けじめ 8
「ま、まあいい、しかし許してはいないぞ。お前後で覚えておけ……し、しかしだ、お前は、取り返しのつかない事をした、が、自分から私の元へと帰ってきたことは褒めてやろう」
……???
勝ち誇ったようにそう言うハンスに、フィーネは今度こそ困惑を顔に出した。そもそもフィーネが会いに来たのはベティーナだ、ハンスにじゃない。
いや彼もフィーネのやり直しに関わる重要な人物ではあるが、もっと後々に風のうわさでどんな風に生活しているか聞く程度で問題は無いのだ。
そんなフィーネの気持ちとは裏腹に、ハンスは勝ち誇ったような表情で、そのただ黙っていたらハンサムな顔を醜く歪めてフィーネの事を見る。
「かまってほしかったのか?本当にくだらなくて陰気臭いやつだなお前は、私の愛情が欲しいからと、あんなでっち上げまでして、自分が恥ずかしくならないのか?お前など、机に向かう以外脳がない出来損ないの片親育ちが」
「あ、あのハンス」
「黙って聞け、お前が足りない人間なのは私が、よぉく理解している、お前とは付き合いも長いからな」
罵るだけ罵ってフィーネの言葉も無視して、ハンスは続ける。
「だがな、それだけじゃ済まされない事をした、分かるかお前に貶められて今までフィアンセとして、遇してやったのに裏切られた私の気持ちが!!」
カッと目を見開いてハンスは、フィーネをじっと見つめた。
「しかし、その罪は水に流してやろう、私の元に戻りたくなったのだろう?素直になってくれて幾分気持ちも晴れた、生涯を私に尽くして生きることを条件に許してやろう、私のフィアンセ」
偉そうにそう言い切ったハンスは、自分の感情と言葉に酔っているのだなと、フィーネは、とても冷静にそう思った。
「お前は愚鈍で一人では生きていけない、そうだろう?しかし、それがわかって戻ってくるだなんて頑固なお前にしては上出来じゃないか褒めてやろう」
「え、ええと」
「しかし、楽ができると思うなよ、お前は私の人生に汚点を残した、そのことをきちんと体に刻み込んでやる」
怒りの感情と、フィーネの行動に対する異常なまでの都合のいい解釈に暴力的な発言が混ざっていて、ハンスの言葉には異様な、気持ち悪さを感じる。
しかし、よくよく考えると、彼はもとよりこういう人間だったような気もする。それに、一度だってフィーネの名前を呼んでくれたことは無いのだ。
「お前はただ私の言うことを素直に聞いて、機嫌を取っている奴隷でいれば━━━━
よくしゃべるので好きなだけ言わせておこうかと思っていたフィーネだったが、ハンスの言葉は途中で打ち切られて、彼は大きく目を見開いたまま硬直し、がくがくと体を震わせていた。
「……は、ハンス?」
「フィーネ。君はこの男の言葉をこれ以上、聞きたいか?」
ハンスとフィーネの間にいたアルノーが顔をこちらに向けずに静かな声で言った。なにやら酷く怒っているらしく顔が見える位置にいるベティーナは瞬く間に怯えてその表情を歪ませて、顔を青くしていた。
フィーネは彼の問いかけに「いいえ」と素直に思ったことを返した。
そうすると、アルノーはいつもの通りの表情でフィーネの方を振り返り、「そうか」と返す。
「俺はこの男に少し自身の矮小さを分からせてくる。君は、話を進めていてくれ」
それだけ言って、アルノーが歩き出すと、まるで操り人形のような不思議な動きでハンスは一言も発さないまま、アルノーの後ろをついていった。
「……」
「……」
パタンと扉がしまり、客間にはフィーネとベティーナの二人だけになる。
ベティーナはフィーネが部屋に入ってきたばかりの、フィーネに媚びるようなしょんぼりした視線はもうしていなくて、ハンスが連れ去られていった扉を見つめて、それからフィーネと見比べて、少し難しいような顔をした。
「……姉さまは、私たちの元にどうせ戻ってくるからって、ハンス様は言ってて、だから私も、姉さまのこと許してあげようと思って待ってたのよ?」
「……そう……そうね」
ベティーナの言葉は一見しただけなら、ハンスと同じように盲目的に自分たちに都合のいい事しか考えられない、現実を見ようとしない人間の酷い勘違いのような気がしたが、ただ、それだけではないことが今のベティーナからはなんとなく伝わってきて、フィーネは、彼女の機微を見逃すまいとじっと妹を見つめた。
「姉さまは、気弱で、私たちの事を愛していて……あれでいて意地っ張りだから、気が済んだら反抗するのをやめるんだって、ハンス様は言っていたの」
「ええ」
「………………姉さま」
「なあに、ベティ」
「戻ってきてくれたわけではないのね」
「……そうよ」
フィーネは、心苦しく思いながらも、きっとあのままこの屋敷に留まっていたら、起きることがなかったベティーナの心境の変化に、なんだか感慨深く思う。
「姉さまがいなくなってから、私、母さまとも父さまとも沢山衝突したわ」
自分から話し出すベティーナにフィーネは、少し驚いた。
「全部全部姉さまのせいで、ハンス様が大きな声を出していつもイライラしているのも、母さま達が喧嘩して怪我したりするのも全部私を置いていった姉さまが悪いって…………」
言い募るベティーナはなんだか不思議そうだった。そして、とてもあっさりと、続きを言う。
「さっきまで本当にそう思っていたのよ。でも……久しぶりに姉さまに会ったら……ハンス様のことまったく相手にしていないのを見たら……姉さまにそんな責任ないのだって、それが当たり前なのだわって、思ったのよ」
納得したように言うベティーナに、フィーネは目を見開いた。どれほど、側にいても、どれほど優しくしても、すべてを明け渡しても、成長することのなかったベティーナは今やっと都合の悪い今を直視している。
……もっとずっと長くかかるのかと思っていたわ。ベティ。
ベティーナに会いに来たのは、そういう理由だった。フィーネはベティーナのことを一度、見限っている。それでもだからと言ってこのまま放っておくなんてことは土台無理な話だった。