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泉鏡花『きぬぎぬ川』 現代語訳  作者: らいどん


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「どうだ、考えてもみろ。わしらだって苦労する悪路で、しかも炎天下だ。貴様(きさま)、とても女の足で歩かれやしないぞ。雪売りの親仁(おやじ)とやら、炭売りの(ばあ)とやらに聞いたことがあるから、令室(おくさん)は川上の湯涌谷(ゆわくだに)にお隠れになったなどとばかり()かすものだからこの騒ぎだ。

 さっきも言ったが、迷子の兎がおんぶをして走り去ったとでもいうのならともかく、お雪さまのか弱い身体で、どうしてこの湯の山への山道を、一足だって歩けるものか。……君はどう思います?」

「まったくその通りさ」

 と巡査は、立てた膝の上に猪口(ちょこ)を置いた。

「ははあ、なんでもいいから、殴って自白させろ」

 と軍曹は、すでにトロンとなった目をつぶって、大口を開けて(あゆ)を横ぐわえにした。

「困っちまうな! なにかといえば、殺せだの、死ぬの活きるのと手こずらせてばかりだ。今もこの飯屋のやつらに聞いたけれども、この四、五日は暑さで飛脚も通らないというではないか。

 白だの赤だのちょっとでも綺麗な着物なぞ、着ようともさえ思わない、こんな辺鄙(へんぴ)な場所だぞ。

 川上になるほど流れは急だし、ほかに通る道もないのに、奥さまがあの器量で、あの姿で歩いてみろ。片輪車の妖怪に貴婦人が乗って通ったんじゃないかくらいの(うわさ)になろうもんだ。お屋敷に大切なお客があって園遊会が催されていた、その場から行方が知れないのじゃないか。

 巳代(みよ)、貴様だって、どんなに目立つと思う。巡査がいるから恐がっているようで近くには寄ってこないけど、戸外(おもて)にはワイワイと人だかりができている」

「やっ! (むしろ)で囲った野外便所のようなこの小屋の前に、どしどしと集まりやがったな。おやおや、この家の夫婦に子どもまでいやがる。なにも自分の家を外から覗かなくってもよさそうなものだ。おお、石ころの上に腰かけた者もいます。この炎天下にとは驚いた。のんきなもんです」

 と、巡査は苦笑いをしながら、(ぜん)(ふち)(はし)でコツコツ叩いた。

「いいかげん、本当のことを言え」

 と、執事が声を荒らげる。

「巳代」

「は……い」

「奥さまが湯涌谷にいるなんぞ、嘘っぱちなのだろう、うむ」

 と(うな)って、軍曹も斜めに(にら)みながら、軍服の肩を(いか)らせた。

 巳代は怖じ気づいて、膝に手を置いたまま、(つま)の合わせを押さえながら、すくめた身を後ずさりさせながら、

「まったく、あの、私はなにも存じはいたしません。なんでございます、この山のなかへお入りになったと申しますのさえ、不確かに思えるくらいでございます。そして、奥さまがおいで遊ばしたところを申し上げることが、ためにならないと思いましたら、ねえ、皆さん……」

 と口惜(くや)しそうな顔を上げたが、唇の厚い男と、目の細い男と、ちょび(ひげ)の男が三方から瞳をあつめたので、またうつむくと、

「私ゃ、私ゃ、()たれましたって……」

 と言いかけて、震える袖口(そでぐち)を目に当てた。

「こりゃ自業自得だな」

 と、執事は投げやりな口調で言う。

 巳代が(たもと)の内側で頭を振ると、下ぶくれな頬が見えた。

「いえ、どんな目に()いましたって、令室(おくさま)のおために悪いことを、殺されたって言いはしません。御前様(ごぜんさま)や皆さんがお尋ね遊ばすより、私のほうがずっと奥さまが慕わしくって、お顔が見たいのでございますから、いらっしゃいます場所を知っていて、言わないわけがないじゃありませんか。どうぞもう、あれこれとおっしゃるのは勘弁してくださいまし。私ゃほんとにどうすればいいか、途方に暮れておりますのに」

 と、声も切れぎれに(うら)みごとを言う。

「いや、この女の言うことは事実でしょう。大都会とはわけが違う。この市中でのことです。地図を開いてみるよりもこの土地に精通している警察で、僕をはじめ、あれほどにも探したが、どこの物置にも、押し入れにも、ましてや蚊帳(かや)のなかになどに、お屋敷の奥様を隠しているとは思えなかった。

 それだけじゃない。奥さまが行方不明になったと同時に、お屋敷の裏口近くにある朝六ツ橋(あさむつばし)の向こう岸にいた、除隊された騎兵が一名と、彼が身につけていた鉄砲が一挺(いっちょう)のみ消えてしまったことまで探索が行き届いているのですから。巳代が言う、その山に隠れたというのが間違いではないと思います」


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