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泉鏡花『きぬぎぬ川』 現代語訳  作者: らいどん


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「ああ、姉さん、ちょいと」

 一寸(ちょいと)お待ちと涼しい声がかかった。

 石清水の点滴(したたり)をたたえた道ばたの石のくぼみに、我を忘れて(ひざまず)くと、巳代(みよ)はその自然の妙薬を一刻も早く飲もうとして、両手を土に()いたところだった。

「はい」

 と答えたが不安げに左右を見回して、いま聞こえたのは若い女の声だと気がつくと、頭から水を浴びたようにゾッとした。

 いま、ここは、そのようなことばを聞くといった状況にはないのである。

 身を固くして、小さくなって(すく)んでいると、また声をかけてきた。

「それを飲んじゃあいけないよ」

 と言う声とともに、(きぬ)ずれの音がすらすらと聞こえる。回りこんで左側に(たたず)む気配がしたから、巳代は恐る恐る顔を上げて、ひと目見てハッとした。しかしその女は、探し求める令室よりもいくぶん小作りで、歳も二つ、三つ若そうである。しかも顔つきがやや丸いのが若さを感じさせて、目はぱっちりと大きく、(まゆ)はくっきりと、鼻筋は通り、頬はすっきりとして、撫で肩の背後(うしろ)に黒髪をサッと流している。紫の(えり)を深く合わせ、まるで黄昏(たそがれ)に見る藤の花のような単衣(ひとえ)に、同じ色のやや薄い無地の扱帯(しごき)を無造作に(まと)っていたが、その身のこなしに品のよさを感じさせる。

 (ふところ)に差し入れた右手の、雪のような(かいな)の二の腕あたりを惜しげもなく(さら)しつつ、しなやかにかざした左手には、片方の(まゆ)がなかば隠れるまで片頬にかけられた、洗い髪の(つや)が映る、空薫(そらだき)の薫りを込めた真っ白な手ぬぐいが支えられて、岩の襞に砕けて射返す、まばゆい夕陽の光を(さえぎ)っている。

 うつむいて伏し目に見ながら、悠然として立ったその風采(すがた)に、見上げながら令室の面影(おもかげ)(うかが)う身である巳代は、ひたすら神々しさを感じるばかりであった。

 ことばには言い表せぬ威厳を感じて、巳代は思わず手を支いたが、求めれば与えられ、取りすがれば抱き寄せられ、悲しければ慰められ、()びれば許される神々しい存在にも思えたので、

「どうぞごめん遊ばしてくださいまし。取りのぼせておりましたものでございますから、それに悲しくてやりきれない気持ちになっておりましたので、つい、断りもなしに水を頂こうとしました。ご挨拶を忘れましてすみません」

 麗人(たおやめ)はこれを聞くと、片足を後ろに引き、胸をやや反らして、にっこりとすると、

「なにを言うんだい。こんなところにある清水を神様のものだって思ったのかい。鳥や獣でさえ、飲みたければやってきて、勝手に飲みますよ。まるで子どもみたいな、可愛らしい人だねえ」

 そう言っている人自身が、かえって尊いばかりにあどけない。

 巳代はいっそう感じ入って、

「恐れ入ります」

「そうじゃないの。いまこの水でね、私が髪を洗ったから、それだから飲むのはおよしと言ったの。(しか)ったわけではないのだよ」

「えっ、お(ぐし)をお洗い遊ばしたのですか。それなら気にはいたしません。一口いただかせてくださいまし」

「およしなさい。申し訳ないから。それにね、どんどん流れるのならいいんだけれど、こぼれて水が入れ替わっているわけでもないから」

「いいえ」

「あれ、それを飲むと、お前、お腹が大きくなりますよ」

 と、世にも気高く微笑みながら、力なげで、哀れげで、恥ずかしそうな巳代の顔を、あちらこちらからしげしげと見つめて、

「ひどく苦しそうになさってるよ。それにお前、よくこんなところまで来られたことね」

「はい」

「一人で来たのかい」

「いいえ、一人になりましたのでございます。剣村(つるぎむら)と申しますところまでは三人がつきまとって参りましたが、それからは一人だけ……ついこの四、五町先の、恐ろしい大きな岩が門のようになっておりますところまで、離れないでついてきました。私はどうせ最初から、死にましてもいいつもりで参りましたけれども、それでさえあそこから入りますのが恐ろしかったのでございます」

 と、巳代は語りかけて呼吸(いき)をついた。


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