けじめ 9
たとえどんな憎まれ口をたたかれようとも、たとえどんなことをされようともフィーネにとってベティーナは唯一無二の家族だ。
「あ、ああ。……それでも、どうして私から離れていくのって大きな声を出して、姉さまを打ってしまいたくなるのよッ!」
気持ちの処理が追い付かないのか、ベティーナは、次第にその表情を曇らせて、子供みたいにグッシャリと顔をゆがめる。それから、昔から何度も見たことがある、癇癪を起した時の泣き顔をした。
「ひっ……うう、う、ううっ、ねえさま」
「……」
けれどもあのころとは違って、ベティーナは純粋ではない、間違いを犯した、相手の事を考えずに、酷い悪事を計画した。
フィーネが回避していなければ、きっとそれはフィーネの人生を丸ごと奪って無に帰すようなそんな悪事だ。到底、許す筋合いもなければ、もっとひどい待遇を与えて仕返しをすることだって誰にもとがめられないだろう。
けれどもそれでも、フィーネの中には、幼い日のフィーネについて回っていた小さなベティーナが思い浮かんで、そんなことは出来ないのだ。
決壊したように泣き出すベティーナにフィーネは、ハンカチを取り出して差し出した。
この机を挟んだ距離感の関係性をもう越えることは無い。それがフィーネのけじめだ。けれども抱きしめなくても慰めることは出来る。
「……あう……あ、りがと」
「ええ」
ベティーナは受け取って、それから大人の女性らしく目元をハンカチで押さえて涙を拭った。混乱していて泣いていても、もう癇癪を起して暴れることのない妹に、フィーネはやっと言おうと思っていたことをいうことができる。
「ベティーナ、私、貴方に言うことがあってここに来たの」
落ち着いた声で、話しかけるフィーネに、ベティーナはなんとか呼吸を落ち着けながら、フィーネの事を見上げた。
「……私はね、貴方のこと愛していたわ。なによりも大切でなによりも優先して貴方を大事にしていた」
「……う、ん」
「でもね、貴方は違った。私の事をただの一度だって大切にすることは無かった」
断言すると、ベティーナは反論をしたいのか、少しだけ不服そうにフィーネを見る。しかしそれを口に出すことはせずに、フィーネに手渡されたハンカチを握って、うつむく。
「そして、私からすべて奪おうとした。貴方は気が付いていなかったのだと思うわ。でも私はすでに、貴方を大切に思ったまま明け渡せるもの全部を渡していた」
「……、……」
「だから、取られるわけにはいかないものを守るために、貴方の大切な人でもいられなくなったし、貴方を大切にすることもできなくなった」
何度も伝え方を考えた言葉だ。フィーネの口からはすらすらと聞き取りやすく、言葉が紡がれる。ぐすん、と子供みたいに鼻をすする音がして、うつむいたベティーナから、ぱたぱたと綺麗なしずくが落ちていく。
「……私はもう貴方を家族として愛することは出来ない」
核心的な一言を言う。しかしベティーナはそれに反応することは無く、小さく肩を震わせて泣いているだけだ。
その涙をぬぐってあげる役目は、もうすでにフィーネにはない。それに今回は言い逃げになっても伝えると決めたのだ。
「でも……それでも、貴方は、私と同じ土俵に立っている。ハンデはもちろんある、でも貴方は貴方、一人で生きていかなければならないの。きちんと自分の力で立って生きていってほしい」
誰かを貶めたうえでしか存在しない、プライドや立場なんてそんなもろいものに支えられて生きるのは、不安定なうえに、必ずつけを払う時がくる。
そんな生き方ではなく、自分の力を使ってきっと良い方向に進むように生きてほしい。これがフィーネの自己満足だとしても、望むのだけは自由だ。
「もしきっと、そうできたら……また……今まで通りにとはいかないけれど私も助けになるわ」
その言葉は甘さからくるものではなかった。フィーネはもうこれっぽっちも、なに一つだってベティーナに奪われるつもりはない。助けになるのはベティーナが自分の力で、なにかを成し遂げようとするときだけだ。
「貴方が、前に進めるように……する。別々の道をそれぞれ歩けるように。これは私の偽善よ。妹を捨てる覚悟をした私の罪悪感を消し去るための偽善。決して貴方の為ではないわ」
言いながらフィーネはソファーを立った。
鼻をすすりながら泣くベティーナを置いて、扉の前に移動する。もしかしたらこれ以来会うことは無いのかもしれない。フィーネの言葉を都合よく解釈して破滅するかもしれない。
けれども、もう未練はない。
……あとはベティ次第、私には私の帰る場所があるもの。
扉を開く、反射的にベティーナが顔を上げた。そんな気配を感じても、フィーネは振り返らない。
「っ~、……、ま、またっ会いましょおっ」
さよなら、とも、またね、とも言わなかったフィーネに、ベティーナは、震える声でそう紡いだ。フィーネは部屋を出て廊下を歩く。
フィーネの言ったことが伝わったのかどうかは分からない、それでも速足で歩きながら、次第に息が切れて、はあっ、と大きなため息とともに、涙の粒が頬を伝った。
きっと伝わっているといい、そしてまた、今度は対等な関係で会えると良い。
……良い、ではないわ。そうであって欲しいのよっ。
乱暴に涙をぬぐって、アルノーと合流しフィーネはタールベルクの屋敷を出た。
夜に一人でここを立った時とは違って、隣には頼れる人がおり、もう二度と戻らないかもしれない、ではなく間違いなく、もう二度とこの屋敷の敷居をまたぐことは無い。
それは悲しくもなくただ少し感傷的な気分で、ディースブルク辺境伯邸に早く戻りたくなるのだった。