十三
十三
「なにを言うのだね。私のほうこそこんな悪ふざけをして恥ずかしい。笑ったりしちゃ嫌だよ」
と言ったとき、空に一筋の線が描かれた。池に放った重りが水音を立てる。
「ちょっと、綺麗な魚が捕れるからごらんなさい。のんきなものだろう。夏はこんなに涼しいし、秋から冬になると温泉が暖かいし。友だちはたくさんいても、うるさい人は一人もいない。本当に気がせいせいするよ」
「おうらやましゅうございます」
麗人は機嫌よく、
「うらやましいかい。そういえば、いまからあの話をするのだった!」
と言ったとたんに棹がしなって、水面にサッと伸ばした細い腕は、前のめりになった細い腰が耐えられるかと思うほど、水に引き込まれそうなほどに強く張った。水面では糸の先が左右にすらすらと波を描いていたが、みるみるうちに波は大きくなって、暗い水中に波紋がのみこまれていくと同時に、水を離れてずっしりとひと跳ねすると、暴れることもなく風を切って、早くも麗人の白い手のひらに乗ったのは、一尺足らずもの大物である! その形は鮎に似て、全身が滑らかな鱗に包まれ、腹は丹のように紅く、背は濃い緑で、その紅色を交えた細い縞があり、頤もまた朱い、見たこともない一尾の魚だった。
したたり続ける雫を岩に落としながら、緑に、紅に染めるのではないかと疑うほどの艶やかさを見せて、その魚が宙に翻ったとき、巳代は翡翠が飛んだのかと思ったほどだった。
「まあ、なんという美しい」
と、籠に入れられた魚を、我を忘れて覗きこむ。麗人もまた、いっしょに見つめながら、
「綺麗ね」
「これは召し上がりますのでございますか」
「ああ、いいえ。爺やにやるの。爺やが市に持っていって、兎ではなくて、またこれを欲しがる女に売るの」
「ええっ!」
「そうすると、その女はやっぱりここに来て、お友だちになりますのよ。たくさん捕れるから捕れすぎてしまったら、あとで姉さんにもあげましょうか。そしてね、お前のご主人の、あの、お雪さんはね……」
麗人はふたたび針を下ろしたが、行儀など気にもしないといったふうに片足を水面の上に投げだして、折り敷いたもう片方の足の膝の上に釣り竿の端を据えて、片手を背後に支くと、右手を上げて身振りを交えながらこう言った。
「こうやって、煙草をのみながら、お前が置いたという芍薬の台に腰をかけてね、兎を抱いているうちに、そんな場所でさえ居心地がいいと思えるほどお屋敷が煩わしくなって、それにつれて後朝川の水上にあるこの湯の山の奥に、なんとなく行ってみたいと思うようになったそうだよ。
そこへ通りかかったのが、橋向こうに家を借りている一人の騎兵で、その人はつい去年の夏、この近道を通って、故郷であるこの地に帰ってきたんだって、爺やが話したっけ。
まあ、お聞きなさい。
その人は、あの六百里離れた都の兵営にいた射撃の名手だったそうだよ。あるとき上官が部下たちを集めて、貴様たちは戦争に出て死ぬことができるかと、尋ねたことがあったそうな。
ことばで答えるよりも、態度で示したい。ただ戦のないのが残念でございますと皆は答えたのに、その騎兵の言ったことが悪かった」
しばらく口を結んでいた麗人は、やがて静かな声で、
「私は凶器を使わないことを望みます。なぜならば、私が大切に思いますある女性が、平和を望んでおりますから。しかしその恋しい婦人のためになるならば、楯になって命を捧げます……」
そう言って麗人は、膝の上で両手をしっかりと組みあわせた。細い指の先をそれぞれに動かしながら大空の星を仰いでいたが、顔色を青ざめさせると、
「そう言い終わらないうちに、その騎兵の身体は地面に倒されて、三人の三つの靴で踏みつけにされたようだよ。さあそれからは、軍隊への見せしめにするのだといって、わざと落ち度をこしらえたり、濡れ衣を着せられたり。いじめが激しいときは、逆さまに吊して殴ったそうな。牢に入れられたことが、十数回」
凄みを感じさせるほどにきらきらと、麗人の瞳に星が映るかと見えたのは、天の道理に訴える涙であった。
「そのことを漏れ聞いた騎兵の思い女は、過去世 、現世、来世の三世にかけて、一度しか結ばれないような人との幸せを棄てて、いつまでもいつまでも、行方の知れない身となったんだって。
そうかと思えば世間には未練たらしい人もいて、その行方を捜し出そうと、心あたりを尋ね歩いているという噂があるよ。お前の屋敷の客というのも、そんな人かもしれないよ」
と、冷ややかに一笑した。
巳代には思いあたることがあった。その客というのは、当市出身の軍人で、都の名高い侯爵の姫と結婚しようとして、ついにそれを果たせなかった人物だと聞いたから。




