喫茶ひといき
「あの人もともと警察官だったんだよ。」
カヨは厨房に目線を向けて言った。思いもよらない肩書きに萎縮する。どうりで迫力のある顔をしているわけだ。
「なんで警察官辞めちゃったんですか?」
「うつ病って診断された。」
奥から正三が出てくる。カヨが説明すると余計なことまで話すので話が二転三転するからだろう。
「真面目で正義感の強い人間ほど心を病みやすい。矛盾しているだろう。昔やんちゃをしていたと言う同期はとんとん拍子で昇進していき、曲がったことが嫌いなおれは納得のいかない上の判断に歯向かったことで目をつけられ圧力で昇進を阻まれた。」
「正しいことが全てじゃないんですね。」
「ああ。それでも毎日事件は舞い込んでくる。強盗や傷害、酷い時には殺人だ。警部補だったおれは現場の指揮をとり、上がってきた書類を精査する。まあ2、3日は家に帰れなかったな。」
「あたしは何度も無理するなって言ったんだけどね。」
「それが刑事課の宿命みたいなものだったからな。」
「そこからどんな経緯で喫茶店のマスターに?」
「ガキの頃近所に住んでいてよく遊んでやっていた吉岡が不動産屋を始めたと聞いてな、警察時代に家を借りたんだ。警察を続けられないかも知れないと考えていたときそれを思い出してあいつの事務所を訪ねたんだ。そしたら、」
「コーヒーでも飲みに行きましょうよ!僕の奢りで。」
「おまえも立派になったよな。まさか奢られる時が来るなんて。」
正三と吉岡はピンと張ったスーツのまま古ぼけた小汚い喫茶店に入った。
「いいなここ、落ち着く。」
「でしょー、正三さんが好きそうなとこわかるんですよ。」
「いらっしゃい。なににする。」
白髪の今にも倒れそうな細っこいおじいさんが出てきた。ここの店主だろうか。
「ブレンドコーヒーを2つ、ホットで!」
吉岡が注文した。おれの好みを完璧に理解している。恐ろしいやつだ。
コーヒーが目の前に置かれるとすぐに吉岡が
「ここのコーヒー美味しいからいつまでも続けて欲しいんだよなー。」
明らかに店主に聞かせるようにつぶやいた。
「もうわたしは続けられないよ。医者にも止められているんだ。残された時間を家でゆっくり過ごしなさいってね。」
そんなに病気が進行しているのか、見た感じ80歳から85歳、身長は158cmくらいだな。話し方からすると認知症ではなさそう。いけない、すぐプロファイリングしてしまう。
「そっかぁ、後継者とかいないの?」
なかなか無神経なやつだなと思ったが、そんな所が人を惹きつけるのだろうか。
「いないいない。妻はとっくにあの世に行っちまったし、息子は北海道で働いとる。いい大学出てエリートだかなんだか言ってたわい。」
「ねえねえマスター。この人にここ任せてみない?」
「おい、なに急に言い出すんだ。おれは警察官で副業なんて出来ないぞ。」
「辛い苦しいもう辞めたいって顔に書いてますよ。」
「なにもそこまで思ってない。」
「うつ病なんですよね?カヨさんから聞きましたよ。」
「…。」
言葉も出ない。反論してまで警察官を続けられる気がしない。いますぐ逃げ出したい。楽になりたい。
「死んだらこれから助けられるはずだった人も助けられない。この店を継いだら僕も含め多くの常連たちに幸せをとどけられる。どうですか?ひといきつける場所でお客さんのひといきを守ってくれませんか?」
涙が溢れてきた。ありがとう、ありがとう。
そっか、生きる場所はあったんだ、生きてていいんだ。
「ああ、やらせてくれ、一生懸命働く。たくさんお客さんのために尽くす」
目の前でマスターも泣いている。あんたが泣くところあったか?男たちの青春みたいになってるぞ。
「それから、おれは警察を辞め、ここでバイトを始めたんだ。40代半ばのおじさんだったがな。」