精霊王 2
あれ以来、フィーネはアルノーにパリッとした笑みを浮かべて、あたりさわりのない事以外は話をすることをやめた。思う所は山のようにあれど、そうする以外には正気を保ってアルノーと接することができなかったのだから仕方がない。
数日間休みをとったとは聞いていたが、初日の夜以降は、一歩引いて、距離を置いてアルノーと接する。
そんなフィーネにアルノーは何を指摘するでもなく、ただ、受け入れてフィーネに朗らかに接するのだった。その対応がこれまたフィーネの彼を理解できないという気持ちに拍車をかけて、なぜそうまで優しく接してくれるの分からなくてわからない事が怖くて、また昨日よりも距離を開けてしまう。
しかし、それでもアルノーは怒ったり問い詰めてきたりしないのだ。けれども少し妙な行動をしている。それは毎朝、花を持ってやってくるようになったのだ。これはもう三日も続いている。
フィーネは、窓に囲まれているように作られているウィンドウベンチから、部屋のテーブルを見やった。今日もフィーネの花瓶にはアルノーの持ってきた花が飾られている。
今日持ってきたのは白いカーネーションだ。フリルのような白い花弁が銀の花瓶によく映える。
「……はぁ」
それを見てフィーネは深くため息をついた。それから、窓の外に視線を移す。フィーネのディースブルクに来てからの仕事は、アルノーが帰ってきている間は、こなくてもいいと言われてしまっていて、あるのはヴィリーとの密会ぐらいだった。
本来なら、アルノーと領地の散策にいくなり、二人の時間を楽しむなり色々なことをするべきなのだろうが、初日の出来事があって以来、彼とは顔を極力合わせないようにしている。
つまりは、やることがなく、今だって、考えを巡らせながら、昼の暖かな木漏れ日を浴びて、日光浴しているだけなのだ。
とはいえ、この時間も悪くない。屋敷のこの部屋を与えられてからというもの、この場所を陣取ってフィーネは昼間の時間を過ごすことが多い。
部屋から少し飛び出たスペースになっていて、その壁の部分が三面の窓ガラスで作られている。そして窓から少し下がった位置に、座面となっている部分があり、そこには、ソファーのような柔らかいクッションが敷き詰められている。
窓の外には丁度、直射日光を避けられる位置に背の高い樹木の葉が茂っていて、落ちてくる木漏れ日の影が、風が吹くたびに形を変えて毎日違った模様を浮かび上がらせる。
フィーネはそれを、これ以上ないほどに贅沢な空間だと思っていたし、そんな贅沢をしているのに、ため息ばかりついていてはだめだと思っているのだが、やはり部屋の真ん中で主張するみずみずしいカーネーションをみると杞憂でため息が出るのだった。
……エレナやレナーテから聞いて、私が花好きだと思っているんだわ。
彼が花を持ってやってくる理由が、それ以外には思い浮かばず、きっと側仕えの二人もそう思っているだろうことは想像に難くない。
それに、そう取られてもおかしくない行動をフィーネはとっていた。一日に何度かお気に入りの花瓶とその花を眺めるし、自分で花瓶の手入れもする。だから、エレナやレナーテからその情報が共有されてフィーネの別館はこのディースブルク邸のどこよりも花が多かった。
しかし、フィーネは中身の花よりも、花を生けるための花瓶の方が好きなだけだ。
けれども、大切な花瓶に、アルノーからの贈り物が飾られていて見るだけで彼を思い出す。思い出すというか同じ生活空間にいて普通に会うのだが。
とにもかくにもあの日の事を思い出すのだ。
……失態も、失態、大失態よね。それにさらに彼が何を望んでいるのかまったくわからなくなってしまった。少なくとも私はもうすでにアルノー様のものといっても過言ではないのに、どうして受け入れてくださらないの?
その答えはすでにフィーネの中にあって、あの日に言われたことを思い出した。
たしかに、言いたいことはわかるが、そんなのは、フィーネが心から望んでいないから、なんていうのは綺麗ごとだと思う。
誰だって、何か不満を押し殺して生きている。カミルだって確かに似たようなことを言っていたような気がするが、それとこれとは話が別だ。
カミルは、フィーネに、自分の気持ちをなかったことにするなと言ったのだ。認めていいと。しかし、だからと言ってその気持ちに従って何かするべきだとは言っていなかった。
アルノーが言っているのは、気持ちに従って動けと言っているのと同じなのだ。
……でも、人と人が向かい合って関係性を望むのだから、どちらかの気持ちに沿わないことだってあるのが当然よ。それなのに……それなのに。
理論上では……というか、口では論破できると思う。けれどもフィーネの考えたことは確かに極端すぎて、それは違うだろと言われれば、それまでなのだ。それに、アルノーがどんな気持ちでフィーネの事を拒絶したのかは本来重要ではない。
望んでいないと言われて、拒否されたのならば、土台からフィーネの理論は崩れ落ちて使い物にならないのだ。
だって、アルノーが望むのならばフィーネが何を考えていても、それは関係ないというのがフィーネがアルノーに言ったことだ。
望んでないのならそれがどんな理由であっても、フィーネは引き下がるべきだった。それを引くに引けなくなって振りかざしたのがフィーネがやらかしたこと。
それと、前の記憶で、キスもその先も経験もあるし、男性は得意ではないけれども問題ないはずだと思っていたのだが自信が簡単に崩れ去ったことも、フィーネの事をさらに恥ずかしくさせていた。
記憶があっても、それらはただの記憶であって、初めてされたキスの感触だとか、質感だとか、力の抜けてしまう心地はどう考えてもまったく知らなかったものであった。
そしてあんなキスを普通に何の問答もなしに、してしまえるアルノーは大人なのだと、思わざる終えなかった。彼は大人で、そしてフィーネの事をどうとでもできるのにどうもしない。その事実はあまりにも、難しい問題であり、優しそうに見える笑顔と、キスの合間に見た彼の瞳が頭から離れない。
「はぁ……」
「フィーネお嬢様、戻りました」
「レナーテお帰りなさい」
「お帰りなさい」
扉が開いてフィーネの部屋に、レナーテが戻ってくる。戸棚をはたきで掃除をしていたエレナとフィーネは、戻ってきたレナーテにそう声を掛ける。
それからエレナもレナーテもフィーネの元へと寄ってきて、レナーテの報告を聞くのだった。
「……どう、でした?」
「大切な話をしたいから……時間を取ってほしいそうです」
フィーネの代わりにアルノーの要望を聞きに行ったレナーテにそう言われ、フィーネは分かりやすく困った顔をした。そんな主の姿を見てくすくすとエレナが笑う。
「し、失礼。っ、つい、そのフィーネ様が可愛らしくて」
「そんなことないと思うわ。エレナ」
「いいえ?……先程から、アルノー様の持ってきた花を見てはため息ばかり、フィーネお嬢様はあまり感情的にならない方ですのに、アルノー様の事になるととても、分かりやすくなるのですもの」
「そうですね。先程もアルノー様がいらっしゃっただけであの慌てようでしたから、私がご用件を聞きに行って正解でしたね」
レナーテもそんな風に言い、フィーネには自覚がなかったが、側仕えの二人にそう言われるのであればそうなのだろうと、考えつつ二人には頭の上がらない思いだった。