五
五
「差したらよかろう。おい、その蝙蝠傘を広げたらどうだ。それから、もっとどんどん歩かなきゃいかん」
と巡査は岩角を踏んで足踏みをして、
「泣いていちゃあ困るじゃないか。彼らが見ている前だからやったことだ。僕が蹴った傘だからといって、差せないなんてことはなさそうなもんだがな」
追い立てられながら歩く巳代は、前に立ったまま振り向きもしないで、
「私ゃ、私ゃ、どうせ罪人扱いにされるんですから。持ち物なんかをどうなさったって、ちっとも、あの、そんなことを嫌がりはしませんけども、なにも縄をつけなくってもいいじゃありませんか、ねえ」
と口惜しそうに、足もとに支いている蝙蝠傘の象牙の柄に乳の下を押し当てたまま、うつむいて身を震わせている。細い腰にきりりと結んだ黒繻子の帯の艶も、日に当たって赤く見えるほどに日射しが強い。引き添っている巡査の身体の蔭しかない日当たりに腰をかがめた彼女には、二筋の短い捕り縄がかけられて、その端を巡査に握られている。
「だれも見ちゃあおらんから構やせん」
と、巡査は澄まして言って、背後を振り返りながら、額に吹きだした玉のような汗を払った。
いくぶん日が傾いたはるか西のほうに人里は退いていた。剣村を出てからは、二間一尺、三間五尺と歩みを進めてきた。険しい道はしだいに急斜面になり、次から次に現れる岩また岩をよじ登るにしたがって、岩の形状は奇怪なものとなる。か弱い巳代の顔色は蒼く、唇は白く、全身にあびるような汗をかいた、その疲れた姿が、岩の上に高く現れるたびに、家々の戸は隠れ、廂は下がり、屋根は沈んで、やがて村を囲んだ木々の梢も低くなっていく。すでに湯涌谷までの道半ばまでを進んでいた。
道すがら目にする岩々は、あるものは灰色、あるものは赤く、あるいは薄い黄に、また緑に、樺色に、紺青に、ともすれば踵のあとがつくほどに灰を吹きだしたものもある。がばっとギザギザに欠けて、眼を刺すかのような光を放っているものもあった。山崩れで川に落ちた岩々が、これらの色すべてを墨でひと刷けに塗ったようになって沈んでいる。川の流れに飛び飛びに散って、打ちつける水の白い泡が、雪の塊を投げたように見えている。低所に落ちていく水上の水は、飛び越し、くぐり抜け、岩と岩の間を狂奔して、あたかも断崖絶壁から落下する滝を足もとに横たえたようであり、流れが一ヶ所に、凄まじく、冷たく、蒼く沸きたっているさまをみれば、両岸二筋の岩山が砕けて流れているのではないかと思えるほどである。
無残にも腰縄をかけられた巳代は、これが現実のこととはとても思えず、しかも若い女の身であるから、
「人が見ていないといっても、私ゃこんなことをされましては、死ぬより辛うございますもの」
巡査も大きくため息をついて、
「だからよ、ちょっとしたことで死ぬほど辛いなんて言うんじゃない。貴様、死ぬのをなんとも思っていないから、それだから縛ってくっついて行くんじゃないか。人質にされた気にでもなっているのか、今もそうだ、冗談じゃない。貴様、こんなところで力まかせに倒れて尖った岩で胸を突いたり、水のなかへ飛びこんだりされてたまるもんかい」
「だって、あなたが冗談ばかりおっしゃるんですもの」
「冗談じゃないと言うのに、わからない女だな。ええい、ほんとうなんだ。だから言う通りにすればいいじゃないか。
巳代が逃げました、飛んだことをした、ちぇっ! 油断した、とかなんとか言って、すらっとぼけて帰ってさ、僕がそうしたいんだから遠慮することはない。適当なところへお前さんが隠れて、しばらくそうしてりゃあ、後はなんとでもごまかせる。
そうすりゃあお前、奥さんの居所がわかろうが、わかるまいが、僕の知ったこっちゃない。だいたいね、巡査なんかしているけれど、こんな時代になったからやってるだけで、たとえお役目であろうと、多少は収入になろうと、僕にとっては他人の細君を捜しまわるなんて役不足なんだぜ。
それでもお巳代さんという女がいるからこそ、この難行も我慢してやっている。察してくれよ、当事者の執事だの、自分から好き好んでやってきた軍曹だのといったやつらが剣村でへたばって、こんなふうに二人きりになるというのも、最初っから結ばれる運命だったってことだと思うんだがね」




