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それは、ある朝のことだった。
李苑はいつものように井戸へ水を汲みに行く。
カラカラと釣瓶を引き上げると、そこには大きさのまちまちな石が十個ほど入っていた。
「あら? だれかのいたずらかしら」
よく見ると、それぞれ個々の違いはあれど、どれもが綺麗な淡い緑色をしていた。
思わず見惚れて、一つ摘まみ上げた。
「あっ」
途端、その石はさらさらと崩れて砂となり、水に落ちて一匹の美しい魚となった。魚は跳ねて釣瓶からこぼれ落ち、衝撃で傾いだ釣瓶と共に井戸の底へと消えていった。
急いで覗き込んだ先、遠くに一瞬だけきらと光るものが見えた。
李苑は今年で十六になる。
この国では十六になると大人と見なされ、口分田が与えられて収税の対象となる。加えて、男子には村から五六人の兵役が課される。
そうとは言え、後者は志願者で事足りる村もあるので徹底されないことも多いのだが。
男女共にこれらの年貢から逃れるには、宮仕えの下男下女になるしかない。
しかし、宮仕えというのは庶民にはやはり敷居が高い。
王子や王女の教育係はもちろん、王家の人間の身の回りの世話など王族に直接関わる仕事は、貴族や裕福な商人の出の者が固める。
さほど富も教養もあるわけでもない庶民の宮仕えなど掃除くらいしかやることがないのである。
そうなると王族も使い勝手のよくない庶民を好き好んで雇うこともない。
したがって、庶民の多くは収穫の二割を税として納めて暮らしている。
李苑は庶民の中でも比較的生活に余裕がある家に生まれた。春や秋は田植えと稲刈りに駆り出されるが、それ以外はそれなりに自由に生活することが許されている。
今朝も日課の水汲みに井戸へ行き、釣瓶を引き上げた。
あれから四年たった今でも、釣瓶の中に何か入っていないかと見回してしまう。
しかしあれ以来、あのような美しい石は二度と、一欠片たりとも李苑の前に現れることはなかった。
そのまま誰にもそのことを言わずにいる。――というより言えずにいる。
釣瓶に入った石が砂に、そして魚になって跳ねたなどと誰が信じるだろうか。
所詮、子供の戯言と相手にされないだろう。
珍しいこともあったものだと、心に仕舞っておくことにした。
そんなことを考えていたからか、釣瓶から水を移すときに硬い音がして飛び上がった。
「うそ、さっきちゃんと見たのに」
ところが、甕を覗いても石が入っている様子はない。では何の音だったのだろうか。
再び、かつんと音がした。今度は甕の外側に当たったのだとはっきりとわかる。
振り返ると凱詩が立っていた。
「何、してる。さっさと汲まないと皆が起き出すぞ」
凱詩は李苑の従兄である。幼い頃に親を無くし、血縁の中で最も裕福な李苑の家に引き取られた。
李苑は頷いて、どっしりと重たい甕を持って凱詩の元へ行く。すると凱詩はすたすたと歩き出し、暫く進んだ所で止まって李苑を待つ。
昔からそうだった。手伝いはしないが置いても行かない。
引き取られた当初は、凱詩は李苑らに対する引け目を感じていたようだが、今ではすっかり本当の家族のようである。
李苑は第一子であったから、兄ができたようで嬉しかった。
そんな凱詩が今日に限って途中で甕を奪うものだから、李苑は狼狽えた。
「え、どうしたの? 今日は随分と優しいのね」
皮肉を込めて覗き込んだ凱詩の顔には、複雑そうな表情が浮かんでいた。
口を開きかけて、止める。それを何度か繰り返し、終いに凱詩は無言で再び歩き出した。
砂利を踏む足音だけが早朝の澄んだ空気に響く。
遠くで鳩が三度程鳴いた。
「お前、何か悩んでないか?」
凱詩が突然口を開いた。
「ううん、悩んでなんかないよ?」
「そうか」
あまりにも突然だったので自然に返せた自信はない。
「無理はするなよ」
その一言に込められた気持ちが胸に熱い。
一瞬言ってしまおうかとも思ったが、そんな大層な悩みでもないのでやめた。
「うん。ありがとう」
それからは互いに無言で歩く。
いつもは気にならないこの沈黙が、今日は無性にやるせなかった。