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終末少女

作者: 輪竹裕理

 増えすぎた人類を、地球の重力が支え続けていくことを拒否したかのようだった。

 嫌悪感に身ぶるいするかのように頻発する災害から始まって、高騰する多くない食糧を奪い合う人々の間に、未知なる病原菌による致死性の伝染病が広まり、躍起になって開発されるワクチンと称されるものを片端から嘲笑うように人と呼ばれる種族だけが、次々死んでいった。

 人間は、あっという間に、瞬く間に、ほとんど何の対策を講じることもできぬまま、衰退し、滅亡した。

 そしてあたし一人になった。


 彼に会ったのは、この地下シェルターから出てはいけないと父から厳命されていた言いつけを破って外へ出た時だった。

 人と言う生き物が駆逐された地上は、まぶしかった。整備されなくなってほんの十三年、けれど実際に整備すべき人がいなくなったのはもう少し前であろうか。朽ちかけた街はけれど完全に朽ちていないのが不思議なくらいで、今にも半分瓦礫と化した壁の向こうから誰かが、ひょっこり顔を出しそうだなんて暢気なことを思っていた。

 そんなことあるわけないから、彼を見たときは心底驚いた。

 彼も、驚いていた。

「こんにちは」

 でも、笑って挨拶する余裕があったのは、さすがあたしより大人な外見をしているだけある。あたしはぽかんと口を開けて、見つめることしかできなかった。

 だって、父以外の他の人間なんて生まれてこれまで、見たことなんてなかったから。


 あたしの父は、科学者だった。

 人類に遍く蔓延する死病に対抗しうる手段を、考えていた人だった。そういう人は他にもいて、父はチームを組んで日夜、自分もいつ死ぬかもしれないというのに研究に取り組んでいた。

 その病気のせいで、自暴自棄になる人が多かったという。犯罪を犯したり、働くのをやめてしまったり、どうせ死ぬならと享楽的な日々を送ったり。警察機構は機能せず、病気でなくそういうものに巻き込まれて命を落とした人々も少なくなかった。

 父の研究成果があたしだ。

 結局どうあがいても、死病に取りつかれた人を救う手段はないと、早々に見切りをつけた彼は、別の方向から挑んだ。そうして誕生したのが、死病たる病原菌を体の裡で無効化する新たなる種。

 新人類なんて、父は格好付けて言っていた。

 けれどあたしを生むため母は死に至り、チームの仲間もいい顔をしなかったらしく、結局研究に最後まで携わっていたのは変りものと呼ばれていた父だけだった。


 暴力的な、乾いた風が吹きつける。熱がこもったそれはあたしの頬を撫でて、父が最後に整えてくれて以来一度もいじっていない不揃いな髪の間を抜けて去っていく。

 太陽は相変わらず眩しいから上も見上げることができなくて、見惚れるほど綺麗な青い空もよく見ることができない。

 だからあたしの目は自然に、下がるしかなくて、そうすると彼を見るしかなくて、壊れかけの街を背負って微笑むあたし以外の人も、けれど良く見るとそんなに変わらない表情をしているようだ。

 きみはだれ、と問いかける。

「あたしは、q」

「ぼくはz。君は、人間だね」

 奇妙な確認だった。大人の男の人という感じなのに、なんだか子供のようなたどたどしい印象を受ける。父しか人類を知らないあたしが言うのは、それこそ奇妙かもしれないけど。

 zの薄汚れた格好は、明らかにあちこちを歩き回って来た人のそれで、対するあたしは、ざんばらな髪以外は身綺麗に整えてあって、どちらかといえばあたしよりzの方が、この世界に似合っているという感じだった。清潔にできる環境にいたからあたしにはこれが当たり前なのだけど、なぜだか居心地の悪さを感じてしまう。

 もっとも父が外へ出るなと言ったのは、そんな精神的苦痛を得るからではないだろうが。

 zがたどたどしいのも当然だった。この世界に、人間は生きていない。生きられない。それが今の常識で、生きているあたしはその範囲外の生き物と言うことになるのだから。

「あなたは、人間じゃないの?」

 微笑むzの髪が揺れる。肯定する首の動きに合わせて。


 父はあたしにいろんな知識を与えた。そして時々、薬物を投与された。それは人体実験と呼ばれるものだけど、あたしの世界は父しかいなかったから、まるでひどいことをされているとも思っていなかった。

 そのうちに薬物投与もなくなった。実験成果を得られたというより、薬物を入手できなくなったせいなのだろうけど、あたしの体調にそれらは何も変化をもたらすことはなかった。薬物に頼らなくても自力で生きていけるだけの年齢に見合った体力を、得られたせいかもしれないけど、父は何も言わなかったからこれはあたしの推測でしかない。単に、父がしていた薬物投与が、無意味だったなんて思いたくないだけかもしれないけど。

 そんな父も、あたしが十二になった頃に死病に罹った。それは人類にしては遅い発症で、けれどそれがあたしにうつることもなく、父は死んだ。

 あたしは言われていた通りに、生きることを諦めた父の体を処理した。

 そうして地球上に、一人になった。

 なったと、思っていた。


 zは自分のことを、歌う機械だと言った。こういう歌を歌ってほしいと音声入力、つまり彼に伝えれば、内蔵してあるものから選んで、またそこにない場合はネット上からダウンロードして、歌うのだという。歌声も色々カスタマイズできて、また女性型の種類も出ているそうだ。

 そういった娯楽製品とは一切無縁だったあたしには、衝撃的だった。

「そんなものを必要とする人がいたのね」

 とうの本人を前にそんなものとはあまりに配慮に欠けていよう。けれどzは笑って、少しも傷ついた様子など見せなかった。

 もっともその頃のあたしは『傷つく』なんて概念を知らなかったし、配慮なんてものからはあまりにかけ離れた存在だったのだけど、知らなかったのだから仕方ない。

 だってそれが大切なことだなんて父は教えてくれなかった。つまりあたし以外の人間が生き延びるとは思ってもいなかったということで、他人と接するなどという奇跡に恵まれるなんて予測もしていなかったのだ、科学者なのに。

 とはいえzは人間ではないし、父が新人類と呼んだのはあたし一人だけで、そうしたら誰かと出会うなんて事態が発生するはずもないのだけど。

「音楽を聴くための機械って、もっと小さいものだと思ってたけど、人型って、逆の発想なのかしらね」

「さあ……ぼくにはわからないけど」

 あたしたちは到底椅子とは呼べないコンクリートの塊の上に腰掛けて、相変わらず恨みをこめて殴るように吹きつけてくる風の中にいた。ひび割れ段差が付いて歩きにくそうな灰色の道が、視界の端で隆起して途切れている。あの向こうには何があるのだろうなんて思いをはせる前に、同じようなさびれた景色があるのだと冷静に何の面白味もなく、あたしはつまらない想像を切り捨てる。

 それでもようやく明るすぎる世界に慣れた目に映る灰色と青色のコントラストには、色は色でしかないと知っていても、目を離しがたい魅力が潜んでいた。あたしはそれに抗って、zの方に無理やり首を捻じ曲げる。

「自律行動もできるのね」

「それが売りだから」

「ふうん。それで、あなたの持ち主はどうしたの」

 会話らしい会話というにはあまりに不出来なそれの最後に言いだすには、到底無粋で、聞くだけ無意味な質問だったけど、あたしにはこんな物言いしかできないのだから、仕方ない。

「マスターは、ある日突然、ぼくを置いてどこかへ行ってしまった……」

 zは悲しげに目を伏せた。当然死んだのだと思ったが、どうやら文字通り家を出て行ってそのままということらしい。

「まさか、そのマスターを捜しているの、あなた」

「マスターしか、ぼくを必要としてくれる人はいないから」

 燦々と照りつける太陽のせいか、zの伏せた眼もとには濃い影ができていた。そんな彼を見ているだけで、彼自身ももはやマスターが生きているとは思ってなどいないことが、伝わってきた。

「馬鹿じゃないの」

 わかっているのに、どうして追い続けるのだろう。まるで無駄じゃないか。あたしには理解不能だった。そんなあたしに無理やり笑って見せて、zはそれでもマスターしかいないと繰り返す。

「マスターが作った曲を歌うのは、ぼくしかいないから。ぼくが歌うとマスターは喜んでくれるから……だからぼくは、マスターのためにもう一度、歌いたいんだ」

 そんな風に言うzの顔は、笑っているのに泣いているみたいにも見えて、あたしはなんだか腹立たしくなる。だからもう一度、馬鹿じゃないのと罵倒した。

「馬鹿じゃないの。マスターはもう生きてないのに。生きてるのはあたしだけなのに、あたし以外の人類は全員死んだっていうのに、あなたのしていることは無駄なのよ」

 zに腹を立てながら、あたしはなんだか不思議に思っていた。なんだか体が熱くなって、じっとしていられない。こんな風に感じたのは初めてだ。いつも穏やかで、静かで、平坦に過ぎていた『とき』というものが、急に加速したかのようにも感じる。心臓がどきどきする。何かの病気じゃないかって不安になるくらい。

 一方で、それは興奮で体温が上昇しているせいだって、冷静に考えられるあたしもいる。戻ろうと思えばいつだって、いつもの自分に戻れるとわかっている。

 でも、こんな事態に陥ったのは初めてで、あたしはなんだか少し混乱していた。あたしがあたしじゃないみたい。

 これは、何?

 父からは教わっていない。

「ありがとう、q」

 混乱をきたすあたしの手を、zがそっと握った。その手は機械とは思えないくらい人と同じ質感と温度を備えていて、ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸がするりとほぐれるような安心感をもたらした。

「何のお礼? 意味がわからないんだけど」

「ぼくのために君が怒ってくれたから」

 返ってきた答えはやはり意味がわからなかった。zのために怒ってなんかいない。あたしはただ裡からこみあげるなんだかわからないものに突き動かされて、醜く喚き散らしただけだ。

 それに引き換えzの、機械なのに機械とも思えぬこの印象は何だろう。目を見ただけで彼の考えがわかってしまったり、マスターを恋しがったり、よほど優秀なAIを積んでいるのだろうか。しかしそれだけではない気がする。

 確実に、あたしにはないものを搭載している。

「あたしは、人間だよ」

 だいぶ前にzがたどたどしく確認してきたことに、あたしは今になって答える。これ以上、zの口からマスターの話を聞くのが嫌だったのだ。彼にそんなつもりはないのだろうが、なんだか自慢みたいに聞こえる。死んでいるとわかっているのに捜し続けている人の話が自慢に聞こえるなんて、あたしの耳も相当どうかしているけれど。

「人類がどうなったか、知ってるよね。あたしがいるの、変だと思わない?」

 我ながらあまりにストレートすぎる言い方だと思ったが、他の言い方など知らない。困惑するzの視線を感じながら、あたしは続ける。聞かれてもいないのに。

「あたし、新人類なんだって。だから病気にはならないの。まあいつかは死ぬだろうけど。ねえz、あたしみたいな人に会った?」

 申し訳なさそうに首を横に振るz。まあわかっていた答えだ。期待などしていない。

「ぼくも、同じ機械の仲間に会えるかと思ったこともあるけど、でも、誰にも会っていないよ。こんな風に話をしたのは、すごく久しぶりだ」

「あたしも」

「……? 誰か、いたの?」

「父がね。死んじゃったけど、病気で」

 残念ながら、zのマスターではない。まあ彼とてそんな期待を抱いたわけでもないだろうが、割と最近まで生きている人がいたことには驚きを隠せないようだ。

「死んだらね、ダストシュートに捨てなさいって言うから、あたし、その通りにしたの」

 あたしには構造はわからないが、深く掘られた穴のようなところへ動かなくなった父の体を落とした時のことは、まだ昨日のことのように覚えていた。

 zは絶句していたが、あたしとしてはそんな凄惨なことを言ったつもりはない。

「いつまでも置いておいたら腐るからって、なるべく早くやるようにって言ってた。あたしは、父の体が硬くなるのを待ってから引きずって行った。すごく重かったから、その時zがいたらよかったなって、今ちょっと思ったんだ」

「君の、父親は……娘に、自分を捨てろと、言ったの……?」

 それは今言ったばかりだが。けれどzは信じられないことを聞いたというように色を失っている。機械なのに、表情豊かなことだ。

「何も間違っていないでしょ? だって死体は腐敗するから、なるべく早くどうにかした方がいいし。あんなに重いとは思わなかったけど」

「君はそれを、なんとも思わず実行したのか?」

 あたしはzが何を言わんとしているのかわからず、首をかしげた。

「なんともっていうか……うーん。父が死ぬのは病気になった時からわかってたことだし、重かったなあってくらいかな。その頃はもう、もっぱら知識は読み切れない本から得ていたし……。これから一人で生きて行かなくちゃとは思ったけど、でも父が病気になった時からその覚悟だって、わかってたことだし」

 覚悟なんて大仰な言葉を使ってみたりしたが、実際はそこまで深刻に考えてはいなかった。助からない病だということは知っていたから看病らしいことはさほどしていないし、そのころから既に一人で生きているようなものだったのだ。

「悲しいとか、寂しいとか、思わなかった?」

「悲しい? 寂しい?」

「だって君は、一人になっちゃったんだよ」

 その言葉の意味は知っている。けれど、どういうものなのかは理解できないままだ。だがだからといって困ることでもない。今読んでいる本にはそういった不可解な単語は出てこないし、どうにもそういう単語が出てくる書物はシェルターにはないようだったから、これから使う機会もないだろうことは想像に難くない。

 けれどzはそれがゆゆしき事態であるように言う。

「一人だよ。でもあたしは生まれた時から一人だもの。新人類はあたしだけなんだよ」

「……q。ぼくはね、マスターに会えなくて、すごく寂しいし、悲しいよ」

 zはまた、笑いながら泣いてしまいそうな表情をした。

「マスターは、そういうことをぼくに教えてくれたんだ。君の父親は、君にそういうもののことを、教えてくれなかったの?」

 あたしが知らない言葉がどういうものなのかをちゃんと理解しているz。それは機械だけれど確実にあたしより先を歩んでいるということで、知らないあたしの方が劣っているみたいだった。人と名乗れるのはあたしの方なのに。

 けれどそのことが悔しいとか、すごいとか、あたしは何も思わなかった。ただzは知っていて、あたしは知らない。そういうものだと思った。だって知らなくても、困らない。

 困らないならそれは、どうしても必要なものではないということ。

「父があたしに教えたのは、何があっても生きていかなきゃいけないってこと。知識。それだけだよ。父はあたしの経過を見たり色々実験したり、忙しかったから、途中から自分で調べるようになったけど」

 だってあたしは新人類で、そういう遺伝子操作を施したとはいえどこまで耐性があるかもわからない。途中で死なないように経過を見守る科学者としての義務が、父にはあったのだ。

 だからあたしはそれらしく、自分から何かを求めるなんてことはしなかった。それが普通だったから疑問になんて思ったこともない。でもzが言うにはそれは、異常なことらしい。

「q」

「何、z」

「ぼくといっしょに来るかい?」

 いつの間にか、zの背景の色が変わっている。透き通るような青が広がっていたのに、茜色が混じり始めている。まぶしかった太陽も角度を変え、熱かった風も少し温度を下げたみたいだ。

「いっしょに? あなたのマスターを捜すの?」

 いないとわかっている人を捜しに出るなんて、非合理的すぎる。でもzには必要なことだ。あたしには少しも必要じゃないけど、でもzはいっしょにと誘う。

 あたしはシェルターを振り返った。地下に深く埋もれた住処は、ここからでは入口しか見えないけど、強い光を受けているわけでもないのにじっとりとした影の中に沈んでいるように見えた。

 視線を、zに戻す。

「行かない」

 zは、食いさがったりしなかった。頷いて、静かに微笑む。握手を求められたので、応じる。

「ありがとう。元気で」

「そっちもね」

 自分以外のぬくもりが、離れて行った。


 ひんやりとするのは、空調が効いているせいだ。自家発電装置が組み込まれているから、どこからも何かを供給してもらう必要なく独立して生きていける。

 一人に戻った居心地のいいシェルターの中で、あたしはなんだか面白くない心持で足をぶらぶらとさせていた。いつもはこんな風にならないのに、今日は自分以外の誰かと喋ったりしたから、その興奮がまだ残っているのだろうか。

 そんな風に分析してみたりもしたけど、違うと即座に否定できる。

 あたしは、行ってしまったzの背中を思い出した。あてのない旅を続ける機械。空しいだけだし、馬鹿じゃないのと思う一方で、それはzにだけ向けているのでないと理解していた。

 空しくて馬鹿みたいなのは、あたしも同じだ。

 一人残されて、ただ死なないように生き続けて、それで何かがどうにかなるとでもいうのか。あたし一人が生きていたって、子孫は残せない。一世代で終わる新人類にいったい何の意味があるというのだろう。

 行ってしまったzは戻らない。あたしは一人、誰とも喋ることなく、凪いだ日々を送る。いつまで? 死ぬまで。

「馬鹿みたい」

 あたしの声がシェルターの中に反響する。今にも不満が爆発しそうなそれはけれど、大きく吸い込んだ息を吐きだしたときにはもう霧散して、どこにも何も見つけられなくなっていた。

 空しいなんて、思ったことなかったのに。

 あたしは腰掛けた椅子の左側に首を回す。何時間か前にはzがいたところには、見慣れた白い壁があるだけだ。

 そういう風にプログラミングされているせいだろうが、zはよく笑ったなと思い出していた。父は、ほとんど笑ったことなどなかったから、不思議な感じがした。

 事務的に接するだけだった父と比べて、zの温かみあるあの対応。きっと彼のマスターが彼をそのように育てたのだろう。

 そのせいだろうか。

 やけに左側が、寒く感じる。あたしは左腕を抱きしめるようにして、体を丸める。そして唐突に悟る。

 そうか、zは、マスターに愛されていたんだ。対してあたしは、父からはそういった類のものを享受せず一人になった。だからzの存在を温かく感じていて、いない今、彼のことばかり考えたりして、今まで感じもしなかった一人という言葉を、何度も何度も繰り返しては不快に感じているんだ。

 当たり前の言葉だったそれが、あたしからはがれ落ちて独り歩きしている。もうそれはあたしの一部じゃないから、あたしの目からもはっきり見える。

 一人で生きるということ。一人残されるということ。そして一人で行ってしまうということ。

 あたしは椅子を蹴って立ち上がった。駆けだす後ろで椅子が倒れる音がしたけど構わずに、シェルターを飛び出した。

 外の空気はねっとりと湿って少し暑かった。そしてすっかり夜の帳がおりた空には星が瞬いていたが、あたしは見上げることもなく走り出す。zが去って行った方向へと。

 当たり前だけどもうとっくにその影は見えなくなってて、走ったとて追い付けるはずもないとわかっていたけれど、でも、走ることをやめられなかった。

 走りながら、あたしは理解した。父がああいう風にしか接しなかったわけを。

 あたしは誰にも会わずに、一人で生きて行かなくちゃいけなかった。だから、感情というものの存在を教えなかったのだ。一人で生きていくのにそんなものは必要ない。感情とは、他者の存在あって初めて意味をなすものだから、言葉の意味がわかっていたってそれは理解とはいえない。

 でもあたしは、こうして知ってしまった。一人でいることに苦痛を感じてしまった。

 だから走る。まったく合理的とはいえないものに体を突き動かされて、立ち止まることなんかできない。居心地のいいシェルターの中でじっと体を丸めて、生が尽きる日をただ諾々と待っていることなんて、できない。

 こんな風に手足を思い切り動かすことも、初めてだった。だから加減なんてわからなくて、ほどなくして息が切れてきた。心臓が爆発しそうなくらい大音量で鼓動を奏でている。

 それでも、前に進むことを止められない。筋肉が悲鳴を上げて、限界を訴える足を無理やり前に出そうと躍起になる頃にはもはや、走るではなく歩くにも届かないほどのスピードに至っていたが、それでも立ち止まることなんてできなかった。

 その時、自分の呼吸でうるさくて仕方ないあたしの耳に、聞こえてくるものがあった。

 それは、歌だった。優しい音律の奏で。

 思わず、足が止まる。否、それは竦んだのと同じだった。聞き惚れていたなんて、生易しものじゃない。あたしは愕然としていた。

 歌っているのはzで間違いなくて、聞いたことのないそれが彼のマスターによる作品だと、言葉にせずとも伝わっても。

 それは彼がマスターにささげるために歌っている歌だから。昼に会った、人の生き残りのことなんかとうに記憶の彼方に去っていて、彼の中にはもはやない。zが求めるのは、マスター一人。

 あたしの居場所は、そこにはない。

 それでもあたしの足はふらふらと、勝手に歌が聞こえる方向へ歩き出す。そして瓦礫の向こうに、彼を見つけた。夜空に向かって歌いあげる機械。同じ空の下にいるならどうか、ぼくの声を聞いてと、切なる願いをこめて、歌う。ただ一人、他の誰でもないマスターのために。

 そんなzを見ていて、あたしは嫌だと思った。それがzの考えで、目的で、導だとしても、いない人に向けて思いを傾ける彼を、嫌だと思った。

 だってここに、あたしがいるのに。

 そんな風に思った自分を、嫌だとも思った。なんて醜いあたし。何を勝手なこと言ってるんだろう。でも嫌なんだ。嫌なんだ。

「……かないで」

「q?」

「置いていかないで」

 あたしに気づくz。あたしの頬には、さっきから溢れた涙が伝って、止まらない。

 自分でその手を拒否したくせに、今になって、馬鹿みたいだ。

 でもzは、優しく微笑んで、もう一度手を差し伸べてくれた。そしてわけがわからなくなって泣き続けるあたしをそっと抱き寄せる。

 機械の腕の中であたしは、泣いた。生まれて初めて、まるで生まれたばかりの赤子のように、声を上げて泣いた。


end

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