不動産屋社長吉岡
「だいぶ様になってきたんじゃないですか?正三さん」
正三は警察官を退職し、ひといきでアルバイトを始めた。吉岡は週に2回ほどコーヒーを飲みに来る。3ヶ月ほど経ったころには正三はマスターほどとはいかないが美味いコーヒーを淹れられるようになってきた。
「まだまだマスターの味には程遠いがな。」
さすが真面目な元警察官。職人気質は健在だ。
仕事を覚えるのが早いためマスターの出勤は週3日まで減った。それまでの週6日出勤の半分である。
「わたしは教えられることは全て教えた。彼のおかげでのびのびやっとるよ。」
「それは良かった!病気の方はどうなの?」
「医者が言うにはもうできることはやったからあとは残りの人生を幸せに過ごして欲しいと。」
「そっかそっか、なにか趣味でもあるのかい?」
「最近はテレビばっかり観ていてなぁ、ドラマが面白いんじゃ。」
「おれもマスターとはよくドラマの話をしている。なんだか学生の休み時間の会話みたいで楽しいんだ。」
「正三さんもドラマ観るんですか!意外だなぁ」
そんな他愛もない会話をするのが楽しかった。仕事漬けの日々で被疑者や同僚としか会話しなかったころには考えられないほどに。
正三が働き始めて半年がたった頃、マスターが亡くなった。89歳だった。亡くなる前日も働けはしなかったが常連さんやおれとおしゃべりするために店に来ていた。
「あんな幸せな最期はないんじゃないですか?」
「ああ。そう思ってくれていたら最高だな。」
ひといきの常連くらいしか来ない小さな葬儀だったが、とても温かい気持ちになった。これからはおれがあの店をやっていくんだ。実感は湧かなかったが自信は湧いていた。
「もう13年前か。懐かしいな、あの青年を見ると昔の正三さんを思い出す。」
事務所でひとり青年のために物件を探す吉岡はつぶやいた。彼にとって刺激のある街がいい。新宿か渋谷かはたまた浅草か、悩ましい。
いたるところに電話をかけ、物件情報を整理しまとめる。そんなこんなでもう深夜だ。
「今日はもう寝よう、明日には物件のリストアップが終わる。今週中に内見まで行けたらいいな。」
翌朝、7時に目が覚め、とりあえずコーヒーを淹れる。正三とマスターのところに通い始めたころから自分もコーヒーにハマり、マシンから豆までこだわっている。
コーヒーを飲み終えると、すぐにデスクへと向かった。朝食は摂らないスタイルだ。
昨日まとめた資料を印刷してファイルにまとめて完成。あの青年に早く見せてやらないとな。こういうのは鮮度が大事なんだ、旬を逃しちゃいけない。
ひといきに着くと司がいた。いかにもバイト終わりといった服装だ。
「お、いたいた。青年よ、今後の人生を決める大切な分岐点だ。心して選ぶんだよ。」