フードマント
宿屋一階。
「困ったな……」
「おいおい、困ってんのはこっちなんだよ」
仁は部屋にあった毛布に巻かれながら宿主に対峙していた。昨日幸運にも馬車に拾われ、宿にまで泊めてもらったはずなのだが、起きればパンツ一枚、宿代も払われていなかったのだ。馬車の三人はどうやら真っ当な稼ぎを頼りに生きている者達ではないらしい。
「電話とかってありますかね?」
「なんだそれ」
不審げな眼で訝しむ宿主を前に仁の小さな溜息が漏れる。本来ならば喚くなり、彼らにとっては意味不明な『日本』だったり『警察』といった単語を羅列し、縋り嘆願するのが普通だったのかもしれない。しかし、彼はどこまでも平然を装い続けた。しかし、彼にはそうすることが『できた』わけではない。彼にはそうすることしか『できなかった』だけなのだが。
思案に耽る面持ちを崩すことなく、内面はポッカリと空白に埋められた仁であったが、変化は外からやってきた。
「――失礼」
仁の背後から中性的な声が飛び、仁が横にずれると共にカウンターの前に歩み寄った。フード付きのマントが全身を包んでいることから、声以外の特徴はわからない。強いて挙げるならば仁よりも一回り二回りほど小柄であるということくらいか。ルームキーと金銭をカウンターに出したことから、別の部屋に泊まっていた宿泊客のようだ。
仁と宿主とのやり取りを完全に無視するかのように、自分の支払いだけを淡々と行おうとしていたのだが、そのフード男だか女だかわからない者は仁の顔をちらりと覗き見、反応を見せた。
「その眼……」
「ん? 俺の目? 目脂でもついてるか?」
「お客さん、こいつの知り合いかい? それなら料金を払ってくれんかねぇ? なんでも身ぐるみ引剥されて無一文なんだとか」
宿主にとってこのフードを被った人間が仁の知り合いではないことは明らかだったはずだが、商売人というのはあれこれもっともらしい理由をつけて集金を迫るものであった。この宿主も決して例外ではない。一見、仁に情けをかけているようにも見えるが、それならば宿代を働いて返させるなり、この場において支払いを待つなりできたはずである。それをしなかったのはあくまで彼にとって大切なのは『金』でしかなかったからであろう。
対する返事は何もなかった。不当な責任転換に憤りどころか呆れを感じているのだろうか。仁はこの責任を多少とも感じていたため会話に割り込んだ。
「いや、この人はなんの関係も無いですよ。でも、どうにかなりませんかね? 金を工面するまで待ってもらうとか、なんならここで働いてもいいんだが」
どのみち行く宛もなかった仁は、密かに自分の希望を盛り込んだ提案を示したが、宿主の筋肉質な顔は苦味を極める一方だった。
「なんでどこの馬の骨とも知れない野郎の面倒を見なくちゃならんのだ。逆に金を取りてぇくらいだ」
「かといって今ここで払える見込みなんてありませんよ?」
「おい、それならお前なんで偉そうなんだ!?」
事態は悪化するばかり、男よりも漢よりな宿主の声は徐々に大きさを増し、薄板の木壁を伝って建物全体ひいては近傍の路傍にすらその声が響くところであった。しかしその怒声は一つの音によって一瞬にして遮られる。
ダン、とカウンターに叩きつけられた手は、怒れる宿主でもなければ仁でもない、先刻まで沈黙を守っていたフードマント。手には先程払った金と同額の紙幣が握られていた。
「もう一部屋代。あと、あなたはついてきて」
そう言い残すとスタスタと宿屋から足早に出ていってしまった。
「あっ、おい!」
仁は自分の毛布一枚の格好と扉の外を何度も確認し、溜息をつくと扉の先へと向かった。何はともあれ宿代は肩代わりしてもらった身だ。仁はまたしてもなるがままに身を任せることにした。扉の先で宿主にこう捨て台詞を吐きながら。
「ちょっとこの毛布、貸りてくよ」
「おい、よかったのか? というより、何で代わりに払ってくれた?」
「感謝の言葉くらい述べてもいいのでは?」
フードマントはわざとそうしているのか、くぐもった声で話す。低い背が俯きに歩く姿によって一層に強調される。まるでできるだけ人の目につかないようにさえ感じられるものであった。
「これでも一度騙されたばかりでね。アンタの目論見を聞かないと」
「わかっているのでしょう……魔導の血に関するものに決まっている。まさかこんな哀れな人間だとは思わなかったけれど、あなたに期待はしていないわ。魔導の血を引く者のいる場所さえわかるのならば……」
「魔導の血……? アンタ何言ってんだ?」
仁は明らかに真面目に聞く態度を崩していた。魔導、ファンタジーに精通しているわけではない仁でもそれが常識の域を超えているものであることは理解できる。そんなものが広く蔓延る世界なのであろうか。
「なんだよ、魔法世界だっていうのか? なんとも夢のある世界なことで」
その言葉にピンと空気を張り詰めるのを仁は感じ取った。フードの奥では明らかに殺気立っている。
「あなた本気で言っているの……? ここに魔法があったらどんなに――」
瞬間、バリバリバリという紙を引き裂くかのような音が離れから二人の耳を劈く。
直後、その付近からの幾多なる悲鳴の声。言葉にならなかった悲鳴は人を伝う毎に内容を伴ったものとなる。そして、仁たちに届くころにはひとつの単語が悲鳴の色を消すことなく形成されていた。
「ま、魔物だあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
魔導に続き魔物。仁は今まで積み上げてきた世界観はここで何も役に立たないことを実感したのであった。この世界に常識で立ち向かうだけ無駄であることを頭では悟り、しかし身体は正反対の反応を見せている。
「一体なんなんだよ……! この世界は!」
この時ばかりは仁のきつく締められた顔面も周章狼狽を隠せなかった。数百メートル先に朦々と立つ黒煙を虚ろに見上げる仁の口は開ききっていた。