この街では、変人を一人見つけたら百人いると考えた方がいいのだろうか?


『はい……みなさん、とてもよくしてくださって』


 しみじみと織目さんが言う。

 ならもう蒸し返す必要もないだろう。

 話題を変えようと、俺は部屋を見回した。


 物のすくない部屋だ。思ったより広い。小さなキッチンはあるが、トイレや風呂場は見当たらなかった。アパート内で共同なのだろうか。

 六畳ほどの室内に、あるのは古い卓袱台とタンス、あとは押入れぐらい。

 それだけだ。テレビどころか冷蔵庫すらない。

 彼女は本当にここで暮らしているのか。

 そんな疑問を抱くほど、この部屋の中にはあまりにも生活の気配が感じられない。


「ニーヤ、あまりレディーの私室をじろじろと見回すものではないわよ」

「おっと、すまん……」


 窘められて目を戻すと、織目さんが気まずそうに縮こまっていた。

 失敗した。あまりにも殺風景だったから、ここが女の子の部屋だということを忘れていた。


「もういいかしら? 挨拶が済んだのなら、要件に入りたいのだけど」


 他人の部屋でも遠慮しないミシェルが切り出した。

 まあ何度も来ていることもあるだろう。

 俺が頷くと、織目さんが小さく手を挙げた。


『あの……新屋さんは、どうしてこちらに……?』


 ……まさか聞いてないのか?

 驚いてミシェルを見る。

 彼女は悪だくみがバレた子供のように顔をそむけた。


「……サヨコに伝えたら、絶対に遠慮して辞退すると思ったんだもの」


 呆然とする。

 ということは、今日のことは誰も知らなかったのだ。

 そりゃあ織目さんも驚くだろう。

 知り合いが、接点のないはずの知人を連れて、いきなり家にやってきたら。

 いったいどんなサプライズだ。


『ど、どういうことですか? ミシェルさん……それに、お二人はいつの間にお知り合いに……?』

「前に話したでしょう、パートナー制度の話。ニーヤにも教えたの」

『ええ!? そ、そんな、前は待ってくださると……』

「時間切れだわ、サヨコ。もう悠長に構えていられる時期は通りすぎたの。……それに、この問題はわたしたちだけじゃ手に負えない。あなたもわかっているはずよ」


 言い聞かせるような声音に、織目さんが「うう……」と言葉を詰まらせる。

 パートナーの話を知ってはいたのか。

 織目さんは、その上で俺に伝えることを保留していた、と。

 ……気持ちは理解できなくもないが。

 だが、それよりもずっと気になっていることがあった。


「なあ、一ついいか?」


 二人の顔がこちらを向く。

 あまりデリケートな話じゃなければいいけど……と思いつつ、訊ねた。


「織目さんは、どういう人形を作ってるんだ?」


 すぐに返事はなかった。

 ……やっぱりまずい話題だったか?

 ひそかに内心で慌てていると、ミシェルが口を開いた。


「見せてあげたら?」

『ですが……』

「いいじゃない。別にそれで利益も不利益も出ないでしょう?」


 よくわからないやりとりのあと、言いくるめられた織目さんが躊躇いながらも立ち上がる。

 向かったのは、有名な青いロボットが住んでいそうな押入れだった。


「……よかったのか? 別にそこまでして知りたいわけじゃないんだが」

「構わないわよ。それに、あの子が抱えてる問題にも関わることだし」


 はあ、そうなのか。

 いったいどんな人形が出てくるのだろう。

 当然ながら人形に関する知識など持ち合わせていないので、あまり前衛的な作品を見せられても感想に困る気がする。

 やがて、織目さんが大きな段ボール箱を抱えて戻ってきた。


『あの、まだ未完成なので……笑わないでいただけると、ありがたいのですが……』


 それは大丈夫だと思う。俺に人形を見て笑えるような感受性はない。

 目を見て頷くと、彼女はおずおずと封を解きはじめた。



 そうして現れた人形の姿に――――心臓が、跳ねた。






 それは小さな“人間”だった。


 全長は二十センチほど。

 未完成という通り、腰から下がない。

 眠るように目を閉じた……限りなく人間に近い、なにか。


 かつて、リアルな蝋人形というやつをテレビで見たことがあった。

 たしかハイパーリアリズムと銘打たれたその作品は、思わず本物と見紛うほどの質感が表現されていた。


 ……だが目の前の人形は、それらともはや別の次元にある。

 うっすらと静脈の浮かぶ肌も。瑞々しい桜色の唇も。妙に艶めかしい白い胸の曲線も。

 やわらかく閉ざされた目蓋や、空気の流れにそよぐ長い睫毛さえ。

 ふとした衝撃で、うっかり目を覚ましてしまいそうな。

 もはや冒涜的とすら感じられる、異様な存在がそこにあった。


「触れてみなさい。きっといまよりもっと驚くわ」


 声をかけられた拍子に、停止していた思考がようやく動きはじめた。

 触る…………この人形に?

 サイズを除けば現実の女性と同じ、それも隠されていない裸身に触れることを躊躇っていると、織目さんが人形を差し出してきた。

 恐々と、生まれたての赤ん坊を抱くように、その眠り人形を受け取った。


「ぅ……わ……」


 変な声が出た。


 ――指が、肌に沈んだ。


 そのあまりにも生々しい感触にゾッとする。

 完璧な人の皮膚だった。

 弾力や、滑らかな手触り。

 どれもが人間と比べて遜色ないほど、精巧に作り込まれている。


「驚いた?」

「あ、ああ……これ、本当に人形なのか?」

「もちろん。サヨコは人形師だもの」


 まるで下手なジョークみたいなやりとりだ。

 けれど、おかげで衝撃からは抜け出せた。


「保留期間であっても、制作への援助なら『商会』は惜しみなく支給するわ。でもわたしたちは素材を準備しただけ。このドールを作ったのは、まぎれもなくサヨコの才能よ」


 なぜかミシェルが自慢げに胸を反らす。

 自分が見つけた、とでも言いたいのだろうか。


『いえ、才能だなんて、そんな……』


 そして織目さんは当然のごとく謙遜しはじめた。

 これだけの腕があるんだから、もっと自信を持っていいと思うのだが。


「なあ、この状態で提出しちゃいけないのか? 俺は芸術のことなんてわからんが、これだけでも充分にすごいぞ」

「可能よ。むしろ、わたしはその方法を推奨してる」


 だったらどうして……と訊ねかけて、気づいた。


「……なるほど。そういうことか」


 織目さんがこの人形を提出しなかった理由。

 おそらく、それが――


「ええ、そう――サヨコは、人形作りで代価を得ることを拒絶したの。

 それきり制作は滞ったまま一歩も前に進んでいないわ。きっと問題を解決しない限り、現状から抜け出すことはできないのでしょうね」


 ミシェルが補足して、織目さんを流し見る。

 視線を受けた織目さんは、身を固くしてスカートの裾をギュッと握った。

 その仕草は怯えているようにも、あるいは自分を責めているようにも感じられた。


 俺は彼女が口を開くのを待った。

 強制してはいけない。

 おそらくこれは、そういう類の事情だ。



 長い沈黙のあと……織目さんは、ひどく重々しい動きで顔を上げた。


 表情は見えない。

 ただ、彼女から発せられる過剰な緊迫だけは、感じ取ることができた。

 そして織目さんは、


『……私は…………師匠の……』


 小さく首を振って。


 迷いを追い払うように。

 崖から水面へと一歩を踏み出すように。


 いまにも消えて失くなりそうな、絞り出すようなか細い声で、彼女は告げた。



『――――祖父の心を……踏みにじったのです』



        ◇



 その独白は、いくつかのピースがはまるような感覚と、澱んだもやのような違和感をない交ぜにして、思考の内側を埋め尽くした。

 師匠というのが織目さんの身内であることは、なんとなく想像できていた。

 いくら才能があるとはいえ、彼女の鑑定の腕は一朝一夕で身につくようなものじゃない。おそらく、幼い頃から長い時間をかけて知識を積み上げてきたはずだ。

 となると、赤の他人というのは考えにくい。

 古物市で会った志摩木のじいさんも、そのことを見抜いていたのだろう。

 長く会っていないと言っていたから、たぶん織目さんが生まれたのは二人が喧嘩別れしたあとだ。


 だが…………心を踏みにじる、というのがわからない。

 逆ならまだしも、織目さんはあの性格だ。遠慮がちで、たまに突拍子もない行動に出ることもあるが、俺の知る限りでは充分に慎み深い女性だと思う。

 そんな彼女のイメージと、懺悔にも似た告白の内容がうまく噛み合わない。


「サヨコ、実物を見せた方がいいわ。たぶんこのままじゃニーヤは理解できない」


 見せる?

 意味がわからずミシェルに目を向けると、小さく肩をすくめられた。


「……わたしも、まだ状況が理解できていないの」


 彼女にしては珍しい、困惑したような声音だった。


「元々はタカツグ――この子の祖父と、うちのボスが美術品がらみの知り合いだったの。わたしがサヨコと会ったのも、彼から孫娘のギフテッド認定を依頼されたことがきっかけよ。

 けど、タカツグは結果が出る前に亡くなった。……きっと死期が近いことを悟っていたのでしょうね。家族とうまくいっていないサヨコを『商会』に託したのも、身辺整理のつもりだったんじゃないかって、いまなら考えられるわ」

「うまくいってないって……そこまでひどいのか?」


 返事はない。代わりに、再び視線が織目さんを向いた。

 さっきから固まったままの彼女は、思い詰めた声でぽつりと答えた。


『…………私の母は、父の愛人でした』


 意図せず息が詰まる。

 ――それは頭を鉄の塊で殴られるような。

 鋭く、重い衝撃だった。


『母の顔は、覚えていません。すでに亡くなられたと聞いています。私は物心つく前に父の元へ引き取られて、大鷹宮に古くから続く家のお屋敷で育ちました』


 淡々と織目さんは出自を語る。

 すべての感情を押し殺した彼女の声を、俺はただ信じがたい心持ちで聞いていた。


『父は私を優れた大学に入れて、いずれ利益になる家に嫁がせるつもりだったのだと思います。そのように、幼少の頃から教育されてきましたので。

 ……ですが、私のあまりの物覚えの悪さに、いよいよ父も愛想が尽きたのでしょう。通っていた私立の内部進学に失敗したことを機に、家から出されることになりました』

「ちょ、ちょっと待ってくれ! …………進学に失敗したから、勘当された……? どういうことだよ、それ……」

「言葉のままよ。前に話したでしょう? サヨコは家族に捨てられたって。この子がいたのはね、そういうカビくさい慣習を現代まで大切に引きずってきた名家なの。女は賢くあれ、夫と子に尽くせ、ってね……ほんと、時代錯誤な連中だわ」


 ミシェルの物言いが珍しく荒い。

 しかし、同じようなことを俺も考えていた。

 優秀じゃないから子供を捨てる? ……いったい、どこの国の話だ。

 胸の奥底が鉛を飲んだみたいに重くなる。


『……私が、ちゃんとできなかったのも、よくなかったと思います』

「いや、そんなことは」

『いいえ。もし私が教えられた通りに行動できていれば……せめて、私が普通の子供だったなら…………祖父に心労を負わせることも、なかったはずですから』


 ……どういうことだ?

 言葉の意味が理解できずにミシェルを見る。

 しかし、いつも強気な彼女の表情は曇ったままだった。


「……そこがわからないの」


 思い悩むような声が、小さくこぼれた。


「わたしの知る限り、タカツグは孫娘を大切にしていたわ。あの監獄みたいな屋敷で、サヨコの味方だったのは年老いた彼だけだった…………なのに、どうしてあんなものを遺したのか……わたしには、彼の意図がさっぱり読みとれない」


 息を吐き出したミシェルは、力なく目を閉じた。

 はじめて会った時とはまるで別人のような弱りきった姿に、彼女たちの直面した問題が相当に厄介なものであることを知る。


 話の全貌はいまだに見えない。

 だが状況だけなら、すこしは理解できたと思う。


「……つまり、お祖父さんの遺品が原因で、織目さんは人形を作れなくなったんだな?」


 二つの顔がこちらを向く。

 やや憔悴したように感じられる二人は、それぞれ緩慢な動きで頷いた。



 考える。

 これは一人の女の子の人生に関わる問題だ。

 はたしてその問題は、俺の手に負える程度のものなのか。


 織目さんの抱える重責はいまだ不透明。

 解決できる確証など、まるでない。

 ……だが、


「わかった。とにかく、まずはその遺品ってやつを見せてくれ」


 自分でも意外に思えるほどあっさりと、俺は最初の一歩を踏み出した。


『新屋さん……ですが』

「自分の都合に巻き込みたくない、か?」


 細い肩が動揺したように跳ねる。

 顔が見えないのに本当にわかりやすいな、この人は。


「全部わかるとは口が裂けても言わない。でも、すこしなら共感ぐらいはできる。

 ……俺にもあったんだ。誰も他人を寄せつけずに、自分はこの世界で一人きりになったと思ってた時期が」


 両親が死んで、この街に引っ越してきた時。

 はじめて登校した見知らぬ教室は――俺にとって、味方のいない異邦の地に等しかった。


 自分以外の誰も頼れない。

 弱いところを見せちゃいけない。

 嫌われないよう、傷つかないように。

 周囲の反応に神経を研ぎ澄ませて、自分が必要とされる立場を死にもの狂いで探していた。


 けれど、俺には差し伸べられた手があった。

 それは恩人である新屋のおじさんたちや、化けの皮を執念深く剥ぎ取りにきた悪友だったりするのだが、きっとそのことだけでも俺は十二分に恵まれていたのだろう。


 対していまの織目さんは独りぼっちだ。

 ……正確には、一人きりだと思い込もうとしている。


「経験談だけどな、そういうのは長続きしないんだ。一度や二度ならまだしも、無茶を何度も通せば必ずどこかで限界が来る。ゴールの存在しない道を、休憩もせず延々と走り続けるなんて、どんな人間でも不可能なんだよ」


 最初、俺は新屋のおじさんたちのことを「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。

 養子になることも、前の苗字を捨てることも、それが最も合理的で誰にも迷惑をかけない方法だと判断すれば、躊躇わずにそうした。


 しかし、おじさんたちは『呼ばなくていい』と言った。

 無理をするな、と。

 自分の心を殺すようなまねだけはしてくれるな、と。

 たとえどんなことになっても必ず受け止めるから、自分たちはゆっくり家族になっていこうと、おじさんとおばさんは意地を張る俺に根気強く説いてくれた。


「……織目さんは最近、深呼吸したことはあるか? もしまだなら、やってみるといい。

 それで周りをよく見てみろ。あんたを助けようと必死になって走り回ってたやつが、たぶんすぐ近くで見つかるぞ」


 これみよがしにミシェルの方を向いてやると、キッと睨みつけられた。

 余計なことを言うな、といったところか。

 だがもう遅い。

 言葉の意味に気づいたらしい織目さんが、おずおずと頑固な少女を見た。


『ミシェルさん……』

「違うわ。これがわたしの仕事だからよ。妙な勘繰りはよしてほしいわね」


 こいつもたいがい素直じゃないな。……まあ俺が言えた義理じゃないが。

 さっさと本音を口にすれば、織目さんは間違いなく受け入れると思うぞ?

 ほんのり赤くなった頬を隠すように身体ごと背ける意地っ張りに呆れつつ、俺は呆然とする織目さんへと向き直った。


「そういうわけだ。俺も手を貸すから、その問題ってのをもう一度たしかめてみないか」


 これは百パーセントの善意ではない。

 他人の人生に土足で踏み込む、見る者によっては偽善と呼ばれる類の行動だ。


 ――それでも俺はやると決めた。


 自分の意思で、彼女を助けると決めたのだ。

 もう逃げることは許されない。

 あとは、織目さんがどう判断するかだが……


『…………私は、祖父にたいへんな苦労をかけたという自覚があります。もしも私がいなければ、父と祖父の関係がいまほど悪化することもなかったはずですから……』


 ぽつぽつと、己の罪を告解するかのように、彼女は胸のうちを語る。

 俺は余計な口をはさむことはせず、黙って彼女の「答え」を待ち続けた。


 ……やがて、織目さんはゆっくりと顔を上げた。

 分厚い覆面の下の表情はわからない。

 ただその姿からは、迷子が救いを求めて喘ぐような――――必死に行き止まりから抜け出そうと足掻く、たしかな意思が感じられた。


『でも……もし、私の見たものと違う事実があるのなら…………私は、それを知りたい』



 それはあまりにも弱々しく、触れれば壊れてしまいそうな、震える声で。


 けれど彼女の救難信号は、小さくともたしかに届いた。


 ……なら、俺のするべきことは一つだ。



「ああ、見つけよう――織目さんが笑っていられる、本当の未来を」







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