極光の音世界
ところどころに雑木林のある緩やかな草原は終わり、仁とノアは山岳地帯へと踏み込んでいた。
「随分と歩きづらくなったな」
「セクトニル晶山に近づいてきたからね。あそこの魔力の影響はこれから徐々に強くなってくるはず」
仁とノアが共に旅を始めて数日が経過していた。仁はこの世界についての若干の知識を獲得していた。
所々は聞きなれない単語のためうまく理解できなかったが、概要してみると以下のとおりである。
この世界と仁のいた現世の間で最も異なっているのは『魔力』の存在だろう。その概念定義は曖昧であるが、この言葉はそれこそこの世界のどこでも通じるくらいに広く認知されているものらしい。
しかし、だからといって創作の世界のようにわんさかと魔法使いがいるというような夢に充満た世界でもないようなのだ。
人は唯一、魔に通じていない。
仁が出会った雷を纏う黒狐のような、もとは動物であったもの、はたまた仁の所持するコンタクトレンズというただの物質でさえも魔力を帯びるのに対し、人は唯一直接的にそれに関与することができない。こと『魔力』という観点からすると、物体にも劣る最下位の種族である。過去には魔導の血を引く人間も存在したようだが、現在では生存説が噂される程度の稀有な存在となっているのだ。
そして人間が現在魔力を行使するには間接的な手法しか採られていない。魔装を利用するのだ。
魔装とは仁のコンタクトレンズのような不思議な力を帯びた装身具。人はそれを用いることで、魔物の脅威にも毅然と対抗することができるのである。
ノアはどういった理由でかは不明だが、その幻ともされる魔導の地を引く人間――魔導師を探しているようだったが、仁はそれについて詳しく詮索することはしなかった。仁は学生生活の中でも他人の悩みなどに干渉することは一切しなかった。彼は冷酷なのではない。彼は自分自身が他人の悩みに対して何の解決ももたらしてやれない無力さを知っていた。考えもなしに、最後まで面倒を見る気のない親切は単なるお節介にすぎないであろうし、それは単なる自己満足でしかない。そこには他人を蔑む目もなければ、哀れみの目もなかった。
小高い山を蛇行するような山道の上りは中腹から一気に草木の姿が消え、砂利から始まり、小石、山頂に着く頃には岩石と呼ぶに相応しいゴツゴツとした険しい岩山と化した。さほど高くないのにも関わらず二人の息は上がっていたが、その頂では共に息を呑んだ。
「おい……あれ、山なのか?」
「魔境、セクトニル晶山……あたしも初めて見るけど、凄いわね」
二人の目に飛び込んできたのは、極光に輝く巨大な宝石のような山であった。仁たちの居場所からは随分と距離が離れているが、それでも十分に巨大。単一の頂きではなく3、4の頂きが存在するように思われ巨大な水晶のクラスター群晶のようである。
魔力の噴き出す地――魔境においてもこのセクトニル晶山はその美しさが抜きん出る地であることに間違いはないだろう。
「少し休憩したら行きましょう」
ノアは適当に座りやすそうな岩で腰を休めた。
「あの山に登るのか? というか、登れるのか?」
仁は恐る恐る尋ねたが、ノアはふるふると首を振った。
「馬鹿。登るわけないでしょ。魔物の巣窟よ? 死にたいなら止めないけどね。その魔眼(仮)は置いていきなさいよ」
魔境は魔力で溢れているが故に魔物の数が圧倒的に多い。この地に数少ない王国は主にその『元』魔境に位置するのであるが、それだけで偉業なのだ。魔境の最深部には災害級の魔物が生息しているとの噂すら存在するくらいである。
「それはよかった。そもそもノアはこれ付けられないと思うがね」
そう言って仁は手元の瓶を揺らめかす。仁の目に装着するとすかさず効力を発揮することから、魔力に寄せられる魔物と遭遇しかねないため携行しているのだ。読み書きこそ難儀ではあるが、極端に視力を求められる状況でもないため特に不自由に感じることはなかった。水の入った瓶の中で踊る二枚のレンズ。
「なんでよ? あたしだって魔装は使い慣れてたんだから、問題ないわ。貸しなさい」
ノアは小さな体躯を精一杯伸ばしながら催促する。本来、コンタクトレンズを他人と共用するなどもっての外であるが、この世界におけるコンタクトレンズ自身の変化もあり、仁はしぶしぶ瓶を手渡した。ノアはコンタクトレンズを単なる魔装具だと思っているようだが、本来は視力補正用の道具である。視力を補正する必要もないノアが付けたところで何の役にも立たない。
「傷つけないようにな」
「わかってるって。ん……んぅ」
ノアの手は完全に震え切っていて瞼から数センチのところから全く近づいていない。彼女にとって眼球にこんなガラスを張り付けることは恐怖以外の何物でもなかった。
「おい、俺がやってやろうか?」
そう言ってノアの手からコンタクトレンズを摘み、左手でノアの頭を抱き寄せると仁の顔がノアの目前まで近づいた。
「ち、近い近い近いッ!」
「いやだって俺コンタクトしてないし、近づかないと見えないだろ」
「でも……」
息がかかる距離に二人の顔が接近し、ノアの顔は真っ赤に燃え上がっていた。顔の筋肉が強張り、ぎゅっと――。
「おい」
「な……何?」
「目開けてないと、コンタクト入れられないだろ」
ノアはこれは拷問であると位置づけた。こんな恥ずかしいことが今までにあったであろうか。恐怖と共にせり上がってくる何か、それを直視することを命じられている。そうしている間にも仁の顔と手が近づいてくる。
「やっぱりムリ! ムリったらムリ!」
衝動に逆らえず蹴り飛ばした仁は岩に勢い余って激突した。
行き先は燦然と煌く魔の山ではなく、その西方遥かに小さく見える都市であった。小さく見えるが近づけば相当な大きさとなるであろう。あれはこの世界に認められた国であることは語らずともわかった。
仁はこの世界の不思議さを改めて思い知らされていた。
下山する途中で一泊し、現在は王国に向け平地を突き進んでいるところである。距離としてはセクトニル晶山の距離は遠いが、この平地もその影響から免れることはできていなかった。
昨日までの岩山とは一変して草花の咲く平地に戻ったが、その植物にも明らかな変質が見られる。
銀色の平原。葉や茎に至るまで鈍色で金属を思わせる硬質を得ている。中には花も咲き乱れているのだが、野花と呼んでいいものか。チューリップのような花弁を持つ透明無垢な花は上等なワイングラスを想起させる。中では鈴のようなものが風に揺られ花ごとに異なる音色を響かせていた。独特なメロディーが織り成す自然の協奏曲。風を奏者に花が鳴る音の原。
「風鈴花の奏でる曲は風の調子で変わるの。あたしも生で聴いたことはなかったけど、今日は穏やかな風で助かったわね。風の強い日なんかは音が凄くて歩けないんだとか」
しばらく音に酔いながらセクトニル晶山を横手に眺めながら歩いていたが、ふとノアの足が止まった。
「しっ! 止まって。誰か来る」
仁の視力では到底見ることもできなかったが、ノアの目には確かに彼方に揺らぐ影を認めたのだった。二人は開けた道を避けて風鈴花の咲き乱れる野へと飛び込んだ。バリバリと硝子の破砕音が騒ぎ立てる。
「間に合わなかったかもしれないけれど、とりあえず隠れましょ」
二人は並んで腹ばいになって葉の影からゆっくりと様子を窺う。
仁はヒソヒソと小声で問う。
「おい、なんで隠れなきゃならないんだ? 俺たち犯罪者か」
「余計な問題を起こさないためによ」
「なんだよ問題って……まさか追われてる身とか言うなよな」
近づいてくる足音は一つではなかった。金属の打ち鳴る音と地を踏む多重奏。身を包む鎧を見れば世情に疎い仁にもすぐにわかった。
騎士である。小隊ほどの人数はいる。仁たちに気付いていないのか目線はキッチリと前方に添えられていた。
しかし、仁たちのいる場所から直線距離にて一番近い道で騎士達の足が止まった。視認もされていなければ、さっきから物音ひとつ立てていない。ましてや鈴の音が充満する野である。
ならば魔力の流れでも察知されたのか……? 有り得ない。仁の瞳は生来の通り漆黒に塗られている。瓶の中に漂うコンタクトレンズも透明なままだ。
「そこに誰かいるな。隠れていないで出てこい」
小隊の最前を歩いていた男の渋みのある声。いかにも厳格そうな声はこの小隊長だろうか。仁とノアはどうしようもない、といった諦観の念で互いに目配せし、立ち上がった。
結局仁とノアは見つかった魔装騎士団に連行されていた。いや、言い方としては『護衛』されていたといった方が正しいかもしれない。
「旅の者でしたか。私は王立魔堂会所属、ルッセリア魔装騎士団第二小隊隊長のローバーと申します。道中魔物と遭遇される危険もございますので、ルッセリア王国に向かうのであればご同行致しましょう」
仁とノアが気付かれた原因はやはり音、であった。しかしそれは何も彼らが立てる微かな音源を騎士たちが拾ったわけではない。事実はその逆であった。風鈴花の野は風が吹くたびに呼応するように音楽を奏でる。その野に関することには通じている直近の王国の騎士たちはその流れるメロディの中に抜けている箇所を見出したのであった。それにより仁たちの姿を見ること無くいとも容易くその位置を看破したのであった。
「魔装騎士団って危ない連中じゃなかったのかよ」
仁とノアの周囲をぐるりと囲む形で来た道を引き返す騎士たち。足を運ぶ先は当初仁たちが予定していた王国であった。こんな形で安全な旅が出来るならば最初の集落でさっさと騎士団に縋っていればよかったと仁は毒づく。
それを受けてノアは魔装騎士団には各国によって違いがあり、イルドの騎士団は特に警戒すべきだったのだと弁明する。確かに追い剥ぎじみた所業がまかり通るくらいであるから治安を維持するはずの騎士団に疑いの目が向けられるのは仕方がないのかもしれなかった。
「この騎士団はイルド所属ではなかったというだけのこと。それにどんな卑劣な連中も最初は優しいものよ」
確かに一度それで痛い目に遭っている仁ではあったが、それで見知らぬ人間すべてに対し一緒くたな評価を下すことには賛同できかねるものであった。
「確かにそうしていれば誰にも騙されないだろうけど、それでも誰かを信じないことにはな。俺はそうしなかったらノアとこうして旅をすることもできなかったわけだし、騙されなかったら宿にすら泊まれなかった」
「それはただ運が良かっただけ。下手をしたらその場で身売りでもなんでもされていたかもしれないのに」
小声だが、その語気は強い。
「もし仮にそんな生き方しなきゃ生き延びれないような世界なら……辛いだろ?」
彼女の口は引き締められた。騎士団と共に歩いてからというもの彼女の雰囲気は刺々しくなるばかりだ。
「世界は――そんなに甘くない」
確かに自分たちには扱えない力が蔓延し、それを扱う魔物によって生活を脅かされる世界は仁のいた世界とは越えられない隔たりがあるのかもしれない。仁はそんな思考を巡らせながら黙った。
それから二人は黙々と歩いた。
日は西に沈みかけ、層の厚い雲が黄金色に染められている。気付けば風はすっかり止んでいた。風鈴花の花弁は西陽を受けて茜色を孕み、音を喰い始める。今や騎士の甲冑の成す金属音も仁たちの耳には届かなかった。
静謐に守られた世界に宵闇が迫る。
鋼色の外壁を持つ王国、その大きさは背後斜めに遠目に拝めるセクトニル晶山よりもはるかに大きく映っていた。
ルッセリアはもう近くだ。