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泉鏡花『きぬぎぬ川』 現代語訳  作者: らいどん


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(連作を通してのあとがき)

 晩唐の詩人、李商隠(りしょういん)には、獺祭魚(だっさいぎょ)という渾名(あだな)がつけられていた。獺(カワウソ)には、捕らえた魚をすぐには食べず、祭り奉るように川べりに並べる習性があり、この詩人が、典拠となる書物をずらりと並べて詩作をする姿勢がそれとそっくりだということで、冠せられた渾名らしい。

 そんな李商隱の創作姿勢は、鏡花と似通ったものを感じさせる。少なくとも、ともに奇想を好み、僻典に淫する傾向の作家であったことは間違いない。『女仙前記』は「さて(かわうそ)(やみ)の宵」という煙に巻くような一句で締められるのだが、おおかたの読者にはわかりづらい典拠に寄りかかった、さらりと読むことなどとてもできない難解な言辞の数々に悩まされた読者としては、獺とはあなたのことでしょうと、鏡花に言いたくもなってしまう。

 九世紀のなかばに書かれた李商隱の詩もまた、鏡花作品と同じく発表当時から難解なものであったらしくて、そんな詩が千二百年後の異国の読者にはなかなか理解できるはずもなく、読みあぐねた高橋和巳の注釈書『李商隱』という本をぱらぱらめくっていると、高橋の師でもあった吉川幸次郎の跋文のなかに、こんなことばがあった。


 詩というものが、散文とことなって、散文が対象を規定された形でうつそうとする結果、かえって対象の陰影を切りすて、その意味で不完全な伝達となるに対して、詩は対象の周辺あるいは陰影を歌うことによって、つまり無規定な暗示によって、対象をかえって完全にとらえようとする……


 鏡花の創作姿勢もまた、「対象の周辺あるいは陰影を歌うこと」を追求するものであって、その詩情は生粋の詩人のそれよりも、職人的な工芸の技を感じさせる。そうした一種の人工美を、叙述の端々から作品全体の構造に至るまで行き渡せることを、つねに目指そうとする。文章においては、核心的な描写を避けるための間接的な語彙が選ばれ、因果関係を明示する言辞は刈り取られてしまう。ネット上で閲覧したいくつかの原稿調査を含んだ論文からも、常識的な意識をもってすれば当然書かれるべき描写が、推敲の段階で大幅に削除されていた様子がうかがえる。また、作品の構成においては、この『女仙前記』『きぬぎぬ川』の連作は「対象の周辺あるいは陰影を歌うこと」の最たる例の一つで、冒頭に掲げた登場人物一覧の [回想・談話内の人物] を見てもわかるように、主要な人物の過半が表舞台に登場せず、主に周辺の人物とのかかわりを描くことで、語るべき別の物語があることを暗示する朦朧とした枠物語の形式を採る。



 とはいっても、隠された語るべき物語を読み解くことは、この連作においてそれほど困難なことではない。バックストーリーが巧妙に隠蔽されたいくつかの作品とは違って、注意深く読めば腑に落ちる物語の手がかりが、大きな矛盾を感じさせることなく、篇中のそこかしこに散りばめられている。なおかつ、人によって異なるストーリーを読み取る余地は、ほとんど残されていない。

 それならばと。ちょうどネット上で読めるものとして、小柳滋子「救抜される女たちの物語 泉鏡花『女仙前記』『きぬぎぬ川』から『星の歌舞伎』へ」という論文があって、その前半に本連作のテキストから読み解ける、暗示された物語の概要が明快に記されている。同じテキストを読んだ一読者として、この論文からストーリー構造の読み解きにかかわる部分だけを勝手に抽出し、自己流に簡略化する狼藉を働かせていただくと、以下のようになる。



**************************


* 嬢様お雪(雪売りの親仁の養女)、麗人(巳代が出会った湯の山のたおやめ)、令室(行方不明になったお屋敷の奥様)という、容姿がそっくりな三人の女がいる。

* そのほかにも、消息不明になった騎兵の恋人、お屋敷に逗留中の軍人が探している侯爵の姫、という、二方向から語られる女がいる。

* 騎兵の恋人と侯爵の姫、そして嬢様お雪は、おそらく同一人物のようだ(『きぬ』十三節末尾参照)。

          ↓

* 雪売りの親仁は、嬢様お雪が亡くなって一周期を過ぎたと言った(『女仙』六節参照)。

* 騎兵の恋人である侯爵の姫が姿を消してから十年が経ったという(『きぬ』十四節冒頭参照)。

          ↓

* 親仁が言う嬢様お雪の死とは現実の死ではなくて、侯爵の娘が麗人に昇華した、ということではないか。

* つまり、物語の表面で語られる、お屋敷の令室失踪事件の背後には、騎兵の恋人(=侯爵の姫)が、その十年後に女仙人(=湯の山の麗人(たおやめ))に昇華した、という「(プレ)物語」が隠されている。

* 侯爵の姫は親仁と出会ったとき、すでに兎を抱いていたのだから(『女仙』九節冒頭参照)、「(プレ)物語」に先行する、さらなる「(プレ)物語」の存在も暗示されている。

* 令室もまた、「(プレ)物語」で語られてきた女たちの血脈に同化していくのだろう。

          ↓

* 令室に騎兵という恋人が与えられたのは、自己のカタルシスを果たそうとした麗人が、俗界から仙界へと超越するためのエネルギーを令室に付与するためだった。

* 軍曹の眉間を櫛で刺したのは、遊女の霊の姿を借りた麗人であり、軍曹を懲らしめることで、自己のカタルシスを完璧たらしめた。

* 巳代が仙界の人になれなかったのは、悲恋のネガティブ・エネルギーが不足していたからである

          ↓

* 湯涌谷の救済システムには、この地で歿した遊廓の女たちの悲劇も取りこまれているのかもしれない。

* この救済システムが紡ぐ物語は、最後の一文によって民俗学的な考察の対象とされ、さらに湯の山が若い恋人たちの信仰の対象となったことが語られる。民間伝承としての外枠が与えられ、遠景化がなされることをもって、この物語は締めくくられる。


**************************



 こうして物語の構造に注目すれば、本連作は、主に恋愛がらみの事情によって、当時の父権主義的な社会構造からはじき出された悲劇的な男女を救済するシステムの存在を背景に置いた幻想譚であって、鏡花によってくり返し書かれた、同様の構想を持った作品の水脈に属することが鮮明になる。

 たとえば『眉かくしの霊』(大正十三年)もまた、封建的因習の修復装置として働き続けてきた桔梗の池の女という救済システムの物語であって、『女仙前記』『きぬぎぬ川』と同じように隠された物語が透かし模様のように組み込まれているのだが、『眉かくしの霊』にかぎっては『彩色人情本』(大正十年・未完)という、隠された物語が前もって実際に書かれていた、という特殊な事情があった。

『女仙前記』『きぬぎぬ川』の場合、隠された物語は鏡花の頭のなか、あるいは破棄された草稿のなかだけにあったと思われる。ただし令室が湯涌谷にいることを「雪売の親仁とやら、炭売の(ばば)とやらに、聞いたことがある」(『きぬ』二節冒頭)と巳代が言ったのだという執事のことばに注目して、この連作の背後に隠された物語は、テキストから読みとれる以上の規模を持っていたのではないかと想像するのも面白いかもしれない。

 この部分でしか言及されることのない「炭売の婆」というのは、季節が夏であることを考えると、「雪売りの爺」の対句として、執事が口調子を合わせたことばなのだろう。けれども、どことなく、不幸な恋人たちを救済する雪売りの爺のような使者が、季節に応じて複数存在する可能性を匂わせる言葉でもある。隅々まで綿密に組み立てられた叙述の精度から考えると、鏡花は「炭売の婆」ということばに、ことば遊び以上の含みを持たせたような気がしなくもないのだし、さらには破棄された設定の名残だという可能性も考えられなくはない。

『女仙前記』『きぬぎぬ川』の救済システムは、テキストの表皮からは十年に一度程度の線的な機能しか果たしていないように思われるのだが、もしかすると面的で多発的な広がりにおいても活発な働きを持続してきた結果、「(女仙の)友だちはたくさんいる」(十三節)という状況をもたらしているのかもしれない。



 このような、隠された物語を読み解けることが、すなわち『女仙前記』『きぬぎぬ川』の魅力である、というわけではけっしてない。

 女仙、あるいは女仙候補たる令室の艶めかしい風情、なによりも女主人のことを思い遣る巳代の一途でけなげな姿、活き活きとした動物たち、ことに兎の可愛らしさ、神山、仙境の真に迫った景観、憎々しい小悪党たちに懲罰が下される痛快さ、あるいはクライマックスにたたみかける、(どこでもドアかよ、とでも突っこみたくなる)巌の扉による瞬間移動や、廃屋になった遊廓での意表を突く怪異といった奇想の数々と、細部の読みどころはあふれんばかりに、再読、再々読しなければ玩味しきれない密度で詰めこまれているのだが、それらすべてをひとからげにする魅力を挙げるとすれば、伝説の生成現場に臨場するリアル感、とでもいうべきものであると思う。

 過去と未来にわたって連続する「物語」の暗示は、最終的に民間伝承らしく遠景化されるのだが、通常であれば素朴な語り手、あるいは民俗学者の記述などを通して接する伝承、民話、説話といった、まるで現実感を伴わない昔々の物語が、いままさに生成している現場に、読者はこの連作の表面に現れた叙述を通して直面することになる。活きた実感を持った登場人物たちが、のちに伝承の一部に取りいれられるであろうリアルなドラマの只中にいる姿を目撃するかのような不思議な興奮は、まるで小宇宙をなすかのように作り込まれたこの連作だからこそ、味わえるものである。

 そのことの裏を返せば、不思議な仙女と兎と魚が織りなすメルヘンチックな物語であるにもかかわらず、大半の場面が写実に徹した描写で埋めつくされているということでもあって、通常の幻想文学では――鏡花ならではの魔術的な文体によるものでもなければ――なかなか成立しそうもない幻想と写実の統合が、この連作のユニークな特徴となっている。

 たとえば、足の爪先から血を流した巳代と、下劣な下心を抱いた巡査が湯涌谷を目指して嶮岨な山道を攀じ登る道中の生世話(きぜわ)ふうな会話や、ヴェリズモ・オペラの劇伴でも流れていそうな劇的な描写などは、メルヘンとは対極にある、ヒリヒリとした写実味をともなっている。歌舞伎やオペラよりも、荒涼とした岩場の背景もあいまって、セルジオ・コルブッチやルチオ・フルチが監督したマカロニ・ウェスタンの一場面のような残酷趣味を連想するほうがふさわしい気さえする。

 延々と続いていく、登場人物たちと等しく読者の体力を削るような、きわめて意味の解しにくい記述を読んでいると、作者の嗜虐性は巳代にだけではなく、読者に向けても発揮されているのではないかと思えてくるのは、被害妄想が過ぎるというものか。とくに『きぬぎぬ川』の七節を埋めつくした山岳の描写は、二読、三読もすれば大まかな意味を取り違えるほどでもないのだが、大意をかすかに匂わせるギリギリのところまで削られた文章の一字一句の意味を拾って読み解くとなると、かなりの難行苦行を負わされることになる。

 そうした精読の成果として見えてくるのは、朦朧とした印象の叙述に反して、地形、自然、事物、生物が、まるで記録文のように詳細に記された神山(しんざん)、仙界の描写であって、ファンタジーにふさわしい、ふわりとした説話的な文体とは様子を異にしている。

 また、そのなかで描かれる事物にしても、空想というよりは博物学的で、たとえば「俗に青鬼と名づけて恐」れられている(『きぬ』七節)という蛇紋岩(じゃもんがん)は、名前からして神山の恐ろしさを演出するのにふさわしい鉱物で、実際に写真を見ても邪悪な外見を備えている。さらには、今でいうアスベストの原料でもあって、百年以上も前の時代では健康被害が大きく取りあげられることもなかっただろうことを考えると、予言的な意味も含めた不吉な小道具となっている。

 さらに、湯の山の麗人が釣り上げる「腹は()のごとく(くれない)に、背は濃き緑に、その紅を交えて、細き縞あり、(おとがい)また(あか)く」(『きぬ』十三節)という(あゆ)に似た魚は、一読すると空想の産物にしか思えないのだが、この特徴に合った魚を探せば、オイカワ(追河)というコイ科の淡水魚ではないかと容易に突きとめることができる。

 https://zukan.com/fish/internal7117

 オイカワは朝鮮や台湾からの外来種で、ちょうど百年ほど前から日本の河川の一部にも棲むようになり、現在では全国に分布しているのだそうだ(それどころかいまでは「あつ森」でも捕獲できる、ゲーマー界隈でのそこそこの有名魚でもある)。鏡花がどこで、当時はさぞ珍しかったのだろうオイカワのことを知ったのかはわからないが、そんな魚を仙魚に見立てるという、夢幻的で、かつ写実的で、ある意味未来予測的でもあるという特徴は、まさに奇縁といえるほどにこの連作のありさまに合致している。



 ……ただし、オイカワという魚は成魚でも体長15cmほどだというから、作中で描かれる「尺にやや足りぬ(30cm弱)」(『きぬ』十三節)という大きさに育つことはありそうにない。

 鏡花作品ではどうやら、実際よりも誇張されたサイズ感が幻想的なムードを演出するために多用される傾向があって、『神鑿』(畳三畳ほどの大きさに拡張された盤の石)、『星女郎』(蚊帳の上に届くまで背丈が(そび)えて見える貴婦人)、『黒髪』(電信柱を越え、地図を塗り潰すほどに巨大化する女)、『沼夫人』(芭蕉の木ほどに巨大化したシュールな水芭蕉)などなど、枚挙にいとまがない。いったいこの、巨大物恐怖症(メガロフォビア)めいた感性は、どんな理由で、どこから発生したのか。

 もう一つ、気になるのは、『きぬぎぬ川』では、

・「此の色すべて墨を以て一刷はいたように沈んだのが」(五節)

・「灰なると墨なると、水に宿って(さかしま)(なり)」(七節)

・「水中に……藤紫の(きぬ)()せ、扱帯(しごき)の色も消えがてに」(十二節)

 と、水が彩色を奪ってしまう描写がくり返されることで、いずれも夏の日盛りのなかであることを思えば、とても自然観察の結果だとは思えない(水底が暗色の岩だということを言いたいのだとしても、たとえばアスファルトの水たまりに映る晴れた空は、無彩色に見えたりはしない)。それが意図的なものだとして、なんらかの典拠を持つような類の感性なのか、この作品内の、たとえば仙界と俗界の境目を意識させるような仕掛けに属するのか、それとも鏡花作品全般に通底する、水に付随するイメージなのか……。

 たいていはそうであるように、鏡花作品の読書では、謎は謎として残ってしまう。それでも、ふとした日常の経験や、だれかのことばや、あるいは他の作品を読むことによって、なんとなく記憶の端に留めておいた謎が意識の前景に躍りでて、みるみる氷解していく――そんな劇的な内的興奮をしばしば味わえることも、鏡花を読み続ける楽しみの一つである。


(了)


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