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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第4章 シンガン×シンガン
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シンガン×シンガン 5







「儂が今日ここに来たのは、一人の男に会うためだ。奴は儂より十も年下で、しかし傾きかけた家を再興させるほどの才覚と魅力に満ちあふれた男だった」


 ぽつぽつとじいさんが話しはじめる。

 おそらくただの思い出話でしかないそれに、けれど誰もが黙って耳を傾けていた。

 妙に意識を惹きつけられる声だ。こんなところで、俺はこのじいさんが只者ではないことを実感する。


「とくに経営の手腕に優れていたわけではない。ただ、奴には他人を惹きつけるなにかがあった。……その一つが、骨董に対する情熱とセンスだったのだろうな。上流階級の人間にはアンティークの熱心なコレクターも多い。奴はその才覚と人好きのする性格で、国外にまで繋がりを広げておった」


 気のせいだろうか。ちらりと織目さんを見た気がする。

 しかし、じいさんはなにごともなかったように顔を戻すと、再び話を続けた。


「奴とはじめて会ったのは小さなオークション会場だった。もう四十年近く前になるのか。当時は日本中が好景気に浮かれて、様々な古美術品が飛ぶように売り買いされておった。若いお前さんたちには想像もできんだろうが、この国にも湯水のように金を浪費する未熟な時代があったんだ。

 そんな酩酊したように周囲が騒ぎたてる中で、堅実に良い商品を見極めんとする奴とは妙に気が合っての。互いに意気投合して、奴が展開した新たな事業に手を貸したり、儂がエミールの作品を買い入れる時には鑑定を頼んだりしておった。

 ……だが、些細なことで喧嘩別れしてしもうてな。それきり奴とは一度も顔を合わせんままだ」


 どこか自嘲するような言葉尻に、俺は明かされなかった事実の一端を知る。

 じいさんはすべてを過去形で語っている。

 だとすれば、その相手はもう……


『……その方と…………どうして、喧嘩したのですか?』


 沈黙していた織目さんが訊ねた。

 それは意図したものではなく、思わずといったような衝動的な声音だった。


「なに、ロクでもない理由だよ。儂があるいわくつきの作品を買い入れようとした時、奴が止めたんだ。『あれは偽物だ』とな。……のちに調査した美術館から真作だったと発表があり、その作品には買い値の百倍の価値がついた。

 別に金額なんぞはどうでもよかったんだが、落札したのが儂の大嫌いだったコレクターでのう。エミールの真作を逃した悔しさも相まって、随分と奴をなじってしまった。あの頃は儂もまだ若く、コレクションを増やすことこそ人生の目的だと粋がっておったからな。

 ……だが、奴が止めてくれたおかげで、儂の趣味に愛想をつかしておったカミさんと縁を切らずに済んだ。ひょっとすると奴は、儂の家庭のことを考えてあんなことを言ったのかもしれん。まあ、ちと抜けたところのある性格だったから、本当に間違えただけかもしらんが」


 そして、志摩木のじいさんは自分の手を見下ろした。


「儂がそれに気づいたのは、孫をこの腕に抱いた時だ。生まれた世界で懸命に生きようと伸ばした小さな手を見た時、儂は己の了見がいかに狭いものだったかを思い知った。

 同時に、仕事とコレクションにかまけてばかりでほとんど面倒をみなかった息子や娘らにも申し訳なくなったな。

 そう感じられるようになったのも、すべて奴のおかげだ」


 暮れはじめた空に向けた視線が遠い。

 それはまるで過去を悔いているような……言っちゃあ悪いが、この老人にはあまり似つかわしくない表情だった。


「……一言でいい、奴に謝りたかった。もし許されるなら、必死になって手に入れた馬鹿な失敗作を肴に、奴とまた酒を酌み交わしたかった。

 しかし、ここに来るより前にその願いが叶わんことを知らされた。

 ならばこのトリステスのなり損ないを心から必要とする者に託そうと、古物市に参加を申し込んだんだ」


 ふいに心臓が不快な音を立てた。

 ――なぜ。

 志摩木のじいさんは、どうしてエミール・ガレの作品を譲る必要があった。


 蕗の話を聞いて浮かんだ可能性が、黄昏の魔物のごとく闇の中から姿を現す。


 こちらを向いたじいさんは、まるで俺の心情を読んだかのように、薄い笑みを刻んだ。


「――……がんだ。もうこの身体から見つかるのは三度目でな。次に再発すればいよいよ危ないと、かねてより医者から告げられておった」


 ……ああ。

 なんとなく、想像はついていた。

 メリットのまるでない賭けをはじめた理由。

 目的の人物がいなかったのに、それでもゲームを強行した理由は。


 ――大切な作品を託すに足る人物を、見つけるため……。



「とはいえ、とくに悲観もしておらん。儂は存分に人生を楽しんだという自負があるし、運よく好きなことを手放さずに生きてこられた。まあ周りには迷惑をかけ通しだったがの。

 倅たちはとくにアンティークに興味を示すでもなし。なら、生涯をかけたコレクションは同好の士に託すのが最良の道というものだろう。……あるいは、それで誰かの人生を変えてやるのもおもしろい」


 陽射しを受けて輝く青の花瓶が、立ち尽くす青年の前に差し出される。


「どうする、関口。お前の人生に救いは必要か?」


 関口さんは答えない。

 瞳を揺らして、恐れを抱くように後ずさる。

 ……だが、その足が下がりきることはなかった。


「ぼ、僕は……」


 青年がゆっくりと顔を上げる。

 その瞳にあったのは――強い意思の光。


「……もう一度、自分の力で考えてみたいと思います。ちゃんと自分の意思で、未来を選びたい…………ですから、すみません。ガレの買い取りは辞退させてください」

「そうか。残念だな」


 関口さんが深く頭を下げて、じいさんは小さく肩をすくめた。

 それはまるで残念だなんて思っていなさそうな、穏やかな笑みだった。

 なにもない空間をさまよっていた幻の花瓶が音もなくテーブルに置かれる。


「……ここに来て、儂はもう未練などないと思っておった。唯一の気がかりは奴のことだったが、その想いを受け継ぐ者がいるのも知れたしの」


 今度はたしかに、じいさんの顔が織目さんを向く。

 彼女はただでさえ良い姿勢をさらにピンと伸ばした。

 どうやら、すこし苦手意識が生まれたらしい。


「だが――儂の予想を上回る出来事も起きた。つくづく人生とはわからんものだ」


 そう言って志摩木のじいさんが見たのは、どうしてか俺だった。

 ……嫌な予感がする。


「のう、暁彦よ。もし儂が地獄から舞い戻ってきたら、また知恵比べをしてくれんか」

「嫌だよ。こんな面倒くさいこと、どこか俺と関係のない場所でやってくれ」

「お前さんはブレんなあ。本当にかわいげのないやつだ」


 俺の返事なんて予想済みだったのか、じいさんはさも楽しげにカラカラと喉を鳴らした。

 これだから嫌なんだ。知恵の回る年寄りなんてのは下手に相手するもんじゃない。

 蕗の非難するような顔や、織目さんのもの言いたげな視線も振り切って、俺は踵を返す。

 ……。

 …………。

 ………………ああ、もう。


 俺は絞り出すような溜め息を吐いて、肩越しに振り返る。


「……将棋か麻雀でいいなら、相手してやるよ」

「ほう、それはいい。儂の得意分野だ。骨の髄までしゃぶり尽くしてくれよう」


 ほら見ろ、やっぱり面倒くさいことになった。

 げんなりする俺を眺めて、老人はまるで子供みたいな笑みを浮かべた。


「まったく、おちおち死んでもおれん。――これだから人生は最高だ」



        ◇



 広場を出たのは六時をすこし回った頃だった。古物市などとっく終了して、辺りではまだ撤収作業が続いている。

 なぜこんな時間になったのかといえば、あのあと野次馬の大多数に捕まったからだ。


 曰く――“志摩木さんが目をつけた人材に興味がある”とのこと。


「上流階級にはアンティーク好きが多い」の文言に偽りなし。

 声をかけてきたのは初老より上の年代で、かなりの地位にいる御仁ばかり。

 あのじいさん、どれだけ影響力を持ってるんだ。おかげで適当に話をはぐらかして逃げ出すのに一時間近くかかった。さすがにこの歳で進路を決められるのは御免である。

 みなさん落ち着いて考えてほしい。俺はどの角度から見ても一般的な高校一年生だ。普通で平穏な青春を謳歌できる可能性だってきっとまだあるはずだ、と微粒子レベルの希望に縋りつきたい新入生だ。

 なんなら柑橘類のごとき甘酸いアクセントがあってくれてもいい。――嘘です。それは是非あってほしい。他人から羨まれる高校生活を、とくに苦労もせず送りたい。

 こんな、しょっちゅうわけのわからない騒動に巻き込まれる毎日じゃなくて。


 などとままならない現実を嘆いているうちに、デパートの前まで辿り着いた。

 ……が、誰もその扉を潜ろうとしない。

 新屋家三人の視線が交じり合う。その顔にはどれも『もう今日はやめとこうか』と書かれている。


「……今日は、もう帰りましょうか?」


 桂姉が口に出してしまった。

 見渡した顔にはそれぞれ色濃い疲労が窺える(一人見えないが)。

 もちろん俺だって疲れていた。身体はまだしも頭と精神力がもう限界だ。しばらくなにも考えたくない。

 無言のまま意見が一致したことを確認すると、誰からともなくドイツのある方角(推定)に向けて手を合わせた。

 ――新屋のおじさん、すみません。

 ニ十秒ほど謝罪を捧げて、俺たちはデパートの入り口を後にした。




『あの……』


 駅前からすこし離れた街路に入ると、織目さんが小さな声で呼びかけてきた。

 ミシェルに教えられた住所が正しければ、別れる予定の道はもうすこし先のはずだ。

 振り返ると、所在なく佇む織目さんの姿が見えた。表情がまったく見えないのに感情を読めるようになってきたあたり、彼女がわかりやすい性格なのか、俺の感性が近づきはじめているのか……後者だといろいろ危ない気がする。

 そして、さほど長くもない空白のあと、織目さんは深々と腰を折った。


『……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんで』

「織目さんは悪くないよ!」


 消えてしまいそうな声の謝罪を遮って、蕗が飛びついた。


「ゲームに参加してって頼んだのあたしじゃん! ワガママもいっぱい言ったし、謝るのはあたしの方だよ! ごめんなさい!!」


 すごい勢いで謝ったな、おい。

 こんな元気のいい謝罪はいまだかつて見たことがない。


『い、いえ、蕗さんは悪くありません…………私の腕が未熟なせいで、新屋さんにはまた、苦労を押しつけてしまって……』

「小夜子ちゃんは、悔しかったのよね?」


 桂姉がやわらかな声で問いかける。

 急な話題の転換に、織目さんは驚いたように顔を上げた。

 言葉を詰まらせた彼女は、けれど己の感情を探るかのように胸に手を当てて、おずおずと答えた。


『……そう、かもしれません…………私の師匠は、エミール・ガレの作品に触れることを自ら禁じていました。私で、その呪縛を断ち切ることができればと思ったのですが……』


 しかし彼女は失敗した。

 ……ただ、別に慢心があったのではないと思う。そんな性格じゃないだろうし、傍から見る限り、充分すぎるほど注意深く鑑定していた。

 今回は単純に相手が悪かったのだ。

 危なっかしいほどまっすぐな織目さんとあの妖怪みたいなジジイでは、相性があまりにも壊滅的すぎる。

 しかし、それでは俺の性格まで捻じくれているようになってしまうので、俺はあえて流して違う話題を口にした。


「織目さんが幻の花瓶とやらを鑑定する時に躊躇ったのは、それが原因か?」

『はい……ガレの作品は、師匠が亡くなったあとに知人が見せてくださったのですが……やっぱり、だめですね。自信が持てませんでした』


 おそらくそれは、その師匠とやらの影響で苦手意識が根づいているのだろう。

 こう言ってはなんだが、おかげで俺は織目さんを同じ人間なのだと認識できた気がする。

 彼女にも苦手なことがあって、失敗することだってあるのだ。

 たとえ考え方や見た目が違っていても、ものの感じ方は俺たちとそう変わらない。そんな当たり前のことを、いままでまともに考えようとさえしていなかった。


「ちょっとくらい失敗してもいいんじゃないかしら? 私たちはまだ学生だわ。なんでも完璧にこなすなんて、きっと難しいことだもの」

『ですが……』

「大丈夫。もし失敗しても、また暁彦ちゃんを頼ればいいのよ。もちろん私もできることなら力になるわ。無愛想だから誤解されやすいけど、うちの弟はとってもやさしい子なんだから」


 ……あの、本人の前でそういうのはやめてもらえませんか? できれば俺がいなくてもやめてほしいけど。

 こちらを振り向いた桂姉から「ね?」と同意を求められて、渋々頷く。

 この状況で堂々と抗議できないぐらいには、俺もたぶん、もうちょっと素直な子供じゃなくなってしまっていた。

 そして、どこか湿っぽくなった空気を断ち切るように、蕗が明るい声を上げた。


「ねえ織目さん! これからラーメン食べに行こうよ!」

『え、え? ……ラーメン、ですか?』

「そう! あたし美味しいとこ知ってるんだ! あ……い、いいよね、アキにぃ?」


 よくその見るからに物を食べにくそうな格好の人をラーメンに誘ったなとは思うが、とくに反対する理由もない。夕飯を作らずに済むなら俺としても大助かりだ。

 首肯して、織目さんに視線を移す。

 しばらく迷っていた彼女は…………しかし、おずおずと頭を下げた。


『申し訳ありません。せっかくのお誘いですが、今日は……』

「あ、ううん! いいのいいの! 急だったしさ! でも、今度行こうね!」


 ……だろうな。

 なんとなく予想はしていた。

 たぶん彼女は、外ではあのライオンを脱がないだろう、と。


『……はい。ありがとうございます』


 いつも通りの控えめな声。しかし、いつにもまして口調が硬い。

 そのまま別れの言葉を告げて、織目さんは脇道に逸れてしまった。

 そっちの方角は帰り道からはずれるはずだが……まあ、一人になりたいのだろう。無理に引き止める必要もない。


「アキにぃ…………あたし、織目さんを傷つけちゃったのかな……?」


 目を向けると、半泣きになった蕗の顔が見えた。

 こいつ、そんなこと気にしてたのか……。


「安心しろ。そういうのじゃないから」


 まだよくわかっていない様子の蕗を、桂姉がやさしく抱き寄せる。

 なんとなく、俺には織目さんの気持ちが理解できた。

 それはきっと――――俺が、この街に来た時と似た感情。


「もう関わらずに放置、ってわけにもいかないか……」



 もし、いまの彼女があの日の俺と同じだというのなら。

 そろそろ肚を括る時が来たのかもしれない。


 深く息を吐く。

 目を開くと、蕗が不思議そうな表情でこちらを見上げていた。

 その頭を軽く撫でて、言う。


「まあ、今日はラーメン食べて帰るか」


 焦っても仕方がない。

 いまはただ、自分がどうするべきかを考えよう。


 肩の力の抜けた、現在の俺にとっても非常に魅力的な提案は、姉妹の笑顔によって迎え入れられた。







 ――俺には大きな借りがある。


 いくら必死になって返そうと、たとえどれだけ時間が過ぎたとしても。

 決して消えることのない――大きな借りが。






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