彼が救われた日 8
……どこに行ったって、どこかに行くことがあるの?君の腹から出てくるまではその中にいるはずじゃ……。
ふとした時の出来事だった。フィーネは本を読んでいて、カミルはそんな彼女が無理をしないように部屋の中で、姿は現していないけれどもフィーネの心の声を聴いて観察していたのだった。
そんなときの出来事である。
彼女は可笑しなことを考えていて、カミルはじっとりと嫌な汗をかいた。
『赤ちゃん。……貴方がいなくなったこと、私はどう思えばいい?』
お腹に視線を落としてフィーネは、そんな風に思った。カミルはすぐに彼女の元に駆け寄って姿を現した。それによってフィーネはすぐにカミルに気が付いて「いたのね」と普段通りの笑みを浮かべる。
『……ね、ねえ、どう思えばいいってなに』
「……? ああ、心を読んでいたのね、あまり他人にはやっては━━━
『答えてよっ!!』
いつもの小言を言おうとしたフィーネに、カミルは大きな声を出して、そう言った。信じられない事であったし、信じたくない事でもあった。しかしそれだけではない。
彼女は愛情深い人間だ。カミルもそういう部分を好きだと思っているし、それゆえに、未だに自分を貶めた人間を助けている。フィーネにはそういう性分があるはずだ。
そのはずなのだ、それなのに、あれほど存在を何度も確認して、心の中で呼びかけていたのに。
「……多分、妊娠していた。けれど出血してしまってね。もうお腹の中にいないのがわかるのよ。だから考え事をしていたの」
平然とそう言ってのけるフィーネにカミルは、押し黙った。そんな平然と言えるはずがないのだ。そんな風な、それほど器用な人間ではないはずだ。
それなのに……。
……きっと傷ついた心を押し殺しているんだ、僕に心配させないように。そうだよ、だって短い期間だったけれど君はずっと、赤ちゃん、赤ちゃんって……。
それを聞きながらカミルは、フィーネはきっとすごく良いお母さんになると信じて疑わなかったし、この可哀想な女性に本物の家族ができることを望んでいた。
だから、今目の前にいるフィーネの心を読んだのだ。なにを考えているのか、どんなに辛いのか、そしたらそれがわかったら慰めることもできるし、涙を流すことだってできると思う。
白魔法を強く使って、フィーネの感情を読んだ。けれども、いつも通りの論理的でパズルみたいな思考が積み重ねられていて、隙間なく考え事で埋め尽くされている。
ただでさえフィーネは感情の起伏が少なくて、悲しいとか苦しいとか辛いといったことを口にしない。だから、白魔法を手に入れて安堵していたのだ、これで少しは気持ちに寄り添えるかもしれないと。
けれども彼女の中には、きっとあるはずの気持ちの部分がうまく排除されていて、さらにはその気持ちの中には、カミルの前だけでも悲しんでいるという事を示すことの意義についてまで考えられていて、納得せざるを得なかった。
……フィーネは、自分の気持ちがいらなくなっちゃったんだ。
「カミル……これじゃあ貴方からも欠落人間って言われても反論ができないわね」
フィーネの感情を読んで怒った顔をしているカミルに、フィーネはそう言って、それから座ったままカミルに向かって手を広げた。おいでと言わんばかりのしぐさに、カミルは少し躊躇する。
『……悲しんで、いいんだよ』
しばらく、黙って、それから絞り出すように言ったカミルに、フィーネは、困ったみたいに笑うだけで、かがんでフィーネの胸元に抱かれるカミルの事をやさしくなでた。それから、口を開く。
「……貴方がそう言ってくれるだけで、悲しめたような気がするわ。昔はもう少し自然にいろんなことを思えていたのだけどね」
『なんでそんな風になっちゃったの』
「なんでだったかしら……よく覚えていないの」
『……』
そんな返答すら悲しくてカミルは、頭を撫でてくれる優しい腕に抱かれる事の無かった小さな魂を恨んだ。きっと、そこにいて彼女を喜ばせてくれたなら、なにか今の状況を変えるきっかけになったかもしれないのにと。
フィーネが流産してからは、どんどんと三人の状態は悪い方へと進んでいった。悪い方へと進んでいるのは三人だけでは無かった。国の情勢も大きく崩れ始めて悪い雰囲気の漂う中、時は過ぎていく。
マリアンネは変わらない暴力に、体の傷の治りが極端に遅くなって精神的に不安定になることも多かった。フィーネは幾度となく流産を繰り返し、待遇がどんどん悪くなっていく。
カミル自身も、体が悲鳴を上げていた。戻るたびにあちこちにできている床ずれと節々の痛み。すぐにでも自殺して完全な魔物にならなければ、これから先、今の体の状態に引っ張られて、精神体までも痛みをもち、理想の姿である痣のない自分ではいられなくなるとローザリンデから再三の警告を受けていた。
分かっているが、カミルは自死することが怖かった。どんなにマリアンネが痛そうなことをされていて慣れていようとも、フィーネはから望まない事を自分の意志とは関係なくやる方法を聞こうとも、死というのは恐ろしいことに変わりはなかった。
それに彼女たちはか弱い女性であって、何の楽しみも希望もなくとも必死になって生きている。カミルだけがこの状態から解放されるすべを持っていて、一抜けして苦痛のすべてから解放されることができるのだ。
けれどもそうしてしまったら、カミルの本当に些細な、けれども根底にある願いは、もう二度と叶えられない。それもカミルが自害を躊躇する要因でもあった。
それでも時というものは勝手に進むもので、ある日、マリアンネの傷を治してやっているときに、不意にマリアンネがカミルの顔をじっと見た。そして不思議そうに言うのだった。
「カミルって顔に傷とか痣があるの?」
と、理由を聞くと、ほんの少しだけカミルの顔がブレて、そんなものが見えたらしかったのだ。それはいよいよタイムリミットが迫っているということを暗示していた。
見たくない人には見えなくていいように、誰にも嫌がられないように、そう思ってなったこの体。それが正しい願いだったのか、それとも間違った物だったのかは、カミルにはわからない。
けれども怖かった。後戻りする方法は、一応残されている。そのことはマリアンネにもカミルにもローザリンデが説明してくれた。転変させる力があれば、それを戻す力も存在するのだと。
フィーネでもマリアンネでもどちらでも、カミルの事を元に戻すことができる。しかし、今更、そんな気もしなかった。大切なマリアンネを置いて、一人で生きていくことも、フィーネをほおって見て見ぬふりをすることもできそうにないのだ。
それに、二人を見ていて、どうしようもなく思ってしまうんだ。人生っていうものは、だいぶ理不尽で、どんな風にまっとうに生きたって報われない事の方が多いらしいと。
だってそうだろう。そうでなければ、フィーネが何度もあんな苦しみを味わう必要もないし、マリアンネが死ぬまで暴行され続けなければならない道理もない。
……希望もないんだ。僕は自由になりたいよ。
それに必要なことは体の死。こんなことをお願いするのはいけない事だとわかっていた、けれども、優しいフィーネなら、カミルのお願いを聞いてくれるのではないかと、思わずにはいられなかったのだ。
それに、フィーネは調和師の本当の力を知らない、マリアンネはそれを知っている。彼女を信用していないわけでは無かったが、完全にカミルの気持ちに納得してくれるとは思えなかった。
だからフィーネを選んだ。