父親
父と息子の間にある傷は、さらに深くなっていく。
孤独によって尖ったアキラの怒りは、黒薔薇の静かな犠牲とぶつかり合う。
お互いの心の奥にある本当の気持ちを、どちらも言葉にできずにいる。
怒声が飛び交い、扉が閉ざされる中、黒薔薇は屈辱と苦労に満ちた道を歩き続ける。
それでも彼は、前に進む理由を探している。
アキラが家に帰ると、父親が怒鳴りつけてきた。
「親戚が来てるってのに、なんでお前は時間通りに帰ってこないんだ!」
アキラはうんざりした表情で言い返す。
「うるさいな…そんなの知らないよ。それに、あんな役にも立たない人たちに、なんで俺が気を遣わなきゃいけないんだよ。」
父・黒薔薇は怒りを抑えながら答える。
「彼らは大事な人たちだ。これからはちゃんと敬意を持て。」
アキラの目に怒りが宿る。
「俺が壊れたとき、誰が肩を貸してくれた? 助けが必要なとき、誰が手を差し伸べてくれた? そんな人たち、俺には“親戚”でもなんでもないよ。」
言い合いが続いた後、アキラは自室に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。
黒薔薇――その名前しか知られていない男。彼の本名を知る者はほとんどいない。社会やアキラにとって、彼は「無職の男」にすぎなかった。建設会社で働いていたが、妻の死をきっかけに仕事を辞め、今はオフィスの清掃員として働いている。しかし、そのことは誰にも言っていない。修士号を持っていても、それを誇る気力はもうなかった。
翌朝。
アキラは部屋から出ようとしない。一度だけ食事を取りに出てきたが、すぐに部屋に戻った。
黒薔薇は出勤前、仏壇の妻の遺影に向かって「行ってくるよ」と静かに声をかける。そしてアキラの部屋を一瞥し、鼻をすするようにしてから外に出た。
家の前で隣人に「おはようございます」と声をかけるも、返事はない。むしろ隣人は小さく呟いた。
「朝っぱらからあの無駄な男を見るとは…不吉だな。」
黒薔薇は気にしない。
地下鉄に乗っている間、彼はこれまで貯めてきたわずかな貯金のことを考えていた。
面接に向かう若者たちを見て、心からの笑顔で「頑張って」と声をかける。
職場に着いた。
「おはようございます」と挨拶をするが、誰一人として目も合わせず、返事すらしない。顔にはあからさまな嫌悪感が浮かんでいた。
黒薔薇は気にしない。慣れている。
メイド室に入り、制服に着替える。もう一人の清掃員と一緒に仕事を始めた。
コーヒーを準備し、社員一人一人に配っていく。
ある社員の机に、唾液のような汚れがついていた。
「ちょっと、ここも拭いといて」と言われると、黒薔薇は何の表情も見せず、黙って布で拭き取った。社員は小さく呟いた。
「…バカかよ。」
黒薔薇は再びメイド室に戻り、今度は社長用のコーヒーを用意した。社長室に入り、机にカップを置いた瞬間、社長は立ち上がり、黒薔薇の前まで来て言った。
「お前、ここに来た初日から俺の好み知ってるはずだよな? なんで砂糖が少ないんだよ!」
カップは投げられ、床で砕けた。社長は黒薔薇の顔を平手打ちし、さらに唾を吐きかけた。
黒薔薇は黙って顔を伏せ、部屋を出た。
社員たちは静かに笑っていた。
メイド室に戻ると、同僚がいた。
「なんでここに?」と黒薔薇が聞くと、同僚は言った。
「全部見てたよ。あんた、なんでそんなに我慢してるんだよ。殴り返してやればいいのに。」
黒薔薇は静かに答える。
「それはできない。アキラと、俺たちの生活のためにこの金が必要なんだ。妻の遺したお金には手をつけたくない。あれは、いつかアキラの助けになるから。」
同僚は問いかける。
「でも、あんた修士号持ってるんだろ? もっとマシな仕事だって…」
黒薔薇は微笑んだ。
「今の時代、あんな学位に価値はないよ。それに…俺の親友が関わってる仕事だったから、二度と戻りたくない。妻は、どんな時も俺の味方でいてくれた。…まあ、もう慣れてるから。」
「でも…」と同僚が言いかけるが、黒薔薇は仕事に戻り、手を軽く振った。
夕方。
社員たちが帰っていく中、黒薔薇も着替えて帰路についた。
暗い夜道を歩きながら、彼は独り言をつぶやく。
「俺の人生は、闇そのものだ…昔は明るかったのに。光を探しても、見つからない。」
ふと空を見上げると、厚い雲に覆われた空に、一筋の光――雲間から差し込む月明かりが見えた。
黒薔薇は小さく笑い、つぶやいた。
「…まだ、俺の人生には“あのバカ”がいる。
この章は、私にとってとても大切なものです。黒薔薇の静かな苦しみと、アキラの爆発する怒りを通して、「痛み」はいつも叫ぶものではなく、むしろ静かに心の中に生きているということを描きたかったのです。
黒薔薇は、後悔と誇り、そして愛に埋もれながら、それでも息子のために前へ進み続ける男です。
一方でアキラは、まだ自分の傷に囚われており、閉ざされた扉の向こうで起きている父の犠牲に気づいていません。でも、それは彼の物語の始まりにすぎません。いつか、父の想いと、自分自身の本当の気持ちに向き合う時が来るでしょう。
時に、私たちが「弱い」と思っている人こそ、すべてを支えている存在かもしれません。
もしあなたが、黒薔薇のように見えない存在に感じたことがあるなら。
もしあなたが、アキラのように怒りに飲まれたことがあるなら。
この章が、少しでもあなたの心に響いていたら嬉しいです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
次の章で、またお会いしましょう。