表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泉鏡花『きぬぎぬ川』 現代語訳  作者: らいどん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/16

十一

十一


「いいえ、それでも奥さまは、なんとも思いはなさいません。旦那さまとは比べものになりませんほどお人柄が(まさ)っておいでですから、いじめ殺すようなことを言って乱暴をされましても、まるで摩耶夫人(まやぶにん)様の掛軸(かけじく)の前で、酔っ払いがふんぞりかえって、あの(ひげ)だらけの口から泡沫(あわ)を吹いておりますとしか思えませんくらい、気にもかけていらっしゃらない。

 そんな方でございますのに、あのお客様の前に出るのは身震いを遊ばすほど嫌だとおっしゃったのでございます。

 そのご様子を見てはいられず、私が、それではそっと裏門から出てお(すず)みになっていらっしゃいまし、普段はそんなふうには思っておりませんが、あんなところでもお屋敷の私道でございます、夫婦松(めおとまつ)のところにある朱塗りの古家(ふるいえ)あたりから土塀の端までは昼間でも人が通りませんから、どんなに花火見物に人だかりがしていましょうとも、それは橋の上まででございます。(うち)の者たちも夜分であれば気がつきませんでございましょうとお(すす)めしたのです。お腰かけの床几(しょうぎ)を取りに行きたくても、人目についてはなるまいと存じまして、芍薬(しゃくやく)の鉢植えの並んでおりましたのを下ろした台を持って、お供をして、やっとのことで裏口からお出し申しました。

 蚊がおりましたから引き返して、団扇(うちわ)とお煙草を持って参りますと、あの、お爺さんにおねだりなさいました兎をちゃんと膝に抱いていらっしゃいます。裏口へ向かう途中で飛びつきましたのでしょうか。それとも、多忙な日でしたから、お部屋のお(かご)のなかに入れてお置き遊ばしたのを連れてお出でになりましたか。お子様はなし、猫はお嫌いの奥さまですから、十日ばかり前から、白や、白やとおっしゃって、それはもう、抱いてお寝になさいませんばかりのお可愛がりようで。

 それを目にしました私は、いいお相手がございますね、客が静まりましてからお迎えに参ります。それまでは旦那さまになんとでも申しておきますからと、私はお身体(からだ)の入りますだけ銅張りの門を細く開けて、お手伝いに引き返しました。巳代(みよ)、頼んだよとおっしゃって、嬉しそうに煙管(きせる)をお手になさっていたそのお声も、お姿も、それが見納めになりましたのでございます。

 さあ、十時を過ぎますころから、お屋敷中がひっくり返りますような大騒ぎ。

 勿体(もったい)ないことに奥さまは、日頃から姉妹のように接してお可愛がりくだっておりましたから、すぐに私を縛りまして、なにか知っているに違いないと、寄ってたかって、ぶつやら、蹴るやら」

「ああ、そのことなら全部知っている。可哀相に、なにも知らない者をいたぶってどうなるだろう。かばう人がいないと思って、ひどいことをする。いま聞いたそのお客というのは、まだ朝六ツ橋(あさむつばし)のそばのお屋敷に逗留(とうりゅう)しているのでしょうね。彼らに見せる余興のつもりもあって、お前を庭先に引っ張り出したりしたのだよ。お供のなかに赤ら顔の(ふと)った軍曹がいただろう。彼らはね、(はりつけ)の刑罰がなくなったのを残念だと思っている人たちさ」

 とりわけ巳代に向けて語っているわけでもないといった様子で、麗人(たおやめ)は手ぬぐいを握る手に力をこめ、涼しい眼は凄みを帯びて一点をにらみつけていたが、ふたたび巳代に向けて、

「よくここまで来られたねえ。そのお雪さんについて私が聞いたことを、これから話して聞かせましょうか」

 気づけば空の色は蒼く澄んで、湧きだす山気(さんき)は収まり、帯のようにたなびく白い雲が、夕陽の名残りの紅色を句切っていた。やや暮れかかった夏の日の、湯の山の岩肌は、濡れた牛の腹のようにしっとりとして冷えるのだった。

「池に釣り竿を置いたままだった。ちょうどたくさん釣れる時刻になったから、ご苦労だけどね、もうちょっと先までついてきておくれ。あの、切り割ったような四角い大岩の角を向こうに回るとすぐなんだよ。お前、歩けますか。私は、よくお話ができるものだと思うほどだったよ。身体はひどく参っているだろうに」

「はい。私もさっきこの水を飲もうと思いましたときには、もう目もくらむようでございましたが、あなたのお姿を見ましてから、疲れを忘れてしまいました」

「なんともないのかい」

「はい。自分の身体ではないような気がします。それに節々(ふしぶし)と、この胸のところがちょっと痛いようでございますが、気は確かでございますよ」

「そんなこともなかろう。お(まんま)も喉にとおらないままで折檻(せっかん)を受けて、そのうえに、こことは違って灼熱(しゃくねつ)の道を歩いてきたんだろう。ただでさえ弱い身体の者が、どうしてお前、なんともないはずがなかろう。自分の身体ではないというのだったら、お前自身の身体を元通りにしてあげましょう」

 と、落ちついた声で言って、(そで)を合わせた。

「その水のなかへ両手をお入れ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ