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泉鏡花『きぬぎぬ川』 現代語訳  作者: らいどん


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 巡査はにやにやと気どった笑いを浮かべて、

「どうだね、だれもこんなところに来やしない。大丈夫だよ、おい」

 と、巳代(みよ)の背中をぐいぐいと突く。

 巳代は身をよじらせて、

「知りませんよ」

「ちぇっ。そんなふうに意地を張ってばかりだから、貴様はせっかくの話を台無しにする。そんなに僕を敵役(かたきやく)のように思わんでもいいだろう。好き好んで奥さんの捜索をやってるわけじゃないって、そう言ってるんじゃないか。わからないかな。ええい、巳代さん、もともとお屋敷の御門内に詰めている僕だから、どんな気立ての男だかも知ってるだろうし、普段の振る舞いを見てれば、僕がどんな気持ちなのかもわかってるだろう。しかもお前さんは利口な女だしさ。まあ、二人で気の利いた二階屋でも借りようじゃないか。よっ、おい、黙ってちゃあわからんよ。こら」

 と、いきり立って、威張り散らす。

 巳代はただもう、口惜(くや)しいから、

「いやですよ!」

「うむ、勝手にしろ」

 と、いきなり突き飛ばすと、巳代は脚をふらつかせ、うつむけに転びそうになって、とっさに杖にしていた蝙蝠傘の()を胸に押しつけたが、傘は弓なりに曲がって、白い柄が付け根からポキッと折れた。堪えきれずにそのまま岩へ倒れようとする(からだ)を、巡査は捕り縄の端をぐいっと引いて取り留めた。

 巳代はキッとふり向いて、

「あなた、非道(ひど)い、あんまりだわ」

 と、激しい息の下ではっきりと言う。

「歩け。こうなりゃ追い立てるだけだからな」

 と、巡査はなかば(おど)しつけて、また薄笑いする。

 巳代は、顔の筋が緩んだような相手の顔をじっと見ていたが、やがて気抜けした表情になると、嘆かわしいといった微笑みを浮かべて、

「関さん」

「ええっ」

 と、巡査は意外だという顔をして、しばらく黙っていたが、

「名前で呼んでくれるとは嬉しいじゃないか。近頃珍しい。旦那(だんな)なんて呼ばれると、あなたにそんな呼ばれ方をされたくないと(うら)んでたんだがね」

「そりゃそうですよ、人を罪人扱いなさるからですよ」

「君がそんな態度だから、まったくやむを得ずやってたことだ。それでなにか、関さんなる者に御用があるのかね」

「あの、私は本当のことを申し上げますがね。今のような非道(ひど)いことをなさるような方は、殺されても(いや)でございますけれど」

 ほっと切ない呼吸(いき)をして、

「あの、なんですよ、私もお願いがございます」

「へい」

「いや、なんですがね、それを聞いてくださいますか」

「もちろん」

 と、やや激して答えた。

「ほかでもありません。お願いですから。私はこの先に参りましたら、きっと令室(おくさま)にお目にかかるでしょうと思っているんですよ」

「まあ、そんなところだろうね。それで?」

「私はもうもう、お慕わしくって、ひと目お顔を見ませんうちは、死んでも死にきれませんような気がしますの。それですから、こうやってひどい道を行きますのも、ちっとも苦にはなりませんけれど、もしあちらに着いて奥さまがおいで遊ばしたとしても、もしかしてお屋敷に帰りたくないとおっしゃったら、それが貴方のお役目でしょうけど、どうぞ大目に見てあげてくださいな。そうすりゃ私はなんなりと、あなたのなににでもなりますわ」

 と、偽りなき心の(うち)が瞳を通して透けて見えるかのような、その澄んだ眼をぱっちりと見開いて言った。

 さてその約束を守るかどうかは別として、目の前にいるか弱い美女を、生かすも殺すも俺様次第だという状況にあることを、巡査は即座に解したようで、

「そうなったらそのときさ。とりあえず承知したから、奥さまのことは心配しないでいい。しかしお巳代さん、お前の心がけ次第だからね」

「はい」

湯涌谷(ゆわくだに)までもうちょっとだ。ああ、(つら)いもんだね」

「殿方のくせにそんな弱音を吐いて。私でさえそんなふうじゃないですもの」

 巳代は行く手の崖を仰ぎ見ながら、勇ましげな様子で身を立て直したが、なんとなく都合が悪そうに辺りを見回している。

「おや、気の毒なことをした。なに、それならいくらでも僕が杖の代わりになるよ」

「そんなことよりどうぞ、もしかして蛇が出ましたら助けてくださいまし。私はただそれだけが気になって仕方がないのでございます」

「蛇か、うん。ここいらは蛇がうじゃうじゃいるところだ。しかも媛神社(ひめじんじゃ)女神様(おんながみさま)のお使いだといって、色の真っ白なのがずらりと(つな)がっているそうだ。お前さんの立っているその岩にだって、向こう岸からひと目見たらば、根もとのあたりに列をなしてるんだ」

「ええっ!」

 と、巳代は思わず巡査に身を寄せた。

「おっと、そうこなくっちゃ」

 と巡査はさっそく巳代の手を握り、なおかつ縄の端を離そうとしない。


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