01.王子様は、もういない
The prince is gone. And yet, he appears before you.
「透子ちゃん、まだ若いんだし。次の相手、探さないの?」
「……うん。今はね、無理に探す気になれなくて」
そう答えながら、透子はアイスティーを静かに掻き回した。
氷が触れ合う音だけが、妙に大きく聞こえる。
――また、この話。
表情には出さず、視線をグラスに落とす。
「純吉くん、本当にかっこよかったもんねー」
「……うん。本当に」
それ以上も、それ以下もない返事。
慰めのつもりなのは分かる。
けれど、そのたびに過去へ引き戻される。
話題を変えようか、と考えていた、その時だった。
「あ。そうそう、もうすぐね、
地球全体の答え合わせが、始まるのよ!」
目の前の幼なじみは、
楽しげに――けれど、どこか確信めいた声で言う。
「……あら〜」
「今年は目覚めの年なの。
世界が、変わるのよ」
「……そうなのね〜」
相槌は自然に出る。
理解はしていないけれど、否定するほどの余力もない。
専業主婦の彼女は、最近こういう話をよくしてくる。
何かに影響されたのか、会うたびに、会話が少しずつ噛み合わなくなっていく。
目の前にいるのは、知っているはずの彼女なのに、
違う“誰か”に変わっていく。
「あ。透子ちゃん、追加で飲み物頼まない?」
メニューを受け取り、透子は一度だけ目を通す。
それから、そっとテーブルに戻した。
「ううん、大丈夫。今日はこれで」
二十五歳で結婚して、
たった二年で、夫を失った。
何でもない日に、
店先で見かけた花を買って帰ってくる人。
困っている見知らぬ誰かに、
ごく自然に手を差し伸べる人。
―― そして、その手を差し伸べた先で、
帰ってこなくなってしまった人。
結婚しても変わらず、
私にとっては、ずっと王子様みたいな人だった。
あんなふうに誰かを好きになることは、
もう、ない気がしている。
本当に、
大好きだった。
一人になってから、時間は止まったままなのに、
現実だけが、容赦なく進む。
仕事を覚えること。
職場の人間関係。
数年前と比べて、明らかに上がった物価。
今月をどうやって乗り切るか。
考えるべきことが多すぎて、
過去に浸る余裕すら、なくなっていた。
――だから。
「あの」
突然、声をかけられても、すぐには顔を上げられなかった。
「すみません」
疲れていたのかもしれない。
それとも、まだ過去に囚われたままだったのか。
顔を上げた瞬間、透子は一度だけ瞬きをした。
そこに立っていたのは――
生前の夫と、
瓜二つの青年だった。
「もしかして、君は……幸子さん?」
その姿に、一瞬、言葉を失う。
「……違います」
思考が、追いつかない。
でも、私の名前ではない。
だから、この人は、夫ではない。
……別人だ。
「……違う?」
青年は首を傾げる。
「牧子さん?」
「違います」
「恵理子さん?」
「違います」
「……花子さん?」
「違います!」
間違えられるたびに、胸の奥がざらつく。
声も、顔も、あまりにも似すぎている。
しかも、街中で、見知らぬ女性に声をかけるなんて。
――やめてほしい。
透子は、一歩、距離を取った。
その動きを見て、青年は一瞬だけ黙る。
それから、何かを思い出したように視線を戻した。
「……あ」
そして、慎重に名前を呼ぶ。
「透子さん」
一度、確かめるように間を置いて。
「……透子さんだ」
呼ばれた名前に、足が止まる。
考えるより先に、心臓が強く打った。
「……どうして……」
そんなはずがないと、分かっているのに。
どうして、知っているの。
「純……」
名前を呼びかけて、半歩、前に出た、その時。
「端的に説明すると」
青年はそう言ってから、間も置かずに続ける。
「墓の遺骨を元に、
峯島純吉の人体を再構成した。
残留していた遺伝子情報を解析した結果、
彼の中で“最も会いたい人物”として設定されていたのが、
透子さんだった」
淡々とした説明。
事実だけを並べた言葉だった。
「……はい?」
思考が、ようやく追いつく。
「透子さん」
青年は、一拍置いてから言う。
「俺は、地球外の知性体だ」
その言葉に、冗談めいた響きはない。
「地球人の生活を、学習している」
確かに、純吉の顔なのに。
どこか、決定的に違う。
透子は、深く息を吸って、吐いた。
「……とりあえず」
そう前置きしてから、落ち着いた声を作る。
「ここ、道の真ん中。
車、来るから……移動しよっか」
二人は横断歩道の真ん中で立ち尽くしていた。
短く、クラクションが鳴る。
純吉の姿をした“何か”は、周囲を見渡してから
「これが、人間社会における配慮だな」
と、妙に感心したように頷く。
歩き出しながら、横に並ぶ彼に意識を向けると、
久しぶりに、誰かが隣にいる感覚が戻ってくる。
「……あとで、ちゃんと説明してね」
「もちろんだ」
絶対に起こり得ないはずの非現実が、目の前で起きている。
それなのに、動いているその姿に再び会えたことが、
何よりも嬉しい。
混乱と安堵が、同時に胸に広がる。
けれど、この不思議な出来事がきっかけで、
止まっていた何かが、
少しだけ動き出しそうな――
そんな予感がしていた。




