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摩耗

 霧に包まれた断崖の際。

 そこに僕はいた。いつからここにいるのか、どうしてここにいるのかは分からない。

 でも、それはどうでもいいことだと思うんだ。僕にとって大事なことは、たった一つなのだから。それだけ確かなら、何も不安がる事は無い。


 近く遠く、辺り一面白に濁った景色の中で、その鈍い金色の周囲は色を保ち、僕はその側で過ごしている。地面に直接突き刺さった大きなゼンマイ。これをひたすら回し続けるのが、僕にとっての日常だ。単調だけれど、他にする事がないこの場所では、唯一の娯楽とも言える。

 少し土で汚れたゼンマイを両手で握り、右回りへ力をかける。さほど抵抗もなく、鉛の蝶はその場でぐるりと羽を踊らせた。このゼンマイは不思議なことに、回す時の気分によって重さが変化する。やる気に満ちた時は、少し撫でるだけで何回転もし、逆にやる気がなく億劫であれば、彫刻のように微動だにしない。今日は調子が良いようだ。

 そのまま、僕はゆっくりとゼンマイを回す。きりきり、きりきり。ネジを締め上げる小気味良い音を演奏し、ある程度回数を重ねたら手を離す。

 すると、少し離れた崖の方から、ガコガコと何かがせり出すような音が響いてくる。橋が伸長している音だ。崖の側面には、幅六十センチ程の金属で出来た橋がある。この橋は向こう岸に向かって伸びており、それはゼンマイを回せば回すほど距離を詰めていく。最初は片足を乗せる幅もなかったが、今では向こう岸を覆う霧に突き刺さっている。日々の成果だ。橋の先端が白に飲まれてからは、どれくらい伸びたのかもう確認することは出来ない。それでも、このガコガコとした音が、橋が伸長し続けていることを証明していた。その事実だけで少しは報われる。


 僕は、向こう岸に行きたかった。どうしても行きたかった。

 何故そうしたいのかは分からない。

 だけれども、きっとあそこに行けば、僕は満たされると思うんだ。不意に湧きあがる焦燥と燻り。それが解消出来るはずなんだ。だから、向こう岸に辿り着くことを願って、僕は橋を伸ばし続けている。

 きりきり。ガコガコ。きりきり。ガコガコ。

 橋が伸びていく。霧のように不確かな場所に向かって。僕が伸ばしていく。ゼンマイを回して。

 きりきり。ガコガコ。きりきり。ガコガコ。

 何度も反復運動をこなしていたせいか、肩が重くなってくる。それに比例して、ゼンマイの重量が増し、どんどん回転が鈍くなっていく。僕はそれ以上執着せず鉛の羽から手を離し、橋が伸びる駆動音を聞きながら、地面の上にそのまま寝転んだ。

 今日はもう、止めることにした。

 無理に頑張っても仕方ない。あれが動かないという事は、もう自分が面倒になったという事なのだから。下手に欲を出せば、体を壊すだけ。

 だから、今日はもういい。

 どうせ、時間はいくらでもあるんだ。何も焦る事はない。

 そういえば、いつか時間に酷く怯えていた時期があったように思う。どうしてかは分からない。しかし、何かやらなければいけない事があった気がした。けれど、僕の記憶は周りの景色と同様に白く塗り潰されていて、自分の名前すら思い出せない。それが異常な事だとは理解しているが、今いる場所が既におかしいからか、あまり気にはならない。僕は考えることを止め、ぼうっとすることにした。


 誰もいない、霧に囲まれた崖の上で、僕は膝を抱えながらじっと前方を見つめている。

 この場所が好きなわけでも、何かを待っているわけでもない。ここから抜け出せないから、仕方なく暇を潰しているだけなんだ。何度か崖の反対側、霧が立ち込めた場所を探索しようとした事がある。しかし、霧の中を進むと、その先は入って来た場所に繋がっており、また元の位置に戻されてしまうんだ。それが分かってから、僕はこうしてまだ見ぬ向こう岸に思いを馳せながら、霧を眺めて過ごすようになった。

 向こう岸を覆う霧は、こちらと違い濃度が薄く、まるで煙かもやのように少し先が透けて見える。それでも、透けた先もまた白であり、グラデーションを重ねるようにその先の景色を閉ざしていた。

 ふわふわとゆらゆらと、次々変化する模様を見ていると、心が落ち着く。

 それに飽きたら、少し身を乗り出して、崖下を覗きこむ。

 どこまでも広がる、黒の海。

 それは「底が見えない」というより、「底がない」と確信させるほど他の色彩が感じ取れない。しかし、恐ろしさは感じない。むしろ、青空を眺めているかのように穏やかだ。

 この奈落を眺めていると、いつも心にある衝動が浮かび上がる。

 落ちたい。

 「落ちたい」、と。そう、思うんだ。

 あんなおもちゃをいじくり続ける事など止めて、あの黒に飲み込まれたい。

 きっと、とても心地が良い。あらゆる事から解放された、晴れ晴れとした気持ちになるはずだ。何故そうなると思ったのか自分でも理解出来ないが、そうに違いないと心が叫んでいる。

 あそこに落ちたら、もう何も出来なくなる。何も考えられなくなる。

 それはとても魅力的だ。今の生活に不満があるわけではないが、幸福に満たされているとは言い難い。やはり退屈なんだ。ここではないどこかを目指しているせいか、この場所での生活に愛着も執着もなく、簡単に手放せてしまえると思っているんだ。

 だから、あの奈落に飲まれるのもいいか、と思う。

 今日もまた逡巡する。

 ここに残るか、あそこへ落ちるか。

 このままもう少し体を前に傾ければ、それで終わりだ。助かる余地などなく、あがく必要もない。きっとあの曇りない闇に抱かれて、僕はまどろみを享受するのだろう。

 しかし、それでも僕を引き止めているのは、やはり向こう岸への憧憬だ。霧で覆われ、何があるかも分からないのに、何故か強く惹き付けられるあの場所。それは、白紙の記憶と関係があるのだろうか。分からない。だが不確かだからこそ、その感情をどう扱っていいか戸惑ってしまう。

 残るか、落ちるか。

 残るか、落ちるか。


 しばらく向こう岸と崖下を交互に眺め逡巡していたが、結局、橋を伸ばすことを再開した。

 僕はあの霧の向こうが気になって気になって仕方がなかった。落ちるのはいつでも出来る事だからと自分に言い聞かせ、ゼンマイを握りぐるぐる回す。休憩した事と、先程考えていた選択に一旦の回答を出せた事により、鉛の蝶は軽快にくるくるとその羽を踊らせていた。

 きりきり。ガコガコ。きりきり。ガコガコ。

 きりきり。ガコガコ。きりきり。ガコガコ。


 今日は大分捗ったはずだ。はず、というのは橋がどれだけ伸びたのか、霧に阻まれ確認する事が出来ないからだ。

 どこまで橋を伸ばしたら、あそこに届くのだろう。

 ゼンマイを回した分だけ、金属の橋が伸びていく。それは確かだ。しかし、向こう岸に橋が架かった事をどうやって確認すればいいのだろう。ゼンマイが回らなくなった時だろうか。橋からあのガコガコという音が止んだ時だろうか。分からない。分からないなら、とりあえずゼンマイを回し続けるしかない。


 本当に?

 本当に、確かめる方法はないのだろうか。ふと浮かんだその疑問に、僕は思考を巡らせた。

 考えて、考えて、今までで一番長く考えて、それに思い至る。橋を向こう岸に架けることだけを考えていたせいか、気付かなかった。とても簡単で、確実な方法。

 橋を渡ってみればいいんだ。そうすれば、例え向こう岸へ届いていなくても、後どれくらい頑張ればいいか指針が立つ。

 なんだかとても素晴らしいことを思い付いたようで、僕は嬉しくなった。早速実行しようと橋の方へ足を向けた時、新たな疑問が生じた。

 どうして、こんな単純な方法が今まで思い浮かばなかったのだろう。

 僕は一旦足を止め、それを考え始めた。

 答えはすぐに出た。

 僕はまだ、一歩も踏み出していなかった。たったの一歩すら。

 だって、怖いじゃないか。

 この橋がちゃんと向こう岸まで届いているのか、ここからでは分からないのだから。

 それを確認するための作業だとして、もし橋が未完成だったら、またここまで引き返さなくてはならない。橋を伸ばす作業にはかなりの時間をかけた。一心不乱にゼンマイを回し続けた。だから、かなりの距離を稼いでいる事だろう。

 しかし、それでも足りていなかったら。あの橋の果てから見える景色に、霧以外の何物も映らなかったとしたら。

 心が折れてしまうかもしれない。今まで努力してきた事が全て否定され、打ちひしがれる事になるかもしれない。

 そんなのはごめんだ。辛すぎる。


 そもそも、この橋は本当に今も伸び続けているのか。

 実際はとっくに限界で、ゼンマイを回す行為自体が徒労なのではないか。

 いや、それよりも。

 どうして僕はあそこへ行きたいのだろう。

 ゼンマイを回し、橋を伸ばして、いつか向こう岸に辿り着く。

 ただそれだけを目標に動き続けていたせいか、そんな根本的な事を「大した問題ではない」と思考を停止させていた。

 過程と目標が、すり替わっている。

 過去の自分が、磨り切れている。

 感情は摩耗する。生モノなんだ。

 心の奥へ大事にしまい込んでいても、ボロボロに削れて、それが何であったかを忘れてしまう。心の風化。ただの石ころになったそれに僕は見向きもせず、新しい何かで失くしたと思っているモノを押し潰したんだ。だから、事実に気付いて動揺している。


 いや、いや。その表現は、本当に正しいのだろうか。

 思いが「摩耗」する。確かにそれは心理現象として存在している。

 しかし、自分の場合にも当てはまるのかと改めて考えてみると、なんだか少し違うように思う。

 思考が煮詰まり、僕は逃げ道を求めて周囲を見回した。茶色い地面。黒い奈落。白い霧。そして金色のゼンマイと続き、そこで目が止まる。

 そうだ。

 もしかしたら、心にもゼンマイがあるのかもしれない。

 それは感情の励起によって回転し、行動するための原動力となるんだ。

 そして、回転が止まれば――つまり「醒めて」しまえば、動けなくなる。

 自分は今、そういう状態なのかもしれない。

 もう一度ゼンマイを回すには、どうすればいいのだろう。

 あのどこへ続いているとも知れず、そもそもどこへも繋がっていないかも知れない橋を渡るための勇気を得るには、どうすればいいのだろう。向こう岸に行く事が正しいとは限らない。あちらを覆う薄い霧のヴェールが、こちらの霧と同様に先へ進ませてくれないかもしれない。

 しかし、それでもこの感情の燻りを抑えられない。今まで考えないようにしていた事を自覚した事で、衝動が嵐のように吹き荒んでいるんだ。

 だけど、それでも一歩が踏み出せない。

 怖いんだ。いざ橋を渡るとなると、急に恐怖が湧き上がってくる。向こう岸にある何かに対し、僕の心は恐れのようなものを抱き始めた。ずっと目指していた場所なのに、これはどうしたことなのか。


 俯きながら悶々と考え込んでいると、ふと、視界に白い物が映り込んだ。

 霧だ。今僕がいる橋の付近、つまり崖際に霧は入って来ない。この場所において、霧は崖を取り囲む檻のように一定の場所に滞留している。そこから一筋でも流れ出てくることなんて今までなかった。後ろを振り向くと、白い壁が蠢きながらじわじわとこちらへにじり寄って来ていた。

 僕は一瞬、身動きが取れなくなった。こんな事、今までなかったから。どうしてだろう。まさか、僕が橋を渡ろうとしたからなのか。

 そう考えている内にも、霧は音もなく徐々にその包囲を狭めていく。僕は慌てて橋の上に降り立った。すると、足元からひやりと金属特有の冷たさが直に伝わってくる。その感覚に驚き、僕は思わず足を見た。靴は履いておらず、しかし裸足でもない。靴下のみを履いていた。歩くという行為をあまりこなさず負担がなかったせいか、今まで足元を見ることなどなかった。

 僕は、何とはなしに自分の格好を確かめる。くたびれたTシャツ。股下の汚れたジャージ。顔を触ってみると硬い物がある、眼鏡だ。

 自分が身に付けている物について考えもしなかった、その事実に背筋がぞっとする。

 僕は、急に体中をばたばたと叩き始めた。自分が自分でないような、そんな訳の分からない恐怖を払拭したかったからだ。しかし、そんなことをしても何も変わらず、かえって混乱が極まってしまった。そして背中を叩こうとした時、そのまま体がぐるりと後ろに回り、視界を白が埋め尽くした。僕が錯乱している間に、霧はもう間近に迫っていた。

 僕はひっ、と短い悲鳴を上げ、橋の上を駆け出した。手すりもなく、ただの足場でしかないその橋から、気の動転していた僕が落下しなかった事は、果たして運が良かったのか。


 薄い霧の中を、濃い霧に追い立てられながら進んで行く。

 背後の霧の動きが「飲み込む」から「付いてくる」へ変化した事に気付いたのは、走り続けたせいで息を切らし、思わず立ち止まってしまった時だった。こちらが一歩進むと霧も前進する。しかしこちらが一歩下がっても、霧はその場を動かない。まるで意思を持つかのようなその動きに薄気味悪さを感じつつ、あの霧の狙いは僕をここへ誘導し逃がさないためだったのではないかと思った。濃霧が前と同じ性質を持っているならば、今あの断崖に帰ろうとしても、この橋へ再び戻されてしまうだろう。

 退路は断たれた。後はもう、進むしかない。


 金属製の橋は既に結構な距離を進んだにも拘らず、一度も軋むことなく僕を支えている。

 頭がぼうっとする。酸欠や先程の混乱が後を引いているということもあるが、それだけじゃない。

 橋を渡る道中、時折、頭の中を通り過ぎるイメージがあった。

 それはとても薄らぼんやりとしたものだったが、心に強い郷愁を抱かせた。

 もしかして、これは僕の記憶か。

 あれは母親だろうか。あれは父親だろうか。ああ、そうだ。お母さんには内緒だ、と言ってお父さんはパチンコで勝つと、少し高いアイスクリームを買って来てくれたんだ。でも、それをお母さんと半分に分け合っていたのは、お父さんにも内緒だったな。


 記憶を覆った霧が、少しずつ晴れていく。


 あれはお爺ちゃんとお婆ちゃんだ。ああ、そうだ。十歳の誕生日にとても大きな絵本をくれたんだ。たくさんの作品が収録されていて、暇があれば読み耽っていたな。


 白の濃度が下がり始め、元の色が浮き出てくる。


 あれは僕だ。この時は、確か。

 そうだ。初めて、物語を書こうと思ったんだ。

 色々な本を読んでいる内に、自分も書いてみたくなって、でもあの時はまだパソコンなんて持っていなくて、古くて小さな文房具屋で、たくさん原稿用紙を買ったんだ。そうしたら、少しだけおまけしてくれて。


 滲んだ絵具が、段々と輪郭を整えていく。


 一生懸命に試行錯誤しながら二百枚も書き終えて。そのまま賞に応募して、でも結局一次も抜けなくてガッカリしたけど、あの時の達成感は気持ち良かったなぁ。


 そして、何もかも元通り。


 ああ、ああ。

 どうして忘れていたんだろう。

 やりたかった事なのに。他人に強要されたわけでなく、初めて自分から始めようと思った事なのに。

 いつから、書く事が苦痛になってしまったんだろう。


 橋はそこで途絶えていた。

 プールのジャンプ台のように、直線的な境が足場と奈落を分けている。

 背後の濃霧は変わらず後ろに付いていたが、周囲の薄い霧は僕の傍から離れ、文字通り霧散した。霧の晴れた世界には、何もなかった。上も下も右も左もどこまでも、ただただ黒かった。

 驚きは無かった。分かっていたから。

 僕に目的地なんて、始めから無かったんだ。


 ただ、物語を書きたかっただけだった。

 小説家とかシナリオライターとか、そんなものになりたいわけじゃなかった。

 でも、「好きな事を職業に出来れば幸せだ」なんて考えてしまって、いつしか目的が摩り替っていた。

 楽しいから、物語を紡いでいたのに。

 何も気負わず空想に埋没する日々は、あれだけ心地よかったのに。

 どうして、「そうしなければいけない」と思考を雁字搦めにしてしまったのだろう。

 その荒縄が、最初の大事な思いをがりがりがりがりと削り壊してしまったというのに。

 どうして、そんな息苦しい型から抜け出さなかったのだろう。まやかしの夢を、求め続けたのだろう。

 最後の、最後まで。



 僕は、首を吊ったんだ。

 理由は単純で、働きたくなかったから。

 何度も何度も賞に応募して、その度に打ちのめされて、それでも諦めきれずにまた挑戦して。高校卒業後も執筆に専念したいがために両親を説得し、二年という期限付きでアルバイトをしながらの執筆活動を許可してもった。僕はバイト中でも物語の事ばかり考えていた。バイト仲間とはコミュニケーションを一切取らず、その事で店長から注意された事も何度かあった。でも、そんな事はどうでもよかった。僕は物語を書くことだけ考えていればいい。余計な事に時間を使っていたら、また落選してしまう。余計な描写は作品のテンポを落としてしまうのだから必要ない。当時、本気でそう考えていた僕は、「賞を取る事」ということに、もはや抜け出せない程執着していたのだろう。

 二年という月日はあっという間に過ぎ去った。

 部屋を訪れた両親にその事を告げられ、僕は彼らが何を言いたいのか分からなかった。同じ家に住んでいるのに、いつからか会話どころか挨拶すらも交わさなくなった僕と何を話したいのか、本当に分からなかったんだ。


 お母さんは言った。

 そろそろ将来の事も考えないと。私達だって、ずっとあなたを養っていけるわけじゃないんだよ。どう無理したって、お母さん達の方が早く死ぬんだから。その時になって困るのは××なんだよ?


 お父さんは言った。

 なあ、××。黙ってちゃ分からないぞ。どちらにしろ、バイトだけじゃ食っていけないんだから。夢を追うのはいいが、それは趣味じゃ駄目なのか?働きながらでも、話は書けるだろう。実際、この二年、それでやってこれたじゃないか。


 違うんだ。そうじゃないんだよ、お父さん、お母さん。

 僕は物書きになりたいんだ。ならなくちゃいけないんだ。だって、そうしないと、今までやって来た事が全部無駄になるじゃないか。僕の費やして来た時間が皆々無意味ということになるじゃないか。

 そんなのは嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ!


 でも、僕は何も話さなかった。打ち明けなかった。

 だって、そんなわがままを口にしたら、二人が悲しんでしまうと分かっていたから。会話を交わさなくても、小さな頃からずっと自分を愛してくれた親だったから。僕は口を閉ざし、二人が部屋を出るまでじっと待った。両親が去った後、枕に顔を押し付け呻きを漏らした。


 それから、僕は物語を書けなくなった。

 書きたいものがなくなったわけじゃない。でも、駄目なんだ。書きたいという気持ちと、そんなものを書いている暇があったら働けという気持ちが、心の中でお互いを牽制し合い、何もさせてくれないんだ。働きもせず、かといって執筆するわけでもない。真綿で首を絞めるように、じわじわと自らを追い詰めていた。

 そしてある日、限界が来て、そのまま僕は――。



 早く、夢から醒めればよかったんだ。

 そうすれば、糞尿垂らしてぶら下がる子供を両親が見ることもなかったし、僕も別の生き方を見つけたり、あるいは強迫観念がない分良い作品が書けたかもしれない。

 それらは、都合のいい妄想でしかないけど。

 でも、そう思うと、悔しくて悔しくて仕方がなかった。

 僕が、変な意地を張らなければ。

 涙が溢れた。

 久しぶりに泣いたせいか、始めは喉がひく付いて上手く嗚咽が出せなかったけれど、必死に泣こうとした。胸の内に渦巻く汚泥を全部吐き出したかった。普段からあまり発声しなかったせいか、唸るような音しか漏れ出さない。それがまた情けなくて、悲しくて、全身を震わせながら泣き続けた。


 世界にあるのは、一面に広がる黒と、足元の鉛と、背後の白と、僕だけだった。

 ここはきっと、地獄と呼ばれる場所なのだろう。いや、もしかしたら、ここは罪を自覚するための場所で、この橋を落ちた先から裁きが始まるのかもしれない。

 地獄。

 罪人を責め続けるためだけに存在する世界。

 罪は償うべきだと思う。

 だが、しかし。


 やはり、怖い。記憶が戻った今、僕にはやりたいことがたくさんある。この経験を物語にしたい。この教訓を誰かに伝えたい。お父さんとお母さんに謝りたい。あの頃に戻りたい。あそこの描写をもっと丁寧にしたい。もっともっと色んな作品を書きたいんだ!

 奥底へ押し込められていた様々な欲が溢れ出す。とても往生際の悪い、醜い姿だと自分でも思うけれど、それでも僕の内に渦巻く大きな未練が、ゼンマイをきりきりきりきり巻いていき、その衝動を外側へと弾けさせたがっているんだ。

 そんな僕に、背後からゆっくりと霧が近付いていく。霧はそのまま僕を飲み込み、唾を吐くように闇の中へ放り出した。落下音はいつまで経っても聞こえて来ず、何もない世界から、最後に残った橋と霧が交わるように溶けながら消えていった。

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