一
【登場人物】
巳代 令室(お雪)の小間使い
軍曹 令室を捜索。騎兵を虐待した人物
執事 令室を捜索。絽の紋着に袴の男
巡査 令室を捜索。お屋敷詰めの警官。姓は関
湯の山の麗人 女仙
雪売りの親仁 湯涌谷のお雪の養父
[以下、回想・談話内の人物]
お雪 お屋敷の令室。行方不明
騎兵 お雪とともに行方不明になった
お雪 嬢様お雪。雪売りの親仁の養女。一年以上前に亡くなったという
騎兵の恋人 騎兵の不運を悲観して行方不明になった
お屋敷の逗留客 東京から来た地元出身の軍人
侯爵の姫 お屋敷の逗留客が結婚を果たせなかった女性
【原文】
https://web.archive.org/web/20211119181311/http://web-box.jp/schutz/pdf/kinug.pdf
一
昼飯の献立は鮎の塩焼きに鮴の汁で、古風な塗り膳は剥げているし、腕も皿も侘しいけれども、川魚は泳いでいたのをそのまま料理したように新鮮である。とりわけ鮎は評判の名品である上に、きぬぎぬ川もこのあたりは、町から数える川沿いの村の数も六つを越えて七つ目になる外れであって、湯の山に手が届きそうなほどの上流であるから、畳の目で十二、十三を数えるほどの大きさのものが反りかえって、箸で取るとプンといい香りがする。その鮎を丸呑みにする勢いでむさぼり食って舌鼓を打っているのは、軍曹と、巡査と、そしてもう一人、絽の紋付に袴をはいた執事で、三名はもう五、六本の徳利を空にしている。
「ああ、いい気持ちだ。また川風がそよそよと吹くところなど、まるっきり極楽じゃないか。東京から下ってきたと見えるこの姉さんの真っ赤な安絵の具がちらつくのもなんともいえない」
と、巡査は背後に手をついてのけぞりながら、壁に貼られた石版画の端に息を吹きかけた。
「ははあ、だいぶくたびれた美人ですな。こりゃよっぽど雨漏りにやられたようだが、我々はどうも日射しにやられて疲れ切ってしまった。道程は大したこともないが、宿場を外れて以来、とりわけ二つ手前の……なんといいましたかね、あの村からこの剣村までの、石ころだらけの大でこぼこ道ときたら、どうです。ひょろひょろと歩いていると、まるで大波に揺られているかのようだ。一本足の下駄でこの先の媛神社までお参詣をすりゃあ大願成就なんていう話もあるくらいだからね。いやあ、驚かざるを得ませんよ」
と、執事はぐったりとした様子である。
軍曹は大胡座をかいて、
「執事君、きみ、とりあえずその袴を脱がないか。巡査殿も草鞋ばきじゃったが、酒の肴になりそうなのを見ると、履き捨てて上がりこんだというもんじゃ。ゆっくりやろう。うん、どんどん飲もう。どうじゃ、ついでに別嬪のお酌があれば申し分なし。やらせようではないか。どうせ傍にひかえているんじゃから。うん、別嬪さんよ、ひとつ酌をしてくれんかね」
と、きつい訛りのあることばで声をかけながら振り返ると、無遠慮にじろりと見た。
その視線の先の、簀の子の縁の端近くに、昼食の座には加わらず、暑さに消え入りそうにしょんぼりと、葡萄棚に少し身を隠すようにして、薄い膝に手を重ねて、うつむいた眼差しに涙ぐむほどの憂いをたたえているのは、小間使いのお巳代である。汗ばんだ単衣の衣でさえ弱々しいその様子には重そうに見えたが、そればかりか、少し幅広の紅の扱帯を胸高に、乳の下がくびれるほどにしっかりと結んだその色が、塵もよせつけないほど鮮やかなのが、それを身につける女の風情にあわせて花やかにも見えず、霜の立つ寒さのなかで錦葉を目にするかのような儚さがある。
軍曹にそう言われても答えもせず、袂の端を持ち上げて、指先でいじりながら口を結んでいる。
「ちょっと声をかけたら、はい、畏まりましたと酌をするような女なら、そもそもこうやってご苦労千万なこんな場所にまで出向いて来る必要なんてなかったでしょうよ。優しい顔をしているくせに恐ろしく強情で、てんで素直になりきれないんですからな。命令したってだめですよ」
と執事は冷ややかに言って、開け広げた窓越しに、流れのほうへと顎を向けた。
軍曹は赤く充血した目を見開き、
「また十回ほどひっぱたいてやるか。うん、姉さん、素直にせんと昨日のようにギュッととっちめるが、どうじゃい」
と厚い唇を舌なめずりする。
巡査は軍曹に杯を献して、
「いや、夫婦松のお屋敷の内とは違って、辺鄙なところとはいえ公衆の面前です。無法なことはできません。それにさ、血の涙を流しながら徳利を持たれてみなさいな、この不味い酒がたちどころに毒に変わっちまいますわ。ねえ、執事さん」
「さようですな。まあ、我慢して、もう一杯」
と酌をしながら、絽の羽織姿の執事は向き直って、
「おい、巳代、はあはあと息をしながらこんなところにまで引っ張り出さなくてもいいじゃないか。まずはそこから探すだろう実家にお隠し申したわけじゃあるまいが、令室のいらっしゃるところを、貴様が知らんことがあるものか。それにさ、この暑さのなかで雪靴を履いて歩いたって、お屋敷の庭でさえ踵の剥けそうな姫様育ちの方が、湯涌谷なんぞへ逃げるものかい。兎に乗って飛んだわけじゃあるまいし」