タカさんが側にいてくれるから、できるんです
え……っとハルの表情が固まる。
タカがハルの手を握ったまま続けて言う。
「僕たちがこのお店に来てから、一度も音楽はかかっていません。店員さんとお客さんの足音や会話、食器の音が聞こえるだけです」
「え……」
「ピアノの音、僕は聞こえてません」
「え……あ、お酒……」
「……」
「酔いがまわってきているのかも……僕まだタカさんと会うの少し緊張してて、あはは。そういう時って酔いがまわるの早くなるっていいますし」
タカが首を横に振る。
「ハルさん、今から僕この手を離しますね。その音どうなるか教えてください」
タカがすっと手を離す。
するとさっきまでハルに聞こえていたピアノの音色が止まった。
「うわあっ」
ハルは思わず大きな声を出し、顔は引き攣り体は退けぞってしまった。
「あ、すみません。失礼な反応」
「大丈夫ですよ。どうでした」
「音が……止まった……」
ハルは、少し怖さに近い感覚を覚えた。
驚きというより恐怖に近かった。
険しい表情になり、視点が定まらなくなっていた。少し呼吸も乱れている。
そんなハルを見てタカが優しく言う。
「深呼吸しましょうか。とりあえず落ち着きましょう」
「は……い」
「飲みの場ですし、お酒の力を借りましょうか」
タカは、すいませんーと言って店員さんを呼び、ビールの追加を頼む。
「じゃ僕ちょっとトイレ行ってきますね」
「は、はい」
タカが席を外した瞬間、ハルは左手で目を覆い、右手で胸元を掴んだ。額にはうっすらと汗が浮き出ていた。
「何……今の……え……?は?」
そしてタカが戻ってきた。
「お、ビールきてた。はい、また乾杯しましょうハルさん」
「え、あ、はい」
タカがビールを一口飲み、ふうっと息を吐く。
ハルも多めに口に注ぎ、そして深呼吸をした。
「ハルさん、さっきの音楽いつから流れてたんですか?」
「え、あー……っと、ちょっと酔いが回ってて定かじゃないんですけど、たぶんさっきです」
「僕がハルさんの手に触れてから、ってことですか?」
「はい、たぶん……」
「そっか。今度は耳にきたんですね」
「え、本当に音楽かかってなかったですか?冗談ではなくて?」
「冗談ではないです。お店に入ってから今まで、一度もピアノの音は流れてません」
「そうですか……」
「怖かったですか?」
「はい……少しだけ怖かったです」
タカの表情が少し曇る。
「その音楽の音色は、ピアノだったんですか?」
「はい、ピアノだと思います。変わった感じでした。独特なピアノの音がしきりに」
ピアノ……タカは、最近ずっと聴いていたサエの音源を思い出していた。
「タカさん、これって何なんでしょうか。僕おかしくなったんですかね」
「いえ、おかしくはないです。正しい反応ですよ。たぶん、僕の考えてたことを感じ取ったんだと思います」
「え……」
ハルの顔がさらに引き攣る。
「いや、分からない。でも怖がらせてしまったことに変わりはないです。すみません。とりあえず飲みましょう。ハルさん飲んで。今はとりあえず」
「はい……」
ハルはビールを多めに喉に流し込んだ。
ハルの身に起こった変化に、タカ自身も少し困惑していた。
「ハルさん……これ続けるともっと怖く感じることが起こるかもしれません」
「はい。でも、覚悟はできてますから大丈夫です。たぶん僕、耳が弱いだけですよ!って、あんな反応しておいて説得力ないですけど」
「いや、僕がこんなこと言ったら尚更怖いですよね」
申し訳なさそうな表情をするタカを見て、ハルが言う。
「タカさんそれ、4杯目とかですか」
「はい、たぶん」
「まだ全然酔ってないですよね。やっぱり強いな~」
強すぎだよ、とでも言いたそうなハル。
「いやいや、ほろ酔い……かな?」
「いや全く正常なんですけど。ほろ酔いの、ほの字にもなっていないです」
眉毛を八の字にして、ふふっとハルは笑った。
「タカさん、僕は本当に大丈夫ですから。別に何か化け物になるわけじゃないし、元の自分に戻るだけですし。今みたいな反応しちゃうこと、これからもまたあるんでしょうけど。でもそれでも戻りたいと思ってるんです。それで……」
「……」
「それで……あの、それは、タカさんが居てくれるから、なんです。だからできるんです。理解してくれるタカさんがこうして側に居てくれるから、僕もこうやって自分の求めることをできている……というか。あ、重いですね」
へへっと笑いながらハルは言った。
「ハルさん……」
タカは、自分の唇を軽く噛んだ。
「だから、大丈夫です!」
「……うん、わかりました。これからも続けていきましょう」
「はい!」
ハルは、タカに触れたくなる気持ちをグッと我慢した。