四
「巳代、貴様、飯を食わんのか」
ここで一息ついた執事は、もはや昼寝をすればいいだけとなると機嫌を直して、ちょっと優しく声をかけた。
「私は結構でございます」
「結構じゃあない、食え。ああ、飯を食わなきゃいかん。このあいだから碌に頂いてないじゃないか。途中でぶっ倒れるとたいへんだ」
「はい、いえ、気が張っておりますから、大丈夫でございますよ」
「お茶漬けにでもして、食えるもんなら食ったらよかろう。話が決まりゃあなんでも早いほうがよい」
と執事がいっているうちに、巡査は操り人形のように差し上げた手に、脱いでおいた上着の袖を通している。それを見た巳代は、すぐに身を起こして片膝を浮かせたが、指先を畳に支いてちょっとためらっていた。
「いいかな」
と執事は顎を突きだして、上目遣いで見ながら念を入れる。
「はい」
と上の空で返事をしながら、巳代は浅葱色の板じめ縮緬に合わせた黒繻子の帯の間から懐紙を取りだして、ほとんど無意識であるかのように膝の上に置くと、身を崩して、座ってため息をついた。
巡査はその肩のあたりに背筋を伸ばして突っ立っていたが、足もとに跪いているかのような巳代の姿を見下ろして、
「便所か」
と言って、戸外の人だかりの向こう側にある筵戸にキッと目を向けると、一番近くにいた、川原の丸石に腰をかがめていた者がいち早く気づき、何食わぬ顔をして、素速く後ずさりする。
「おいおい」
「いいえ、冷水を少し、頂かせてくださいまし」
「ああ、水か」
執事がそれを引き取って高らかに、
「水を持ってこい」
と店の者に声をかけた。
軒に吊した草鞋の向こうで、朽ちた柱につかまって巳代の姿と一行の様子を及び腰で覗いていた若者が、言下に、
「おう」
と言うと、俊敏にその場を離れて、石ころだらけの道へ突っ切って駆けだすと、
「水じゃとい、水じゃとい」
と何度も言いながら、筵戸の前に集っていた八、九人の間に身体を割り入れた。しばらくすると、どこをこっそり回りこんで運んだのか、亭主が庭口から盆にも乗せていない茶飲み茶碗を、濡れて雫が垂れている手で運んでくると、ひょっこりと土間へ出てお辞儀をして、
「ひゃあ。水と言わっしゃってござりやするでござりやすか」
と言うとそっと出し、置いてからもぼんやりと立っている。
「置いて行け」
執事が威張った口調で言う。
「ひゃあ」
「おい、水が来たぜ」
「どうも」
と言ったまま巳代は、二つに開いた懐紙のなかにある女物の薬入れをじっと見つめているのだった。
巡査は上から差し覗いて、
「奥さまから頂いたもののようだね」
巳代はそれに答えず、
「ほんとにどうなさったんでしょうねえ」
巳代は涙ぐんで、独り言のように言いながら、薬入れの小さな錫製の蓋を開けてみた。器は錆びもせずに白く新しくて綺麗なのに、なかに入れた紫雪丹がわずかしか残っていなかった。巳代は丸薬を白歯にかちりと当てて口に含むと目をつぶって、島田髷の根ががっくりとするほどに仰向けになって、その冷水の半ばまでを身に沁むように飲み干すと、扱帯の結び目を押さえながら、帯の間に薬入れを、鳩尾のあたりに手のひらで斜めに押しこめると、身体を脇に寄せて立ち構え、巡査の顔を見上げて待っている。
「いいか」
「それでは執事さん」
「自業自得だ。仕方がないわい」
「危なっかしいもんじゃ。猫に鰹節を持たせて送り出すようなものじゃからの。道々なにをするかわからんが」
と、先ほど薬の薫りをかいだときに、フイッと寝返りをして腹ばいになって、頬杖を突いてじろじろと巳代を見つめていた軍曹が言った。
「君じゃあるまいし。ふふん」
「なんじゃね、気をつけんとね。その騎兵が令室についているとすると、例の鉄砲を持っているかもしれんからね」
と、執事は立ちあがって、真面目に送り出す。
「まったく恐れはしておらんです」
と言いながら、早くも草鞋を足に結んでいた巡査は、しょんぼりと土間に立っている巳代を見ると、次に彼女の蝙蝠傘が立てかけてあるのに目を遣って、
「そら」
といって、草鞋のつま先で引っかけると、ポンと蹴った。