人間らしい裏切り 5
きっと仲裁に入っても、またそうなるので本当は耳をふさいで、目をつむり、口をつぐんでしまいたかったが、言い合いを続ける二人を落ち着かせようと、フィーネも立ち上がった。
しかし、ふいに視界に移った窓の外。門の入口付近。とても大きな、黒い小屋ぐらいはありそうなものが見えた。
カミルを咄嗟に見ると、彼も急いで窓の方を振り返り、目を見開いて息をのむ。
固まってしまった彼を見て、フィーネは、自分だけでも、この場の最良手をとらなければとふっと小さく息を吐いて、大きく息を吸った。
「来たわ!!!逃げましょう!!!二人とも」
できる限り大きな声で言う。普段まったく声を荒げないフィーネの声に、二人はフィーネの指さした方を素直に、というか、反射的に見た。フィーネと同じものを見たビアンカとベティーナはそれぞれ、怯えたように足を引く。
「い、いやああああ!!!ばけもの!!!」
「っ……!!!!」
ベティーナが涙を流しながら叫ぶのに、それに目もくれず、ビアンカが走り出し、居室の出口へと向かう。幾分こちらに近づいてきた魔物を確認するようにフィーネがよくみてみれば、のっそのっそとゆっくりと歩くようにこちらに近づいてくる黒い魔物は、長い爪を真っ赤な夕日に照らされてぬらぬらと反射する鮮血をより際立たせていた。
魔物の顔には肉の禿げた傷があり、そこからむき出しの眼球が、フィーネのことをとらえている。そのあまりに恐ろしい姿に、魔物ではなく、たしかにバケモノだなと、フィーネも思った。そして座り込んでしまったベティーナの腕を掴んでむりやり立たせて、部屋の扉へと向かっていく。
出入口では浅く呼吸をして、酷い形相をしているビアンカが待っていて、フィーネは意外に思った。先程までの様子を見ていて、こういう事態には、ベティーナのことだって置いて逃げるのだと思っていたビアンカがベティーナのことを心配して待っていてあげたのだ。
……よかった、二人でベティーナを支えて走れば、きっと!
こんな状況でもそれを希望に感じて、そして心底良かったと思う。フィーネの愛する妹はきちんと母親に愛されている。
「ビアン━━━━
手を伸ばして、協力しようと声を掛けようとしたフィーネのことをビアンカは突き飛ばした、力いっぱい両手で。
「あっ」
フィーネは背後にしりもちをついてビアンカを見上げた。彼女は手を引かれてついてきていたベティーナを強引に服を引っ張って部屋の外に出す。それから焦点の合ってない目でフィーネを見下ろしながら、薄っすら口角を上げて言う。
「そうよ。そうだわ。魔力に寄ってくるんですもの、時間稼ぎができるじゃない、大丈夫よ、貴方ってほら、貴族に生まれてくるほど運がいいのだから」
ぶつぶつと独り言のように、ビアンカはそう言いゆっくりと扉を閉める。今の一瞬で状況を理解することができたのか、彼女の背後から「母さま!!早く!!」とベティーナのせかす声が聞こえた。その声はきっと早く逃げようと言っているのではなく、早く扉を閉めてしまえと言っているのだと容易に理解ができてしまって、閉まる扉にフィーネはぼんやりと絶望を感じていた。
『人でなし!!!このっ、人でなし!!!』
カミルの声がする。背後から足音もさせずに、走ってきて、彼は扉を力いっぱい引っ張った。青い瞳を黒く濁らせながら、涙をためて開かない扉を何度も何度も引き続ける。
『くそっ!やられた!!…………フィ、フィーネどうしようっ』
強く扉を引いてもびくともしない、そもそもカミルはまだまだ少年であり手足も細くて、力はそれほどない。何度も扉を開こうと試みているうちに、人が押さえているような動きではなく、無機質な硬いものに扉を押し当てているような動きに変わった。きっととっての部分に何かを挟まれたのだろう。
カミルはあきらめて、考えを巡らせる。
こんなことになる前に、フィーネを逃がしてやる予定だったのに、完全に予定が狂ってしまった。さらに呆然自失で座り込むフィーネを見てしまうと、どうにもならないような気がしてきて、フィーネにどうしようと、と問いかけてしまったのだった。
しかしたった今、家族に裏切られたばかりの少女にそんなことを聞いたって意味がない、むしろ悪いまである。
普通の少女であれば、その絶望的な状況に諦める以外の選択肢を見出すことができなかったであろうが、フィーネは、まるで自分まで裏切られて死んでしまうのだと思っているかのようなカミルの心細い声に、すぐに我に返った。
フィーネは、彼を守らなければならないと咄嗟に思った。だってカミルは、自分よりも年下で不思議な存在ではあるけれどフィーネ思いの優しい子なのだ。
そんな何の罪もない少年が、悔しそうに涙をぬぐいながら、フィーネに問いかけてきている。であれば、回答は一つだった。
たとえ愛する妹に裏切られても、フィーネの心には、きっと死なないという前の記憶からくる多少の余裕があり、ベティーナの行動については命の危機を感じた人間の動きなのだから、仕方がないと早々に割り切った。
「……大丈夫。大丈夫よ。カミル」
しかし、それもまたきっとカミルに自分を殺すなと怒られてしまうと思い直して、付け加える。
「後で泣き言を聞いてちょうだい。それだけで大丈夫」
言いながら、フィーネはドレスのスカートを持ち上げて立ち上がった。停止していた思考を自らが生きるために働かせる。素早く移動しながら、戸棚に置かれている、果物ナイフを手に取った。
窓のすぐそばまで迫っている魔物は夕日をさえぎって影を落とす。
両前足を窓にかけて、中にいる獲物を見据えた。肉食獣の捕食者の瞳をフィーネは睨み返して、その禍々しい生き物にひるまず暖炉のそばへと寄った。
なにかあった場合には、この場所に集合するという約束事があるだけあって、この部屋にも必ず安全に逃げられるように、隠し通路が設けられている。
しかしそれは、当主から与えられる、印章指輪がなければ開かない。普通は貴族であれば自分の家のものを持っていて当然なのだが、フィーネは何かと理由をつけて与えられなかった。それがフィーネとベティーナの立場を入れ替える計画のために、与えなかったのだと今ならわかる。
『隠し通路が使えるの??逃げられる?』
カミルは縋るように聞いてくる。フィーネはその間に、カギとなる暖炉のサイドにある石を三つ押し込んで、今の時期は使われていない、ほこりをかぶった暖炉のなかへと入っていく。
暖炉の奥を強く押せば重たい石の扉が開く。
開いた先には、成人男性一人が歩いて進めるだけの石作りの通路がある、しかし鉄柵があり、印章指輪のないフィーネはそこから先に進むことができない。
「いいえ、カミル。私は大丈夫だから、早く姿を消して、部屋から出ておくのよ。そしてできるだけ遠くにいて」
『やだっ、やだよ!!ねえ、フィーネ、それやばいって、閉じ込められちゃうじゃん!!』
「いいのよ。大丈夫だから行って!」
フィーネはカミルに強く言って、それから、中に入って内側に開いた石の扉を閉める。同時に、ガラスが盛大に割れる音が響いて、バキバキィと物音がする。それから小さなガラスが踏まれて割れていく音が聞こえた。フィーネは暖炉の入口の小さな扉からできるだけ離れるように、鉄柵に体を押し付けて、床に小さく蹲った。
手には、咄嗟に武器になりそうだと部屋から持ってきたよく研がれた小ぶりな果物ナイフがきつくきつく握られている。
ガシャン、ドッ、ガラガラガラッ、と大きな物音が続く。幸い、窓から暖炉は死角になっている位置にあったため、すぐに見つかるようなことは無い。
このまま何とかやり過ごしたいと思うが、そうは行かない事をフィーネは理解していた。魔物は魔力に集まってくる。精感が魔力を吸い取ることができるようになると、おのずと魔力を探し当てることができるようになる。つまりは、隠れるのは時間稼ぎにはなっても解決策にはならない。
しかし、そうであっても、フィーネが隠れることを選んだのには理由があった。あの大きな巨体、太い手足、もはや普通の獣とはまったく違うバケモノのようにも思えるが、元になった動物がいるはずだ。
当てはまるのはグリズリーだと思うのだ。グリズリーは、執念深いし、それに走るのだって早い、高い所にも上れる、一度目をつけられると人間の力では逃げ切ることは困難、と昔何かの本で読んだのだ。
「はっ、はぁ、……落ち着いて、大丈夫」
意味もなく息が上がって、フィーネはさらに考え事を続けた、今の状態に目を逸らすように。




