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 うつむいて一呼吸(ひといき)ついた巳代(みよ)には、砂埃(すなぼこり)(まみ)れてはいるが優美な帯の間に、まるで蛇が絞め殺そうとしているかのように一筋の縄が結ばれて、重みでだらりと下がっている。

 それに目を留めた麗人(たおやめ)は、その美しい眉を(ひそ)めたが、不意に近づくとかざしていた手ぬぐいを軽く上下に振って(ちり)を払いながら、左右の手で結び目を解いた。

「お前、縛られておいでだったのかい」

「あれ、お手が汚れますわ」

 と、麗人(たおやめ)の手に縄があることに気づいてびっくりした巳代は、膝を()って進み出て受け取ろうとした。

「気にすることはないよ」

 と、麗人(たおやめ)は、両手で手早く綱を丸め、一巻きの塊にして重みのついたそれを、後ろを向いて勢いよく放り投げた。綱ははらはらと解けながら、このあたりにまた静かに流れている谷川の空に翻った。

 その行方を見返りもせず、手ぬぐいの片端を口にくわえて、手のひらをこすりつけて拭くと、

「なぜ、どうしてこんなことをされたの」

 巳代は伏し拝むほどに身をかがめて、

「お嬉しゅう存じます。その縄の端を握って巡査が一人、あそこまで参りましたのでございます」

「おやおや、ここへ。流刑人にでもするつもりだったのかしら」

「そうではないのでございますが……」

 と、ようやく生きた心地を取り戻した巳代は、ここにいるのは姫神様にちがいないと、占いのお(うかが)いを立てるかのように、

「ここは、あの、なんと申しますところでございましょう」

「湯の山といいますよ」

「それでは、湯涌谷(ゆわくだに)と申しますのは」

「それはこの崖の上」

 と麗人(たおやめ)は立ったままで、巳代は下に膝を()いたままで、いっしょに空を見上げた。

 崖の上と、ことばで言えばそれまでだが、天に(そび)え、隔世の感を抱かせるそれを実際に仰ぎ見ると、うっとりとして心も充たされる。その根もとに位置する、この清水が湧く場所の上には、里の夕べに立ちのぼる煙のように、いや、煙に似てしかも寒そうな、地に近いところでは薄く、高く立ちのぼるほど次第に濃くなり、流れるような白雲(しらくも)が、あちらこちらの岩間(いわま)に湧きたち、低いところでは(よど)み、上を行くものはちらちらと青空に入り乱れて、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。

「もし、あそこへは上がれるのでしょうか。道が悪いことは辛抱をいたしましても、参ってはならないところでございまして、御罰(おばち)でも受けましたらどうしましょう。

 先ほど申しました巡査は、あの石の門からなかに入ろうといたしたのです。すると、この雲でございます。それとも温泉がございますなら、その湯気でございましょう。急に霧がかかりましたように、四方の真っ黒な岩山が残らず白くなって、いっぱいに雲がかかったかと思いますと、恐ろしい鉄砲の音が一つ鳴って、私の綱を握っていた手を離すと、後ろに倒れてしまったのでございます。

 私は夢中で駆けだして、石の門のこちら側に参りました。急な流れがございまして、そこから先はこんなに平らな道になりましたので、まあよかったと思いましたが、やるせない気持ちがしてなりませんので、ちょうどここに水がございましたから、飛びつくように飲みたくなったのでございます。

 覚悟はしておりましたけど、先ほどの鉄砲の音は、山のお(たた)りかと存じます。でも、どういたしましても湯涌谷まで参りたいのでございますが、谷といいますからもうこれからは、坂がありましたら下り坂なのでしょうと安心しておりましたのに、峠のことだとは存じませんでした」

 それを聞いた麗人(たおやめ)はうなずいて、

「ここは水の流れる谷。そしてこの上の湯の湧くところもやっぱり谷。峠はさらにその上にあるが、剣村(つるぎむら)(やしろ)のほうから本街道を廻っていくとね、遠回りになるだけで、その峠を越えるのは易しいそうだよ。湯涌谷に行くのが一番難しい。なに、祟りもなにもありはしないよ。この水と(おんな)じで、鳥も獣も住んでいるのに、人が行って悪いということはない。ただし、この通りの断崖だからね」

 と言うと、巳代の顔をじっと見て、

「そして、なにか用なのかい」


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