第6条36項『皇族の婚約者は、騎士爵以上であれば身分を問わない。また、皇族の配偶者は公務に支障が無い限り、騎士団に所属しても構わない』
「第24条1項『婚約破棄は、両性の合意のみに基づいて成立し、決して真実の愛などにより一方的なものであってはならない』」の孫世代のお話です。
「第24条〜」を先にお読み頂けたら、より楽しめると思います。
帝国立学校高等部。
帝国の皇太子ウルリッヒ・フォン・ベルクマンは、ここの最高学年に在籍している。
彼は1年前に突然、新しい憲法を発案、交付した。誰得? と帝国民からの物議を醸した憲法こそが、
「第6条36項『皇族の婚約者は、騎士爵以上であれば身分を問わない。また、皇族の配偶者は公務に支障が無い限り、騎士団に所属しても構わない』」である。
そもそも、このおかしな憲法が作られることとなった原因。
それは、5歳で初めてキャサリン・ハーバー公爵令嬢に出会ったウルリッヒが、かれこれ12年片思いしているのに婚約を申し込めず、拗らせに拗らせていることに端を発していた。
要は、法の力を借りて好きな子と結婚したいというヘタレ皇太子の願望を、大人たちが皇子可愛さに聞いてしまったのである。
皇太子ウルリッヒ、公爵令嬢キャサリン、ウルリッヒの側近候補で侯爵令息フィリップの3人には現在、婚約者はいない。
45年程前に、ウルリッヒの祖父で上皇のアンドレアス、キャサリンの祖父であるロルフ前公爵、そしてフィリップの祖父で前宰相のフリッツ前侯爵が起こしたとある事件。
それがきっかけとなり、幼い頃に家同士が婚約を結ぶより、本人達が交友関係を築く年齢となった頃に、家同士の事情と本人の意思を鑑み婚約する。その方が、より良い婚姻関係を築けるだろうとの考えで、婚約を結ぶ年齢がぐんと上がったのだ。
婚約者がいないのは3人だけでなく、大半の学生が卒業までに婚約者を見つけるのが主流となっている。
高等部から入学してきたキャサリンは、全公爵家初の女性騎士を目指して、毎日中庭で一人剣術を磨いている。
5歳からの熱い恋心を変わらず持っているものの、多忙のため入学式でやっとキャサリンとの再会を果たしたウルリッヒ。
ウルリッヒは、キャサリンの美しく成長した姿と凛とした佇まいに、その恋心を暴走させてしまった。
何を話しかけるでもなく、いつもキャサリンの側にいるウルリッヒの不審な行動は、全生徒が頻繁に目撃する事となった。
キャサリンが入学してから1年が経った頃。
フィリップに結婚観について聞かれたキャサリンは、将来公爵家を出て騎士になり、自ら騎士爵を賜るのもありだと答えた。
慣例では、結婚して皇室に入るのは侯爵家以上に籍を置く令嬢だった。公爵家を出て一騎士となる令嬢と皇太子のウルリッヒとでは、簡単に婚約することが出来ない……
焦ったウルリッヒは、このとんでも無く限定的で私的な憲法『第6条36項』をスピード公布させてしまったのだ。
更にそれから1年。
皇太子殿下が申し込むのであれば、キャサリンに婚約を申し込むのは諦めよう……そんな貴族令息は沢山いた。
しかし、変な憲法を作っても肝心のウルリッヒに動く様子はない。宰相の息子であるフィリップのところには、貴族令息からの「殿下とキャサリン嬢はどうなっているのか」との問い合わせが寄せられるようになった。
それは学校内に留まらず、学校の外でも。中には強行突破でキャサリンのいるハーバー公爵家に直接話をしに行く者まで現れた。
フィリップは父である宰相からも、ウルリッヒが早く婚約者を決めるように動けと言われるようになった。
多方面から毎日せっつかれるフィリップは、いい加減うんざりしていた。
「殿下、キャサリン嬢に婚約を申し込まないなら、ぼちぼち皇帝陛下がお決めになったお相手と婚約することになりますよ。我々はもう最終学年です。半年後の卒業までに婚約者を作らないと。他の学生の婚約にも影響しますし……」
今日も中庭で一人、ハニーブラウンの髪を一つに纏めキラキラ汗を飛ばしながら剣を振るキャサリン。 その姿を教室内からオペラグラスで見物しているウルリッヒに、呆れ気味のフィリップが言う。
毎日毎日、キャサリンの側でぼーっとしているウルリッヒを見ていられなくなったフィリップは、放課後ウルリッヒに何かしらの用事を言いつけて教室に縛り付けるようにした。
オペラグラスはウルリッヒの苦肉の策らしいが、犯罪すれすれである。
「嫌だ。キャサリン嬢としか結婚しないと、ずっと言っているではないか」
オペラグラスから目を離さないまま、ウルリッヒが答える。
「では、お相手のご令嬢の名前だけでも」
「ダメだ! 名前を聞いてしまったら最後、そのご令嬢と強制的に婚約させられるだろう」
じゃあ覗きなんてしてないでアクション起こせよ、とフィリップが心の中で悪態をついた時、
「だ、誰だ! あの男はっ?!」
一人でいたはずのキャサリンは、いつの間にか茶色の髪の男子学生と話していた。ウルリッヒの視線の先を見たフィリップが答える。
「あれは今年入学した特待生ですね、平民の」
学園では優秀な平民を毎年数名、特待生として入学させている。
フィリップから見ても、キャサリンとその平民の学生は初めて話した感じでは無く、以前から知っているような仲の良さが伺えた。
あら厄介とフィリップが思った時、やっぱりウルリッヒが厄介なことを言い出した。
「あの男を調べろ! なぜ、公爵令嬢のキャサリンと平民が?! そもそも平民とあんなに仲良くなる機会は無いだろう。くそー、平民め!」
「とても、将来治世を築く方とは思えないご発言です」
フィリップに嗜められ失言に気付いたウルリッヒは、申し訳ない平民、と小さく謝る。
ウルリッヒは、その後もしばらくオペラグラスを覗き歯をギリギリさせていたが、突然教室の出口へと向かった。
ちらりと外を見たフィリップは、キャサリンと男子学生が門の方へ並んで歩く姿を確認した。どうやらウルリッヒは、二人を追い掛けるようだ。
しかし、ウルリッヒには皇太子としての執務がある。門付近で待ち構えていた迎えの者達にウルリッヒは連行されて行った。
皇族専用の馬車に乗せられる寸前、ウルリッヒはあの男を忘れず調べておけよ、とフィリップに叫んだ。
フィリップは走り出した馬車に一礼しながら呟いた。
「粘着力と行動力はあるんだけど、なぜ告白出来ないんだろう」
***
次の日の放課後、ウルリッヒはフィリップの目を盗み中庭に向かった。今日は素振りするキャサリンの隣で読書をするつもりだ。もちろん、昨日の平民男子学生のことも聞きたい。
意気揚々と歩くウルリッヒの足がピタリと止まり、そのまま近くの木の影に隠れる。
ウルリッヒの単独ストーカー行為に気付き、追い掛けていたフィリップも慌ててそれに倣った。何があったのかとウルリッヒの後ろから覗くと、キャサリンが昨日とはまた違う男子学生と話していた。
男子学生はこちらに背を向けていて、顔が見えない。
「久々の学園はいいね。でもさ、なかなか面白い留学だったよ」
どうやら男子学生は留学していて、留学先から帰って来たようだ。
外交に力を入れているこの国は、将来を見据えて優秀な学生を近隣諸国へ留学させている。卒業間近となった今、留学生が続々と帰国している。
キャサリンは素振りしながらも、男子学生ににこやかに相槌を打つ。なんだか仲は良さそうだ。ウルリッヒの歯軋りが聞こえる。
「なんか変わった国でね。みーんな、同じ名前なんだ。王族も貴族も平民も。なんなら国に住む動物まで」
キャサリンが素振りする手を止めて、目を見開く。いつもはあまり表情を変えないキャサリンの変化。ウルリッヒの歯軋りがより強くなる。
「あとね、その国は高位貴族のご令嬢も騎士として務めていたよ。キャサリンも行きたくなるよ」
「それ、いいわね。他国で騎士になるのもありかも」
「一緒に行くのも楽しそうだ。そうそう! 招待されたパーティーで婚約破棄騒動が起きてさ。でも、言い争ってる奴らみんな同じ名前だから、訳わかんなくなっちゃって。近衛と騎士団も出て来る騒ぎになったんだけど、どっちも制服は赤だし。俺、隣にいた奴に相関図書いて説明して貰ったもん。でもさ、そいつも同じ名前で……」
ひどく砕けた口調に親密度を感じ、ますます不機嫌になるウルリッヒとは反対に、キャサリンは「何それ」と声を上げて笑い出した。
公爵令嬢らしからぬその笑いと、それを当然のように受け止め一緒に笑う男子学生の姿に、ウルリッヒは愕然とした。
キャサリンにそんな親しい間柄の男がいたなんて……
昨日見た平民学生とは違い、この男子学生は一目で貴族と分かる。しかも留学出来るぐらい優秀なのだろう。
もしかして既にキャサリンはこの男と婚約をしていて、卒業後一緒に他国に行ってしまうかも知れない。
いや、婚約していなくてもキャサリンは他国に興味を持ってしまった。もし他国に行ってしまったら、そちらで婚約者を見つけてしまうかも知れない……
失意の中、ウルリッヒはフラフラと来た道を戻って行った。フィリップは留学の話が面白くてもう少し聞いていたかったが、仕方なくウルリッヒの後に続いた。
皇宮の執務室に帰っても、何やら難しい表情で考え込んでいたウルリッヒだったが、おもむろに書類にペンを走らせた。
その後ろでは、男子学生が留学していたであろう国に目星をつけたフィリップが、その国のことを調べている。
「なかなか面白い国もあるもんですね。あ、殿下。あの留学生が誰か分りましたよ。キャサリン嬢の従兄弟で……あれ? 殿下?」
ついつい夢中になっていたフィリップは、完成した書類を持って慌てて出て行ったウルリッヒには気付かなかった。
「あー、あの平民についても調べたんだけどな。まぁ、報告は今度でいいか」
***
コンコンコ……ガチャッ
「宰相、これを早急に議会にっ! あ、お祖父様!」
ウルリッヒは返事を待たず、ノックと共に宰相の執務室に入った。そこにいるはずの宰相は不在で、代わりに前皇帝で祖父のアンドレアス・フォン・ベルクマンがいた。
「何を焦っておるのだ、ウルリッヒ。まぁいい。そうだ、これは儂の旧友の前宰相フリッツだ。」
アンドレアスの隣には祖父と同じぐらいの年齢の、眼鏡を掛けたスマートな初老男性が立っている。
「あ、フィリップの祖父の……」
「大きくなられましたなぁ。フィリップからも話は聞いていますよ。しかし、アンドレアス様の若い頃にそっくりですね、良からぬ方面に突っ走ってしまいそうな真っ直ぐなところなど……」
「んんっ。それで今日はどうした? こやつの息子の宰相殿は席を外しておるが。何だ、その書類は?」
フリッツから若気の至り話をされそうになったアンドレアスは、フリッツの話を遮り、ウルリッヒが手にしている書類について尋ねた。
「今日は、新たに作ろうと思っている憲法案を持って参りました。宰相に目を通して貰おうと……」
アンドレアスがウルリッヒから書類を取り上げ目を通す後ろで、フリッツもメガネを掛け直しながらそれを覗き込む。
一通り書類に目を通したアンドレアスとフリッツは、もう一度初めからじっくりと書類に目を通す。結局三度も読み直したアンドレアスとフリッツは、眉間を揉んだ後、無言で見つめ合った。
そして、今度は書類を音読し始めた。
「憲法89条1項、皇族の配偶者になり得る者は、異性の友人を全て報告し許可を得る……許可がいる? 誰の?」
「憲法89条2項、皇族の配偶者になり得る者、特に公爵家の者が他国に渡るのは好ましくない……誰から見て好ましくないのでしょう?」
「憲法89条3項、皇族の配偶者になり得る公爵家の者が、他国の者と婚約を結ぶのは禁止とする……だいぶ特定してきたな」
「憲法89条4項、皇族の配偶者になり得る公爵家のキャサリンは、他国にも行かせないし他の男性と婚約させない……名前が出ましたね」
感想を述べつつ、アンドレアスとフリッツは、この愚案とも言えない駄案を呆れながら口にする。
こんな調子でつらつらと書かれている内容に、二人は目眩すら覚えた。発案者である当の本人は、目をバキバキにしてどうだ! と言わんばかりにこちらを見ている
「恐れながら、ウルリッヒ殿下……」
さすがにこれは無いだろう、と意見しようとしたフリッツをアンドレアスが止める。
「わかった。この法案を通すことなど、儂の特権で出来んことも無い」
「本当ですか?!」
「ただし条件がある。半年後の卒業パーティー。それまでにこの憲法を詰めて、卒業パーティーで公表しろ。そして、会場の賛成を3分の2以上得られたならば憲法案として正式に議会に上げる。但し、賛成を得られなかった場合は、こちらで決めた相手と即結婚してもらう」
わかりました!っと元気よく出ていくウルリッヒを、アンドレアスとフリッツは何とも言えない表情で見送った。
「お前の孫息子でも、ウルリッヒを抑えるのは無理だったか」
「申し訳ございません。血と言いますか……私もキャサリン嬢の祖父ロルフでさえも、貴方を抑えることが出来なかったどころか、同類でしたので……」
二人は、自分達の卒業パーティーでの失態を思い出し、遠い目をした。
あの時のように、愚行を止めてくれる聡明な婚約者がウルリッヒにいれば良かったのだが。
「とうの昔に決めた婚約者がキャサリン嬢だということは、ウルリッヒ殿下にお伝えしなくていいのですか?」
アンドレアスも息子である現皇帝も、何度もそのことをウルリッヒに話そうとした。だが、婚約者候補の名前を聞いてしまったらもう逃げられないと勝手に思い込んだウルリッヒが、聞くことを頑なに拒んだのだ。
「どちらにせよ、自分の気持ちも伝えられないくせに、法の力を借りて好きな令嬢を手に入れようとする……そんな情けない奴は、一度ガツンとやられた方がいい。どこかで現実を見て貰わんとな。あぁ、卒業パーティーには我々の同窓生も来るんだろう。楽しみだな」
あの時ガツンとやられたことを思い出したフリッツは、止められなかったフィリップにも再教育が必要だなとため息を吐いた。
あの頃の自分達には聡明な婚約者がいたので、あの卒業パーティー後は問題無く、むしろ順調に生きて来れた。
あの時、ロルフは婚約者に重い平手打ちを数発打たれ沈んだ。
フリッツは左利きの婚約者に掌底打ちされる予定だったと聞いたし、アンドレアスは暗器でどうにかされていただろう。
二人はしばらく遠い目をしていたが、アンドレアスがポツリと言った。
「キャサリン嬢は剣術に長けているらしいな」
「ええ、公爵家初の女性騎士になるのが夢だとか」
「「…………」」
ウルリッヒが受けるガツンを想像して、当日は近衛騎士を多めに配置しておこうと、二人はため息を吐いた。
***
そして季節は流れ、もうすぐ春を迎えるというのに、珍しく前日から雪が降り続くある日の午後。
高等部敷地内にある会場では、恒例の卒業パーティーが行われていた。
謝恩会の意味も持つこのパーティーは、卒業生とOB、OGである保護者たちで毎年賑わう。今回は会場1階の保護者席も、2階の来賓席も満席であった。
今年のパーティーも盛り上がり、あとは卒業生代表として皇太子ウルリッヒの挨拶を残すだけとなった。
ウルリッヒは司会役の教師に促されて壇上に立つ。皆、姿勢を正し、ウルリッヒの言葉を待った。
「この場を借りて私から、皆に新しい憲法を提案したい」
意外な言葉に会場が一瞬騒めいたが、国を良くする為のどのような法案かと、期待を込めてウルリッヒの言葉を待つ。
ウルリッヒはスーッと息を吸った。
「憲法89条1項、皇族の配偶者になり得る者は、異性の友人を全て報告し許可を得る。
憲法89条2項、皇族の配偶者になり得る者、特に公爵家の者が他国に渡るのは好ましくない。
憲法89条3項、皇族の配偶者になり得る公爵家の者が、他国の者と婚約を結ぶのは禁止とする。
憲法89条4項、皇族の配偶者になり得る公爵家のキャサリンは、他国にも行かせないし他の男性と婚約させない。
憲法89条5項…………」
ウルリッヒが声高らかに読み上げる憲法案に、会場には困惑の空気が漂う。
まさかの私情? 2年連続で私情でしかない憲法の制定? ヒソヒソと話す声があちらこちらから聞こえ始める。
名前を出されたキャサリンには周囲の視線が集まる。キャサリンはあの平民の男子学生トムと、その両親と思われる夫婦と立っていた。
「んんー? あれは……」
2階の来賓席にいたアンドレアス、ロルフ、フリッツが身を乗り出して、キャサリンと一緒にいる夫婦、特に女性の方を凝視した。
「あら、リリーですわ。あなた方が卒業パーティーで取り合った、元男爵令嬢の……」
扇子で口元を隠したマーガレーテ上皇后が、後ろからアンドレアスに耳打ちする。
それを聞き、アンドレアスだけでなく、ロルフとフリッツも固まる。ロルフとフリッツは、自分の後ろの席にいる妻の、刺すような視線をひしひしと感じていた。
リリーと呼ばれたトムの母親は、元々は慈善活動をしているハイネ男爵家の養女だった。孤児院出身のリリーは男爵家で福祉について学んだあと、同じ孤児院出身の幼馴染であるダンと結婚して平民に降り、夫婦で孤児院を運営している。
優秀な成績で特待生として入学したトムは、在校生代表として卒業パーティーに出席することになった。その孤児院に援助しているキャサリンが「ご子息の晴れ舞台に是非」と、トムの両親をパーティーに招待したのだった。リリーもここの卒業生で、アンドレアス達の同窓生である。
「キャサリンが慈善活動をしたいと言い出した10歳の時に、リリーに相談して孤児院での活動をお手伝いさせて貰うことにしたのよ」
ロルフの耳元でウェンディが囁く。ロルフは前だけ見てコクコクと頷く。
「ウフフ。フィリップがトムのことをコソコソ調べているから、あなた方がまたリリーにちょっかいを掛けているのかと思ったわ」
フリッツの左肩を後ろから扇子で突きながら、楽しそうにナディアが言う。フリッツはハハハと口だけで笑い、痛みに耐えた。
来賓席でそんなやりとりが行われている頃。
ウルリッヒはキャサリンとトムが一緒にいるのを見てしまい固まっていた。そんなウルリッヒに、キャサリンは一人、来場者の合間を縫って近付いて行く。
キャサリンはニコリともせず無表情だったが、トムより自分の方に来てくれたことに嬉しくなったウルリッヒは、気を取り直して自信満々に続けた。
「憲法89条8項、皇族の配偶者キャサリンとは、可愛い子どもを……」
キャサリンが自分の口に立てた人差し指を当て、ウルリッヒの言葉を遮る。
「殿下、シーッ」
「えっ……」
言葉を遮られたことと、キャサリンの唇に気を取られたウルリッヒは一瞬たじろいだが、すぐに立て直す。
「憲法89条8項、皇族の配偶者キャサリンとは、可愛い……」
キャサリンは右手の親指と人差し指の先を合わせ、自分の唇の左から右に当てスライドさせる。
「殿下、お口チャック」
そのゼスチャーの可愛さに胸が苦しくなったウルリッヒだが、ここで引けない。
「憲法89条8項、皇族の配偶者キャサ……」
キャサリンがスパッと言う。
「殿下、黙って」
キャサリンが敬語以外で話してくれたことに嬉しくなったウルリッヒだが、負けない。
「憲法89条8項、皇……」
キャサリンが酷く低いドスの効いた声で言う。
「おい、黙れ」
ここへ来て、さすがのウルリッヒもキャサリンの怒りに気がついたようだ。
もうちょい行けたのに、とウルリッヒの後ろに控えているフィリップは舌打ちした。
キャサリンはやっと黙ったウルリッヒと目を合わせて、ゆっくりと言い聞かせるように話し出した。
「私も貴族に生まれたからには、家のためになる結婚をするつもりで生きてきました。更には公爵家なので、国益になるなら何処へでも喜んで嫁ぐ所存です」
キャサリンはしばらくウルリッヒを見つめて、そして続けた。
「議会から殿下のお気持ち次第で私が婚約者に、と聞かされていました。しかし、とうとう卒業まで殿下から婚約のお話は頂けませんでした。ウルリッヒ殿下は、私が婚約者ではご不満だったのでしょう」
思いもしないキャサリンの話に、ウルリッヒは言葉も出ない。
キャサリンが私の婚約者? それを私が不満に?
理解できず、振り返ってフィリップに説明を求めると、フィリップがコクコク頷きながら言う。
「私を含めて、色んな人が何度も何度も殿下に婚約者のことを……キャサリン嬢のことをお伝えしようとしたのですが、殿下が頑なに聞いて下さらず。で、この有様です」
「そうだったが……それでも少なくとも君は、強く伝えるべきだっただろう、フィリップ!」
心当たりがあるだけに、完全な逆ギレでウルリッヒが叫ぶ。フィリップは首を竦め、
「いいえ。殿下が言い出さないのなら、私は無理にキャサリン嬢との婚約をお勧めしません。なぜなら、キャサリン嬢は私の婚約者として、ブラウン侯爵家にお迎えしたいと考えてますので。もちろん、私はキャサリン嬢のことを大切にしますよ」
フィリップの、突然のプロポーズとも取れる横槍に驚いたウルリッヒは、目を見開いたまま口をぱくぱくする。
会場からは「腹黒い」と小さい声が多数上がり、来賓席ではアンドレアスとロルフが「そうなの?」とフリッツを見る。
ウルリッヒは突然の色々なことに、思考が停止してしまい動けない。
来場者もそんなウルリッヒを見ていられず、気まずそうにウルリッヒから目を逸らす。
フィリップは、キャサリンには殿下の瞳の色より、自分の瞳の色の宝石が似合いそうだなと考えていた。
さすがに我が孫が、これ以上の失態を晒し続けるのを心苦しく思ったアンドレアスが、場を収めようと椅子から立った時……
「5歳のお茶会の時に」
キャサリンが静かに話し出した。
「ウルリッヒ殿下は剣は嫌いだ、と泣いていらっしゃいました。本をたくさん読んで立派な皇帝になるから、剣には触りたくないと」
そんなこと言って無い……いや、言ってたかもと考えるウルリッヒ。泣いてたわーこの腰抜けは、と思い出すフィリップ。
「その時に、殿下に代わって剣術を磨こうと決心しました」
静かな告白に、ウルリッヒはもちろん、フィリップも会場の誰もがキャサリンを見た。
「人には得手不得手があって当然。殿下が剣が得意でないのなら、私が殿下のお側で剣となりお守りすれば良いだけのこと。夫婦になるのであれば、寝室でもお守りできます」
「しっ?! しんっ、寝室っ?!」
赤くなり興奮するウルリッヒの脇腹を、フィリップが強めに突き黙らせる。
「帝国の公爵家で、殿下と釣り合う年齢の令嬢を持つのは我がハーバー公爵家のみ。私が婚約者候補として密かに妃教育を受けていたのは、公然の秘密かと。まあ、これは殿下の積極性に期待した大人たちがわざと言わなかったのが問題だと思うのですが……」
キャサリンがチラリと来賓席を見上げる。目が合ったロルフ、アンドレアス、フリッツが慌てて目を逸らす。
そうなのか、とウルリッヒが周りを見渡すと、卒業生どころか保護者達も頷いている。
逆になぜ気付かなかったのだろうこのポンコツは、とフィリップは残念に思う。
「いつまでも私を婚約者にしない。そのくせ、法で私を雁字搦めに縛りつける。……殿下は一体、私にどうしろと仰るのでしょう」
どうしろ? 私はキャサリンに何を望んでいるのだろう。ウルリッヒは自問する。
キャサリンが側にいて、私にもあの笑顔を向けて欲しいだけ。私とずっと一緒にいて欲しいだけ。
どうしたら伝わる? 一体どうしたら、この思いをキャサリンに伝えられるのだろう……ウルリッヒは拳を握り締め、黙って立ち竦む。
少し離れたところで見ていた、留学帰りのキャサリンの従兄弟がボソッと呟く。
「……好きですって言えばいいのでは?」
全く動かなくなったウルリッヒに、痺れを切らしたキャサリンはフィリップを見る。フィリップは頷き、いつの間にか持っていたキャサリンの剣を鞘ごとキャサリンに渡す。
練習用の模造の剣ではなく、キャサリンが現皇帝から賜った紋の入った真剣。
いかんっと立ち上がるキャサリンの祖父ロルフを、祖母のウェンディが止める。
剣を持ったキャサリンは、それを呆然と見つめるウルリッヒにゆっくり近付きながら、スラリと鞘から剣を抜いた。
まさか斬るのか? と会場が騒めく中、ウルリッヒの目の前に立ったキャサリンはその剣をウルリッヒにしっかり握らせ、その手を自分の両手で包み込んだ。
「私はこの珍妙な憲法を認める訳にはいきません。今回この珍妙な憲法が制定されても、この先殿下の気に入らないことがあれば、その一声で新しい珍妙な憲法が作られていくのでしょう。私がいるせいで珍妙な憲法が増えるぐらいなら……」
キャサリンはウルリッヒに握らせた剣に、自分の首筋を近付けた。周囲から声にならない悲鳴が上がる。
「お斬りあそばせ、殿下」
ウルリッヒがヒュッと息を呑む。
「何をしたくて、あんな馬鹿な憲法を思い付かれたのですか? お答え頂けませんか?」
ウルリッヒは声を出すことが出来ない。
「……そうですか。なら、お斬り下さい」
また少し、キャサリンがウルリッヒの持つ剣に首筋を近付ける。ウルリッヒは青くなり、震えるだけだ。
「ねぇ殿下、あんな馬鹿な憲法を制定して、私をどうしたかったのですか?......答えられないのなら斬って」
また剣に近付いたキャサリンの首筋は、とうとう刃に触れる。キャサリンの首筋に張り付いていたハニーブラウンの後毛が少し切れ、ハラリと床に落ちる。ウルリッヒの顔色はもはや、青を通り越して白くなっていた。
「さぁ、答えて! 私に何を望んでいるのっ、ウルリッヒ!」
キャサリンの迫力に周りの者は動けなかった。王族警護の為に配置されていた近衛でさえも。
が、護衛のためにウルリッヒの側にいた近衛隊長がいち早く我に返り、ウルリッヒが握る剣に飛びかかろうとしたその時、
「キャサリンが好きなんだよおぉぉぉぉぉぉ!」
顔の色をなくし、血が出るほど唇を噛み締め、ブルブル震えて立ち竦んでいたウルリッヒが、悲痛な叫び声を上げ、そして剣をその手から放り投げて泣き崩れた。
「キャサリンが……キャサリンが大好きで、こ、婚約したくて。でも断られるのが怖くて言えなくて」
膝をつき泣きながら告白するウルリッヒ。
キャサリンはウルリッヒには目もやらず、落とされた剣を拾い、傷が付いていないか丁寧に確認しながら言う。
「知ってましたよ、そんなこと」
「ええ……知ってたの」
涙と鼻水でぐちょぐちょになった顔を上げ、ウルリッヒが情けない声を出す。
剣に刃こぼれが無いか片目を瞑り確認しながら、ウルリッヒを見ること無くキャサリンが続ける。
「5歳から舐るようにじっとり見つめられ、学園では不自然に側に張り付かれ。気付かない方がどうかしています」
真剣を一振りして最後の確認をする。剣には問題が無かったようで、満足したキャサリンは剣を鞘に戻してフィリップに渡す。しれっと両手で受け取るフィリップを、隣で近衛隊長が睨みつける。その目は、こいつ何故キャサリンに真剣を渡したと語っている。
キャサリンはしゃがんだままのウルリッヒの前に膝をつき、ハンカチで顔中を拭いてやる。
されるがままのウルリッヒの顔が綺麗になったところで、キャサリンはウルリッヒを真っ直ぐ見つめて言った。
「私はウルリッヒ殿下と帝国民を幸せに出来ますが、どうしましょう?」
キャサリンを見上げたウルリッヒの目に、再び涙が溢れる。
「し、幸せにして下さいっ! そして、二人で帝国民を幸せにしましょう!」
しばらく静まり返ったままの会場から、誰かの遠慮がちな拍手が聞こえる。パチパチと周りの者もつられて拍手をし出し、やがてそれは割れんばかりの拍手となった。
来賓席にいたアンドレアスとロルフが額の汗を拭き、握手をする。フリッツは、不出来な孫息子にも早くしっかり者の婚約者を作らねばと強く思った。
マーガレーテ上皇后とウェンディ・ハーバー前公爵夫人、ナディア・ブラウン前侯爵夫人は、ふうと肩から力を抜き、笑みをこぼした。
「どうなるかと思いましたよ、うちのキャサリン。ほんと不敬もいいところだわ。ふふっ」
「あら、さすがは平手打ちのウェンディのお孫さんね。切れがいいわ」
ウェンディとナディアは、ウフフと笑いながら言い合う。そして、1階にいるリリーを見つけてた3人は笑顔で手を振る。リリーも笑顔でそれに答える。
「ウェンディの孫で女性騎士志望と聞いていたから、絶対物理攻撃で決めるかと思ってたが……」
「まさかの精神攻撃だったか」
笑い合うフリッツとロルフ。間にいたアンドレアスが後ろを振り返り、妻のマーガレーテに話しかける。
「しかし我が孫ながら、あれが未来の皇帝でいいのだろうか」
その言葉に、かつての婚約者3人はお互い顔を見合わせ吹きだした。
誰がどの口で仰るのか、とマーガレーテがアンドレアスに言う。
「大体、王子や皇太子が立派な青年というのは物語の中だけでしょう。特に我が帝国の皇帝は、婚姻後ようやく賢帝になると言い伝えられていますからね。近い将来、また歴史が証明してくれるでしょう」
かつての馬鹿3人組と、聡明なその婚約者達は、来賓席からウルリッヒとキャサリンに目をやった。
まるで介護するかのようにウルリッヒの腕を組むキャサリンと、初めて腕を組まれて真っ赤になっているウルリッヒ。近衛隊長に睨まれながら、その隣にしれっと立つフィリップ。
この子達の将来と帝国の未来を思って、6人は来賓席から静かに去った。
***
こうして無事、ウルリッヒとキャサリンは婚約することができた。
貴族も平民も通う学校の、この卒業パーティーでの出来事は、瞬く間に帝国中に広まり、ウルリッヒは皇帝に即位するまで、生暖かく帝国民から見守られることとなった。
ウルリッヒやアンドレアスが制定した憲法の数々。
これが巡り巡って、やがて平民社会でフィリップを巻き込む騒動が起きるのだが、それはまたのお話。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
是非、いいねや評価をして頂けたら励みになります!
キャサリンの従兄弟が留学した変な国について、フィリップ同様関心を持たれた方は「タナカのタナカによるタナカのためのタナカ王国物語」をお読み下さい。