もっと僕に近づいて
途中、ハルの目に涙が溜まり溢れ出す。表情は無表情で、ずっと一点を見つめていた。
ハルの目の奥に、子供の頃の兄の姿が映った。その映像は古い映画のように荒く、ときより砂嵐も混ざったが、兄が再生ボタンを押し自分の耳にイヤホンを装着する姿がくっきりと視えた。
そして、兄が聴かせてくれていた音楽と、このイヤホンから流れる音色が一致した。
ハルは、音色を思い出した。
「兄ちゃ……。え……なにこれ」
ハルのまつ毛が小刻みに震え、涙は止まらなかった。
音楽が終わり、CDプレーヤーが止まった。
そしてまたパチンっとした音が聞こえ、耳に少しの痛みが走った。
思い出したのは音色だけじゃなかった。
両親が自分のことで喧嘩していた会話も少し、耳に残っていた。父の怒号と母の叫び。両親の口から自分の名前が何度も発せられ、そこには怒りと悲しみの感情が乗っていた。
急に険しい表情になるハル。
会話の内容だけでなく、両親の思考までもがチラついていた。
その様子を見て、タカが口を開く。
「ハルさん」
声に反応しないハルに、タカがすっと頬から手を離す。
「ハルさん、コーヒー好きなんでしたっけ?」
タカの声にハッとし、慌てて答える。
「え?あ、はい。毎朝飲みます」
「ハルさんがいつも飲んでるコーヒー、飲んでみたいな」
ニコっと笑って言うタカに、ハルは我に返ったようだった。
「あ、はい!すぐ淹れますね」
「やったー、ありがとうございます」
ハルがコーヒーを準備している間、タカはCDプレーヤーをずっと見つめていた。
ケトルでお湯を沸かし、コーヒーを注ぐハル。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます、いただきます」
「どうですか?僕はこの味好きで、いつもこれ。苦いのが好きで」
「あ、美味しい!美味しいですよ。僕も苦いのが好きです。しかも結構苦いやつ」
「へえ、一緒だ」
タカがハルの部屋を見渡す。
「ハルさんの部屋、おしゃれですね」
「いやいや、タカさんの方がおしゃれだと思います絶対。僕の勝手なイメージですけど」
「はは、見たらびっくりすると思うよ俺の部屋。必要最低限の物しかないから」
タカが自分のことを"俺"と言ったことに反応するハル。
「あ……」
「?」
「あ、いえ。タカさん僕には気を使わなくていいですよ。年下ですし、敬語も使わなくていいです」
「いや、敬語の方が楽なんです」
「そうなんだ……それって、もしかして人と距離が置けるからですか?」
「あー……」
「あ、いや、責めてるわけじゃないですよ!僕もそうなんです!年上はもちろんそうですが、年下にも僕は基本は敬語です。仲良くなっても敬語使うこともあって。距離感が保てて、楽なんです。だからタカさんもそうなのかなって」
ハルは、人との距離感を保つために敬語をつかう。タカも自分と同じなのかと思い、そう聞いた。
「そんな感じです。人と距離を起きたいための敬語です」
「似てますね!僕たち」
嬉しそうな表情をするハル。
その笑顔は、ハルの兄にそっくりだった。
タカは、よっちゃん、と自分の名を呼ぶハルの兄を思い出し、喉の奥が少し痛くなった。
敬語を使うのは、それだけじゃないんだよ、そう心の中で呟いた。
「そうですね。同じ視えるタイプの人間ですし、似ているところが多いですね僕たち。コーヒー好きってのもね。あはは」
「タカさん、あの。僕が言うことじゃないかもしれないけど、距離、置かなくていいですよ。むしろもっと、僕に近づいてほしいというか……あ、変な意味じゃなくて。あの……」
「?」
「あの、せっかくだから伝えておきたいというか。僕はゲイで……って知ってますよね。つまり、男性が好きなんです。けどタカさんをそういう目では見ませんから!だから安心して下さい」
ハルは、嘘をついた。
少しづつタカを意識していたことは自覚していたが、そんなことを悟られたら、確実にタカは自分と距離を置く。
自分が友人の弟であるならなおさらだ、そう思い、本音とは裏腹な言葉を口にした。
「ハルさん、大丈夫ですよ」
「……」
「大切な友達の弟と思っている時点で、すごく近い距離にいます。いきすぎなくらいに」
そう言ってタカは、ハルの頬に触れた。
涙は既に乾いていたが、跡は残っていた。
「ハルさん。さっき、また涙出てましたよ」
「え……」
「こういうふうに顔に触れられるの、嫌だったら言ってください」
「嫌じゃないです。全然嫌じゃないです。でも……」
「でも?」
「どうしてそんな、申し訳なさそうな顔をするんですか?」
「……」
「タカさんが、僕に辛い過去を伝えたから……ですか?僕がキヨヒロの弟で、大切な友達の弟を助けないとと思ってるのに、僕がこんなザマだからですか?」
「いや……」
「あ、責めてるんじゃないんです!そんな、申し訳なく感じないでほしいというか」
「……」
「そんな、可哀想なものを見る目をしないで、というか」
「いや、違うんです。違うんですよ」
「……」
「ハルさんのお兄さんが遺したものって、とてつもなく大きすぎて困っちゃうな」
答えになっていない返事をした。
タカがCDプレーヤーに視線を向ける。
「さっきの、この音楽のことなんですけど……あまり話したくはないですか?」
「あ、いえ、さっきはすみません黙ってしまって。話せます。途中、思い出したんです。兄が……僕に聴かせてくれてたあの音楽……音色」
「それ、飲みの時に僕を通じて聴こえたピアノの音ですよね」
「はい。それに似てる箇所があって、それで思い出しました。あと、ゴムで弾くような音。それと……両親の会話が耳に……」
「そうですか」
「涙が出るってことは、やっぱりまだ抵抗する自分と戦っているんですかね」
「……」
「でも……」
ハルがタカの目を見つめて言う。
「でも、タカさんが隣に居たから聴けたんだと思います」
「え……あ、そう……なのかな」
「だって飲みの時だって、タカさんを通してあの音色聞いて、なんともなかった。耳に来たのが怖かったけど。音を普通に聴けてました」
「ああ、そうでしたよね」
「実家ではすごく体が反応したのに、今こうして聞けてるのって、たぶんタカさんがそばにいるから……な気がします」
「……」
「分かりません。僕の心が、少し緩んでいるのが影響しているんでしょうか」
「緩んでる?」
「あの、心が軽いというか。タカさんと僕は似ているタイプですし、理解してくれる存在が側にいてくれるの、すごく嬉しい。気持ちも軽くなるじゃないですか。だから、かな。わかんないけど」
「でも、ハルさん辛そうですよ。涙が出るってそういうことでしょ」
「でも……大丈夫です。やり遂げてみせます!」
「ハルさん……」
「機能ってやつ、どんどん戻っていってる気がしました」
「目の奥の次は、耳に反応が来ましたもんね。次は思考かな」
「思考だなんて、怖いですよね。他人の考えてること知るなんて」
両親の喧嘩の会話が、またハルの耳の奥で蠢いた。
「……」
「でも、大丈夫です」
ハルはそういって、ニコっと笑顔をつくった。
目を瞑って深呼吸をするタカ。頼むから、笑顔にならないでくれ、そう心で呟いた。
「せっかく来てもらっちゃってますし、ゆっくりしてってください。他にもいろいろ持ってきたんです。タカさん兄の話、聞きたいでしょ?」
タカは兄の話が聞きたいはずだ、ハルはそう思っていた。
「はい、知りたいです……けど」
「海で少し秘密基地の話をしたの覚えてますか?」
「ああ、覚えてますよ」
「よく行っていた田んぼの裏に小さな竹林があったんです。そこ、近所のおばちゃんが来てたんですけど、僕たち秘密基地を……」
ハルは子供の頃の兄の話を、ひたすらタカに話し続けた。
耳にはまだ、痛みが残っていた。