十一
十一
「いいえ、それでも奥さまは、なんとも思いはなさいません。旦那さまとは比べものになりませんほどお人柄が優っておいでですから、いじめ殺すようなことを言って乱暴をされましても、まるで摩耶夫人様の掛軸の前で、酔っ払いがふんぞりかえって、あの髯だらけの口から泡沫を吹いておりますとしか思えませんくらい、気にもかけていらっしゃらない。
そんな方でございますのに、あのお客様の前に出るのは身震いを遊ばすほど嫌だとおっしゃったのでございます。
そのご様子を見てはいられず、私が、それではそっと裏門から出てお涼みになっていらっしゃいまし、普段はそんなふうには思っておりませんが、あんなところでもお屋敷の私道でございます、夫婦松のところにある朱塗りの古家あたりから土塀の端までは昼間でも人が通りませんから、どんなに花火見物に人だかりがしていましょうとも、それは橋の上まででございます。家の者たちも夜分であれば気がつきませんでございましょうとお勧めしたのです。お腰かけの床几を取りに行きたくても、人目についてはなるまいと存じまして、芍薬の鉢植えの並んでおりましたのを下ろした台を持って、お供をして、やっとのことで裏口からお出し申しました。
蚊がおりましたから引き返して、団扇とお煙草を持って参りますと、あの、お爺さんにおねだりなさいました兎をちゃんと膝に抱いていらっしゃいます。裏口へ向かう途中で飛びつきましたのでしょうか。それとも、多忙な日でしたから、お部屋のお籠のなかに入れてお置き遊ばしたのを連れてお出でになりましたか。お子様はなし、猫はお嫌いの奥さまですから、十日ばかり前から、白や、白やとおっしゃって、それはもう、抱いてお寝になさいませんばかりのお可愛がりようで。
それを目にしました私は、いいお相手がございますね、客が静まりましてからお迎えに参ります。それまでは旦那さまになんとでも申しておきますからと、私はお身体の入りますだけ銅張りの門を細く開けて、お手伝いに引き返しました。巳代、頼んだよとおっしゃって、嬉しそうに煙管をお手になさっていたそのお声も、お姿も、それが見納めになりましたのでございます。
さあ、十時を過ぎますころから、お屋敷中がひっくり返りますような大騒ぎ。
勿体ないことに奥さまは、日頃から姉妹のように接してお可愛がりくだっておりましたから、すぐに私を縛りまして、なにか知っているに違いないと、寄ってたかって、ぶつやら、蹴るやら」
「ああ、そのことなら全部知っている。可哀相に、なにも知らない者をいたぶってどうなるだろう。かばう人がいないと思って、ひどいことをする。いま聞いたそのお客というのは、まだ朝六ツ橋のそばのお屋敷に逗留しているのでしょうね。彼らに見せる余興のつもりもあって、お前を庭先に引っ張り出したりしたのだよ。お供のなかに赤ら顔の肥った軍曹がいただろう。彼らはね、磔の刑罰がなくなったのを残念だと思っている人たちさ」
とりわけ巳代に向けて語っているわけでもないといった様子で、麗人は手ぬぐいを握る手に力をこめ、涼しい眼は凄みを帯びて一点をにらみつけていたが、ふたたび巳代に向けて、
「よくここまで来られたねえ。そのお雪さんについて私が聞いたことを、これから話して聞かせましょうか」
気づけば空の色は蒼く澄んで、湧きだす山気は収まり、帯のようにたなびく白い雲が、夕陽の名残りの紅色を句切っていた。やや暮れかかった夏の日の、湯の山の岩肌は、濡れた牛の腹のようにしっとりとして冷えるのだった。
「池に釣り竿を置いたままだった。ちょうどたくさん釣れる時刻になったから、ご苦労だけどね、もうちょっと先までついてきておくれ。あの、切り割ったような四角い大岩の角を向こうに回るとすぐなんだよ。お前、歩けますか。私は、よくお話ができるものだと思うほどだったよ。身体はひどく参っているだろうに」
「はい。私もさっきこの水を飲もうと思いましたときには、もう目もくらむようでございましたが、あなたのお姿を見ましてから、疲れを忘れてしまいました」
「なんともないのかい」
「はい。自分の身体ではないような気がします。それに節々(ふしぶし)と、この胸のところがちょっと痛いようでございますが、気は確かでございますよ」
「そんなこともなかろう。お飯も喉にとおらないままで折檻を受けて、そのうえに、こことは違って灼熱の道を歩いてきたんだろう。ただでさえ弱い身体の者が、どうしてお前、なんともないはずがなかろう。自分の身体ではないというのだったら、お前自身の身体を元通りにしてあげましょう」
と、落ちついた声で言って、袖を合わせた。
「その水のなかへ両手をお入れ」




