二
「どうだ、考えてもみろ。わしらだって苦労する悪路で、しかも炎天下だ。貴様、とても女の足で歩かれやしないぞ。雪売りの親仁とやら、炭売りの婆とやらに聞いたことがあるから、令室は川上の湯涌谷にお隠れになったなどとばかり吐かすものだからこの騒ぎだ。
さっきも言ったが、迷子の兎がおんぶをして走り去ったとでもいうのならともかく、お雪さまのか弱い身体で、どうしてこの湯の山への山道を、一足だって歩けるものか。……君はどう思います?」
「まったくその通りさ」
と巡査は、立てた膝の上に猪口を置いた。
「ははあ、なんでもいいから、殴って自白させろ」
と軍曹は、すでにトロンとなった目をつぶって、大口を開けて鮎を横ぐわえにした。
「困っちまうな! なにかといえば、殺せだの、死ぬの活きるのと手こずらせてばかりだ。今もこの飯屋のやつらに聞いたけれども、この四、五日は暑さで飛脚も通らないというではないか。
白だの赤だのちょっとでも綺麗な着物なぞ、着ようともさえ思わない、こんな辺鄙な場所だぞ。
川上になるほど流れは急だし、ほかに通る道もないのに、奥さまがあの器量で、あの姿で歩いてみろ。片輪車の妖怪に貴婦人が乗って通ったんじゃないかくらいの噂になろうもんだ。お屋敷に大切なお客があって園遊会が催されていた、その場から行方が知れないのじゃないか。
巳代、貴様だって、どんなに目立つと思う。巡査がいるから恐がっているようで近くには寄ってこないけど、戸外にはワイワイと人だかりができている」
「やっ! 筵で囲った野外便所のようなこの小屋の前に、どしどしと集まりやがったな。おやおや、この家の夫婦に子どもまでいやがる。なにも自分の家を外から覗かなくってもよさそうなものだ。おお、石ころの上に腰かけた者もいます。この炎天下にとは驚いた。のんきなもんです」
と、巡査は苦笑いをしながら、膳の縁を箸でコツコツ叩いた。
「いいかげん、本当のことを言え」
と、執事が声を荒らげる。
「巳代」
「は……い」
「奥さまが湯涌谷にいるなんぞ、嘘っぱちなのだろう、うむ」
と唸って、軍曹も斜めに睨みながら、軍服の肩を怒らせた。
巳代は怖じ気づいて、膝に手を置いたまま、褄の合わせを押さえながら、すくめた身を後ずさりさせながら、
「まったく、あの、私はなにも存じはいたしません。なんでございます、この山のなかへお入りになったと申しますのさえ、不確かに思えるくらいでございます。そして、奥さまがおいで遊ばしたところを申し上げることが、ためにならないと思いましたら、ねえ、皆さん……」
と口惜しそうな顔を上げたが、唇の厚い男と、目の細い男と、ちょび髯の男が三方から瞳をあつめたので、またうつむくと、
「私ゃ、私ゃ、打たれましたって……」
と言いかけて、震える袖口を目に当てた。
「こりゃ自業自得だな」
と、執事は投げやりな口調で言う。
巳代が袂の内側で頭を振ると、下ぶくれな頬が見えた。
「いえ、どんな目に遭いましたって、令室のおために悪いことを、殺されたって言いはしません。御前様や皆さんがお尋ね遊ばすより、私のほうがずっと奥さまが慕わしくって、お顔が見たいのでございますから、いらっしゃいます場所を知っていて、言わないわけがないじゃありませんか。どうぞもう、あれこれとおっしゃるのは勘弁してくださいまし。私ゃほんとにどうすればいいか、途方に暮れておりますのに」
と、声も切れぎれに恨みごとを言う。
「いや、この女の言うことは事実でしょう。大都会とはわけが違う。この市中でのことです。地図を開いてみるよりもこの土地に精通している警察で、僕をはじめ、あれほどにも探したが、どこの物置にも、押し入れにも、ましてや蚊帳のなかになどに、お屋敷の奥様を隠しているとは思えなかった。
それだけじゃない。奥さまが行方不明になったと同時に、お屋敷の裏口近くにある朝六ツ橋の向こう岸にいた、除隊された騎兵が一名と、彼が身につけていた鉄砲が一挺のみ消えてしまったことまで探索が行き届いているのですから。巳代が言う、その山に隠れたというのが間違いではないと思います」




