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泉鏡花『きぬぎぬ川』 現代語訳  作者: らいどん


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十二

十二


「ああ、そうやって」

 命じられるままに、巳代(みよ)麗人(たおやめ)に背中を向けると、水に手を浸した。石清水(いわしみず)はひやりとして氷よりも冷たく、血が凍るようなので、思わず肩をすくめて手を引きかけた。

「じっと(こら)えておいでなさい」

 と制止されたので、歯を食いしばって耐えていると、そのうちに冷たさに()れて、ひやひやと心が(さわ)やかになる。そればかりか、二重(ふたえ)(きぬ)が隔てるだけだというほどの背中の近くに(たたず)む人の美しく尊い気配が、肌を透過(とお)り、骨に染みていく。

 動かない水面を巳代が恍惚(こうこつ)として見つめていると、背後に覆いかぶさった人の姿は、肩越しに澄みきった水底(みなそこ)に深く映って、ここで洗ったのだという黒髪が、そのすっきりとした頬に(こま)やかな蔭を落として垂れている。見ているうちに水中にあるその人影の顔色がやや蒼く感じられ、夜の気配が迫り来るようで、藤紫の(きぬ)は色あせ、扱帯(しごき)の色も消えかかって、その姿が淡く薄くなったかと思うと、合わせた(そで)から見えていた真っ白な手ぬぐいは、なんたることか、見覚えのある兎の姿になった。

「あれっ」

 と、巳代はとっさに身を起こして突っ立った。振り返ると、元のとおり、若く、小作りで、活き活きとした麗人(たおやめ)がそこにいるばかりだった。

「もういいから、こちらへ」

 と、麗人(たおやめ)は歩きはじめたが、その足にはつま先に覆いのある草鞋(わらじ)が目立っている。あたかも春の雪がこぼれるような美しい(ひと)の歩みには似つかわしくもない、大きな草鞋である。

 そよぐ風に褄先(つまさき)を揺らすようにして先に立って、およそ十町ほどの距離を、湯涌谷の絶壁に袖を()りながら細道を進んでいくのは、まるで開いた扇の端にある親骨(おやぼね)の一つに沿って進むようなもので、横に岩一つ、岩二つ、四つを隔てて、五つを隔てて、先にたとえた親骨の反対側にあるもう一本が遠のいていくように、末広がりに一歩、また一歩と進んでいくにつれて、谷川の流れはしだいに離れていった。清風(せいふう)が顔に吹きつけたかと思うと、対岸には早くも一番星が輝き、夕方の(きり)が弓なりにかかって、周囲一里をぼんやりと(かす)ませたさまを眺めるうちに、白銀(しろがね)の池の(みぎわ)に着いた。

 巳代はひと目見て、ここは(まち)から百里離れた場所だと感じた。

「お前、寒くはないかい」

 と、歩きだしてからはじめてふり向いた麗人(たおやめ)が言った。あらためて見ても、目のふちをほんのりと色づかせていたから、やはり生きている人間なのだろう。

「涼しすぎますほどでございます」

「ほら、ごらん。この松林の奥のほうにはちらちらと雪があるよ」

 と、活発な身のこなしでひらりと身を移して、扱帯(しごき)の間に手拭いを差しこんだ。巳代は剣村(つるぎむら)を出てからはじめて松を目にしたのだが、生い茂る松原の、とある松の二股の枝に細い釣り竿がそっと立てかけられている。麗人(たおやめ)がその釣り竿の真ん中を手に取ると、たったそれほどの響きにも、(つゆ)がはらはらと散る。根もとに置いてあった(かご)をもう一方の手で取りあげると、細かい編み目からも松葉がぱらぱらと落ちる。

「露がひどいから、そっと枝の下を潜って、こっちへ、こっちへ」

 と言いながら、平らな大岩の上をずんずんと歩いて行く。

 巳代は傷ついた足の痛みも感じることなく、気持ちも清々(すがすが)しく、身も軽い。

「はいはい」

 とついていくと、のどかに水をたたえた池の(みぎわ)のあたりに、小さな円座(えんざ)のような(むしろ)が敷かれている。麗人(たおやめ)草鞋(わらじ)を脱いでその上に立つと、腰を下ろして無造作に立て膝をして、手拭いを下に投げて、

「さあ、そこへお座りなさい。いいから、いいから」

 と言って、辞退する巳代にぱっちりとした目を向けながら、なおも勧めている。

 巳代は、折り返した前身頃の(つま)の先を手拭いに乗せるようにひざまずくと、両手を下げてかしこまった。

 麗人(たおやめ)は、座ったまま(さお)を上に向け、巻きつけた糸をほどいて重りを離すと、棹はしなやかにしなう。その先端を(あお)ぎ見ながら、

「気分が悪かったりはしないかい」

勿体(もったい)ないことをおっしゃります。悪いどころですか、私は生まれまして以来、こんなに身体が軽く感じられたことはございません。お(そば)近くにおりまして、ただ、恐れ多く存じます」


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