人間らしい裏切り 1
週末、予定していた通り、町娘に見えるような服装でフィーネは屋敷を出て、商店街を歩いた。お忍びで従者もつれずに、領主の令嬢が独り歩きをするのはとても危険なことではあったのだが、昔からその商店街の住人はフィーネの事を知ったうえで誰もが何も言わずに、暗黙の了解として、彼女の安全を見守っていた。
それにただ見守っているのではない。商店街の住人も街を守る兵士も幼いころから領主の娘である二人の貴族をよく見ていた。そして、決めていた。
土地に根付いた、ブティックに流行物を作れと横暴を言う、浪費の激しい妹のほうよりも、地味ではあるが決して質素ではなく貴族らしい振る舞いをする、たまにお忍びで買い物に来る姉の方が、商店街の住人にとっては領主にふさわしい器だと、勝手に理解して、そして彼女の息抜きなるような場所であるように、この商店街は、領主の人格に反して治安だけはよかった。
ほかの貴族が避暑地として遊びに来るほどに街並みは綺麗で落ち着いていた。目新しいものは何もないけれども、穏やかで人情溢れる土地柄だった。
『やけに、落ち着いた商店街だね。街並みもきれいだし』
「そう? きっと、住んでいる人がいいのね」
フィーネはフィーネで、その他の町との差異に気が付いていないような顔をして、これが住人たちの苦労の上にあることを感謝しつつも知らないふりをした。もちろん、カミルは町の人間には見えないのでごく小さな声で。
『そういう物かな、ま、伯爵が家庭ではクズだけど、経営能力はあるってことか』
「……」
カミルのその言葉に同意できる気がしなくてフィーネはふと目をそらした。だって、この領地の予算管理をして、様々な町をよくする制度作成や、余計な費用を抑えて、福祉手当を増やし健全な街づくりを実現しているのはフィーネだった。
フィーネは国や領地の経営について学んでいくうちに、自分でもそれができるのではないかと思い、面倒くさがりの父親に初めて頼みごとをして、仕事を得ていたのだった。
領主であるエドガーはその領主として重要な仕事を難なくフィーネに譲り渡し、今ではフィーネが制作した書類を王家に提出するだけで、仕事なんかしてないも同然だった。
だから、王都に行くといったエドガーにやらなければならない仕事などないのだとフィーネだけはすぐにわかったのだった。
しかし、この町の健全さは、フィーネの運営だけではなく住人の努力なしでは得ることが出来なかったと思う。商店街というくくりであっても様々な事情がある人々が毎日、健全に生きるというのは難しい事だ。それを多くの人が実践して、そして、今では観光に多少は定評のある街になっている。
そうなってくれてフィーネも鼻が高い、もちろん王妃になった暁には彼らに特別な援助をと考えていたのだが、それも今の状況では危うくなってしまっている。どうにか、この土地だけでも継承することができる存在にならなければ、フィーネの努力も、この町の住人の努力も無駄になってしまう。
それは、何とか避けたいことだった。
『どしたの?険しい顔して、せっかく天気も良いのに』
「!……顔に出てた?」
『うん、結構。君って、何考えてるかわかんない笑顔か、何考えてるかわからない真顔か、明らかに思いつめてる顔以外の表情のレパートリーがないよね』
「そ、そんなことないわよ」
『じゃあ、それ以外の顔してみてよ』
……それ以外って……。
少し考えて、フィーネはニコッといつもより、深く笑みを浮かべた。それを見て、カミルは『何考えてるかわからない笑顔パート2じゃん』と笑った。なので今度はパート2と言われないようにあっと驚いた顔をしてみる。
『なにその演劇じみた表情、おもしろ』
「頑張ったのだけど……難しいわね」
『そんなことないよ!思ったことを顔に出すだけ!たとえば今日はフィーネとお出かけ出来て嬉しーの笑顔!』
カミルがぱたぱたとフィーネより先に走っていって、にーっとさわやかな笑顔を浮かべた。フィーネは突然の眩しい笑顔につられて、眉を下げてくすくすとほほ笑んだ。
その愛らしい表情に、カミルはなんだ、そんな可愛い顔もできるんじゃんと言おうとすると、すぐにスンっといつもの口角を浮かべるだけの笑顔に戻ってしまう、がっかりしつつも「こっちよ」と指をさして、進む彼女についていった。
そんないつもとは違う、こそこそ独り言をいって百面相をする、フィーネに花屋の女主人のエラは、ついにあの幼いころから見守ってきた領主のお嬢様にも春が来たのかと、感慨深い気持ちになった。
それから、真向いの青果店の主人であるエグモントはあの鉄仮面だったお嬢様がうら若い乙女のように見えてしまい、目を疑った。
それに斜め向かいの軽食販売をしている喫茶のオーナーは、こんなに聡明で可愛らしいお嬢さんに育ってくれてよかった、とそれぞれ、妙な視点でフィーネのことを見守っていたのだった。
そんな彼女が入っていったのは、グレゴールの骨董店だ。商店街でも厄介者扱いされている偏屈爺さんの店にこんな日に限ってフィーネ嬢が入っていってしまったのだ。
けれども、商店街のみんな知っている。あの偏屈爺さんが唯一邪険にしないのは、誠実で優しい、あの子だけであるということを。
カフェで新人がオーダーを間違えて、料理が二時間届かなかった時も決して怒らなかったし、小さな子供にドレスを汚されても嫌な顔一つしなかったのだ。
だからきっと大丈夫と住人が納得している間にも、フィーネは「ごきげんよう」といいながら、骨董屋の重たい扉を開いて、中にいるグレゴールのじいさんを見た。
初めは嫌そうな顔をしていたけれどもグレゴールも、フィーネの顔を見るといくらか表情をやさしくして「商品を傷つけないでおくれよ、お嬢さん」と一言言っただけだった。
「ええ、気を付けるわ」
『なーんか偏屈そうなおじいさん。こんなところに良いものなんてあるの?』
カミルは古ぼけた店の内装に、口をとがらせて言った。しかし、古ぼけてはいても商品はほこり一つかぶっていない、雑多に置かれているように見える美しいアンティークたちだって、とても美しい品物ばかりで骨董屋として完成された空気感がその店にはあった。
細やかな柄のティーカップ、細工が繊細なカトラリー、作りの凝った小さなランプ。眺めているだけで、思わず手に取りたくなる魅力的な品々から、フィーネはいつもの通りに、沢山あるアンティークの中でもガラスケースに丁寧にしまわれている銀細工へと視線を落とした。
それにカミルもついていき、ケースの中を覗き込む。
普通の棚に置かれている物も素晴らしい骨董品であることに間違いはなかったが、それなりに平民でも買えるような代物だった。しかし、この中に入っているものは違う、それらは一目見ただけで分かるほど洗練されていて美しい逸品だった。
その中でもフィーネの目を引いていたのは、銀細工に包まれた小さな一輪さしだった。
贈り物用としてではなく自分の私物として、いつもこの店に来ると欲しいと思うのだが、それは対になった二つの花瓶であり、如何にも恋人同士でペアで部屋に飾る用途の物に思えたから、買うのを躊躇していたのだった。