九
九
うつむいて一呼吸ついた巳代には、砂埃に塗れてはいるが優美な帯の間に、まるで蛇が絞め殺そうとしているかのように一筋の縄が結ばれて、重みでだらりと下がっている。
それに目を留めた麗人は、その美しい眉を顰めたが、不意に近づくとかざしていた手ぬぐいを軽く上下に振って塵を払いながら、左右の手で結び目を解いた。
「お前、縛られておいでだったのかい」
「あれ、お手が汚れますわ」
と、麗人の手に縄があることに気づいてびっくりした巳代は、膝を擦って進み出て受け取ろうとした。
「気にすることはないよ」
と、麗人は、両手で手早く綱を丸め、一巻きの塊にして重みのついたそれを、後ろを向いて勢いよく放り投げた。綱ははらはらと解けながら、このあたりにまた静かに流れている谷川の空に翻った。
その行方を見返りもせず、手ぬぐいの片端を口にくわえて、手のひらをこすりつけて拭くと、
「なぜ、どうしてこんなことをされたの」
巳代は伏し拝むほどに身をかがめて、
「お嬉しゅう存じます。その縄の端を握って巡査が一人、あそこまで参りましたのでございます」
「おやおや、ここへ。流刑人にでもするつもりだったのかしら」
「そうではないのでございますが……」
と、ようやく生きた心地を取り戻した巳代は、ここにいるのは姫神様にちがいないと、占いのお伺いを立てるかのように、
「ここは、あの、なんと申しますところでございましょう」
「湯の山といいますよ」
「それでは、湯涌谷と申しますのは」
「それはこの崖の上」
と麗人は立ったままで、巳代は下に膝を支いたままで、いっしょに空を見上げた。
崖の上と、ことばで言えばそれまでだが、天に聳え、隔世の感を抱かせるそれを実際に仰ぎ見ると、うっとりとして心も充たされる。その根もとに位置する、この清水が湧く場所の上には、里の夕べに立ちのぼる煙のように、いや、煙に似てしかも寒そうな、地に近いところでは薄く、高く立ちのぼるほど次第に濃くなり、流れるような白雲が、あちらこちらの岩間に湧きたち、低いところでは淀み、上を行くものはちらちらと青空に入り乱れて、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。
「もし、あそこへは上がれるのでしょうか。道が悪いことは辛抱をいたしましても、参ってはならないところでございまして、御罰でも受けましたらどうしましょう。
先ほど申しました巡査は、あの石の門からなかに入ろうといたしたのです。すると、この雲でございます。それとも温泉がございますなら、その湯気でございましょう。急に霧がかかりましたように、四方の真っ黒な岩山が残らず白くなって、いっぱいに雲がかかったかと思いますと、恐ろしい鉄砲の音が一つ鳴って、私の綱を握っていた手を離すと、後ろに倒れてしまったのでございます。
私は夢中で駆けだして、石の門のこちら側に参りました。急な流れがございまして、そこから先はこんなに平らな道になりましたので、まあよかったと思いましたが、やるせない気持ちがしてなりませんので、ちょうどここに水がございましたから、飛びつくように飲みたくなったのでございます。
覚悟はしておりましたけど、先ほどの鉄砲の音は、山のお祟りかと存じます。でも、どういたしましても湯涌谷まで参りたいのでございますが、谷といいますからもうこれからは、坂がありましたら下り坂なのでしょうと安心しておりましたのに、峠のことだとは存じませんでした」
それを聞いた麗人はうなずいて、
「ここは水の流れる谷。そしてこの上の湯の湧くところもやっぱり谷。峠はさらにその上にあるが、剣村の社のほうから本街道を廻っていくとね、遠回りになるだけで、その峠を越えるのは易しいそうだよ。湯涌谷に行くのが一番難しい。なに、祟りもなにもありはしないよ。この水と同じで、鳥も獣も住んでいるのに、人が行って悪いということはない。ただし、この通りの断崖だからね」
と言うと、巳代の顔をじっと見て、
「そして、なにか用なのかい」