十五
十五
「いいえ、お通り遊ばしたのをお咎め申したのではないのでございます。殿方の身でお洗いものとはお気の毒な。ちょっと私がすすいであげましょうと、まるで相手に断る理由がないかのように、真心からのことばでそう言うと、すぐに煙管を置いて、兎を膝から下ろしたもんだから、男にとっては想いも寄らないことで、ただうろたえていました。
なにもご遠慮なさいますにはおよびません。お怒りなさいましては悪うございますけれど、水いじりをしてみたいと存じますから、よろしければお貸しになってと、そうまで言われては断りきれずにおずおずと渡してきたものを手に取って段を下りると、お雪さんにとっては、まあ、お生まれなさってからはじめてのお洗濯。
そのとき、桶のなかからさっきのお魚がパッと水に飛んだ。鱗がきらきらと光ったのに驚いた拍子に、浴衣が一枚、手にも留まらないで流されてしまったの。あんな薄汚れた浴衣一枚、金ならばあるのだから絽や紗のものに代えてやろうなどと想うような人ではない。
あれ、どうしましょう、粗相をしてしまいましたと、跣足のまま駆け上がって、川沿いに川下のほうへ浴衣を追いかけておいでだから、どきどきしながら立っていた男も飛びだして付いていき、橋のたもとから五、六町ほど走って行く。流れは速いし、暗くてよくは見えないし、とても取り戻せはしないとあきらめて、お雪も男も石のように立ちつくしている。
ちょうどそんなことがあったわずかな間に、お前の屋敷の髯だらけの旦那が、ほうぼう探し歩いたと見えて、酔ってはいるしよろよろとしながら裏口から出てきたのだが、お雪さんが腰をかけていた芍薬の台と煙草盆、見覚えのある煙管があるばかり。カッとなってそのへんにいるかもしれないお雪さんを威そうとでも思ったのか、上に乗せた煙草盆もろともその台を石垣の下へ蹴落とした。そうして暴れた足つきで庭に戻ると、めったにないほど頑丈な銅張りのあの扉を、天に響けとばかりにドンと、いきなり凄い音をさせて閉めた。
姉さん、わかったかい。そのあとへ引き返した二人は、どうしたとお思いだい。もう死のうと思っていたお雪さんに、草むらに潜んで待っていた兎が袖に飛びすがって、どんなことを教えただろう。
今日の昼頃に休んでいた剣村の茶店からこちらには、軍曹は来ることができなかったことを覚えていますか。騎兵が一人と、その鉄砲が一挺、お雪さんといっしょに消えてしまったことを知っていては、とてもこのあたりには寄りつくことができない。お前は千枚岩の入り口で、その鉄砲の音を聞いたよねえ。
二人は無事でおいでだから、ちっとも心配しないでよい。これから里に帰るというのなら、大変な思いをさせてしまうから、お前の身体に負担がかからないようにしてあげましょう。それとも、もう帰らないで、ここに私たちといる気なら、お雪さんに会わせた上で、温泉に入ったり、釣をしたり、月夜には剣村まで岩の上を歩いたり、獣を撃ったり、鳥を獲ったり、皆でいろいろなことをして遊びましょう。
どうするの。
私はこんなふうにのんきだけど、お雪さんはいまだに現実のことが胸にあって未練が残るといけないから、お前が帰るつもりなら会わせない。ここにいるつもりならお世話をしてあげておくれ。どうするの、姉さん」
と、優しいながらもキッとした調子を含んで、言うことばはみな掟のように動かしがたく感じられるので、巳代はあれやこれやの思いが交錯して、口ごもっている。
一途に思い詰めては来たけれど、里に帰りたくないとは決して思っていなかった。先刻は感情が高ぶって、死に急ぐことも顧みなかったが、彼女には親も姉妹もあって、なおかつ、他人の恋心を思い遣るだけではなく、彼女自身にも意中の人がいた。
かといって、親よりも、兄弟よりも、意中の人よりもいっそう慕わしく心惹かれる令室に、ひと目だけでもお会いしたい。その気持ちも捨てがたいものであった。
どちらかに心を決めかねて、ただうつむいて胸をどきどきさせているだけで、焦りを感じていたそのとき……。
老いた鶯が、ホーホケキョ、ホーホケキョと二声、優しい鳴き声をこの仙境に響かせたのを聞いた。
その鶯が鳴く人里が恋しくて、いま、この身は家路を数千里離れているように感じることを思えば、わけもなく涙が湧きだして、嗚咽のあまりものが言えなくなった。
巳代の思いは里に傾いていると、星を宿す目に認めた麗人はうなずくと、
「ああ、よしよし。心配せずにお帰り」
と、そう言う声が怒りを帯びて聞こえたが、
「もう来ちゃいけないよ」
と、やや様子に変化を見せながら、その幻影はひときわ妖艶に、気高く、尊く、頭上に星をきらめかせながらサッと立ち上がった。裳裾の内には夜の色を包み、大池に背を向け、釣り竿の先を振りかざして、湯涌谷の下に切り立った、ほのかな暗色でこの仙境の天地を蔽う大巌の板をコツコツと叩いて、
「爺や、爺や、爺や」
と、三度唱えた。
「おう」
と、地の底に響く声がする。巌が横方向にサッと開くと、雪売りの親仁がのしのしと現れて、麗人の足もとにうつむき伏していた巳代の腰の帯を結んだあたりをいきなり抱えると、いきなりズボッと巌のなかに消えた。
巳代は抱かれたと思うと同時に、地面の上にそっと置かれたが、目を開くと、後朝川の岸辺、仕えていた屋敷の土塀のすぐ傍、あの夫婦松の根方にいた。女仙の前にひかえて、骨が宝玉に、肌は氷に化したのかと我ながら思っていた、一瞬前までの自分とは違って、身体にはだるさを感じ、顔が熱く、耳がほてり、手足はぐっしょりと汗ばんで、着物は破れ、袖は裂け、帯に泥がつき、裳裾が乱れ、身につけていた紅の襦袢もだらしなく乱れたひどいありさまで倒れている。むきだしになった膝を見て、恥ずかしく思いながら茫然としていた。
背後から、しびれるほど強く背筋のあたりをピシャリと打って、
「畜生め、どこへ行っていたんだい」
と言ったのは、意地の悪い年かさの女中であった。
これより前、自然の冷気にあたって呼吸を吹き返して、千枚岩から剣村に引き返した巡査は、土間に倒れこんで、虫の息になっていた。
やがて語ったことが大げさだった。あの岩の向こう側にはどれほどの人数が立て籠もっているのやら、辺りを蔽った雲のなかからいったい何挺あったのかわからないくらいの鉄砲が連射されて、人質同然の巳代さえも奪い取られてしまったと。
これを聞いて執事と軍曹は恐れをなした。両名は巡査を助けながら引き返し、朝六ツ橋の傍の屋敷の広庭にかしこまって、主人と客人に事の次第を報告すると、それ反撃せよ、出陣だと、八方に分散していた兵隊をひとまとめにして四、五十人ほどを集め、道すがら人夫を徴兵せよと言いながらひしめきあい、裏手の門から渦を巻いて出陣した。ちょうど日が暮れて間もないころだった。
そこへ例の年かさの女中が、抜け殻のようになって艶めかしいばかりの巳代をずるずると引きずってきて、こいつが土塀下に建ち腐れている遊女屋の門から出て、夫婦松の根方に倒れていた、灯台もと暗しだ、と息巻いたのである。
ならば令室はその古屋に隠れているのだと、使命を果たせなかった軍曹が先陣を切り、そうと聞いては巡査も立ち直り、執事もつれだった七、八人が、どやどやと女郎屋の門の戸を内側に押し倒した。
釘を踏むな! と喚起しつつ、朽ちた床、縁、敷居を土足のまま踏みつけて、古畳に煙を立てながら、戸や障子をめちゃめちゃにして、部屋ごとに二、三人ずつ分かれながら立ち入った。あらかたの部屋を荒らしつくして、ますます暗いなかを一直線に踏みこむと、不思議なことに一枚の開き戸と柱との合わせ目に、一挺の新しい鉄砲が立てかけられていた。
多勢を力に、手に手に提灯をかかげて明かりを集めると、この部屋だけは左に四枚、右に四枚と襖が揃っており、畳の目もまったく摺り剥げていない。襖には墨絵の山水画が、雨漏りで染みてはいるものの、だれが描いたものとも知れぬまま墨跡が認められるほどに残っていたのを、巡査はじっと見ていたが、やがて身震いをして後ずさりした。
千枚岩の実景を描いたものであった。
そんなことは知らない軍曹は、身を引きながら及び腰になってそっと鉄砲を手に取ったが、撃つ者もいない飛び道具からは、当然ながら音もせず、煙も出ない。恐れるに足らぬと気を強くして、この夜の我が軍の一番乗りは俺だと、押し入れの襖をずずっと開く。なにかの上に載っていたらしいものがするすると滑ってほどけたのを見ると、一本の艶めかしい扱帯だった。その下にあったのは、鴛鴦の羽を重ねたように美しく積まれた一重の絹の夜具である。蛮勇を奮って引きずり出そうと、掻巻の袖口から手を突っこんでみると、人肌の暖かさがあり、ふっくらとした手ごたえがあった。
こいつは驚いたとわめきたて、つかみ上げてみるとなにもない。しかも風にあたるとはらはらと千切れて、ずたずたに裂けてパッと散った。
一同はゴクリと唾を呑んだ。押し入れのなかにあるのは、突き当たりの真っ黒な壁ばかりである。
軍曹は頭からすっぽりとなかへ入ると、大の字に手足を広げ、地蜘蛛のようなかたちになって天井を押し上げて、羽目板を剥がした。その裂け目に顔を押し当ててなかを覗いたところ、とたんにギャッと叫んであおむけに倒れ、額を両手で押さえた。指の間からは、たらたらと鮮血が流れている。これで一同は引き返すことになった。
古釘などが突き出たもので、暗闇にまぎれて怪我をしたのだとだれもが言った。けれども軍曹はといえば、覗き見た天井にはえもいえぬ美しい女がいて、黒髪を前に垂らし、束ね髪の根を握りながら解かしていたのを、ひと目見るやいなや、気高い顔で睨みつけると、手にしていた梳櫛の先で突いてきたのだとうわごとを言い続け、長らく人事不省に陥った。その後、巡査も帰らぬ人となった。
三年後、巳代は遊女になり、緑の襠、紅の襦袢を身に纏うことになった。そうして朝も夕も湯の山の空をぼんやりとながめながら、欄干にもたれ、簾を巻いて、雪売りの親仁の姿をむなしく待ち続けている。
八十あまり歳を重ねたこの土地の博士は、話を聞いてこう評したという。湯涌谷には女仙多し。ただし白い兎を放つ女仙と、美しき魚を弄ぶ女仙は、その本体を一つとみていいものか不明である、と。若い男女は、緑に朱の襞が入った水上の山のさまを、そして大空の白い雲のたたずまいさえも、むだに見逃すことはない。
(了)




