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彼が救われた日 1




 扉をくぐると意識が浮上した。フィーネはウィンドウベンチの座面に横になっていて、眠っていたのに意識ははっきりとしていてすぐに起き上がることができる。


 部屋は明るく、あのエルザが死んだときのような陰鬱さはない。気分は落ち込んでいるけれども、あれは過去の出来事であり今ではない。重要なのは、今このときだけだ、過去の記憶にさいなまれたってなにも物事は進まないのだ。


 きっと、幼い日のフィーネも同じように考えたのだと思う。というかたしか、母が死んでからというもの、フィーネも必死だったのだ。母親が残したものを少しでも多く守るために奔走した。


 だから、落ち込んでいる時間なんてなかったのだ。そして、いつしか記憶に蓋をした。いつかゆっくり受け止められるようになるまでの間、思い出してしまわないように鍵をかけていた。


 ……でも結局、今もあの時と考えていることは同じだわ。悠長にはしてられない。苦しんでいる暇もないのよ。


 そう考えると、腑に落ちて、これからどうするかについて考えられるような気がしてきた。とにかく、今は寝起きなのだから、となりにいるアルノーのためにでもお茶でも入れるべきだろう。


 そう思い至り、彼の方を見ると、アルノーはすでに目覚めていて、その姿を見て、フィーネは驚いてしまった。


 なんせ、アルノーの綺麗な深緑の瞳からぽたぽたと涙が零れ落ちていて、彼の頬を濡らしていたのだ。なにが起こっているのか一瞬理解できずに、フィーネが固まると、アルノーは徐に手を伸ばしてきてフィーネの事を押しつぶさんばかりに、その胸に抱きしめた。


 彼の体は温かくて、分厚い胸板はやっぱり男性らしい。安心できる心地がする、しかし、それだけではなく、後頭部をさすられてあやすようにされるとどうにも落ち着かない。


 これではまるでフィーネが慰められているみたいだ。落ち込んではいても、それがわかるように顔に出してはいないし、現に泣いているのはアルノーだけで、まったくこれっぽっちだってフィーネは、辛くないのに。


「……っ、ああ、酷い記憶だ。君が、俺の事を忘れるのだって、仕方ない」

「……」

「覚えていたくなかったのだろう。君は大丈夫ではないよな。君はっ、あんなに」


 男の人の泣き声なんか初めて聞いたのだ。


 というか泣いている男の人を初めて見た。それもフィーネの過去を見て泣いている。こうしていると顔が見えないけれども、本人だって見られたくないだろうからこれで問題はない。


 しかしながら、納得してくれるのはいいけれども、そこまで感情移入してほしいとは思っていない。


 ……だってこんな風にされるとまるで、そうするのが当たり前みたいだわ。


「思い出させて、すまない。フィーネ、君は寂しかっただろう。間の悪い男で申し訳ない」


 絶対にアルノーのせいではないことに謝罪までされて、少し笑いそうになってしまうが、彼の涙が、抱きしめられたフィーネのうなじに当たってつうっと落ちていく。


 まだ、涙が止まらないのだと、フィーネはアルノーの事を可哀想に思った。それに先ほどまではフィーネだっていろんな感情がごちゃごちゃになって泣いていたのだ。


 一度、緩んだ涙腺は元に戻るまでに時間がかかる。あの記憶が悲しかったのは確かだ。けれども、しかし。


 あれがあるおかげでフィーネは先程までのどうしようもない状況を抜け出す事ができたのだ。それは喜ぶべきことで、つまりは前に進まなければならなくて、今だって、自体は悪化の一途をたどっていると思う。


「フィ、フィーネ、おこがましいかも、しれないが、俺は、君のそばにいるから」

「……」


 そう言われて、そうしてほしいと思ったフィーネはアルノーに自分の体を押し付けた、そうすると、フィーネを抱きしめていた腕に一層、力が入って、その体重も力も心地よくて、ゆっくりとなっている心臓の音に心底安心した。


「…………アルノー様は、優しいのね」

「そんなことは、ない……卑しい人間だ……」

「……どうして?」

「……こうして君の記憶を見て、君が苦しんでいる記憶の、はずなのに、知ることができて嬉しいとさえ、思っている。君が、可哀想で堪らないのに」

「……」

「すまない。見せてくれてありがとう。……俺の事も思い出してくれて」


 ……私は、貴方に感謝される筋合いはあるのかしら。……むしろそこまで想ってくれてありがとうと私が言うべきよ。


 そう思いながらも、フィーネは、部屋履きを脱いで座面に足を乗せて、三角に座った。そうするとその体ごとアルノーは自分のそばまで引き寄せて、覆いかぶさるように、横から抱きしめた。


「……記憶を見るまでは、あんなに泣いていたのに、君はもう泣かないんだな」

「そう……ね。もう、どうしようもなくはないから」


 聞かれてそう答えるが、胸がざわざわして、それでもこうしていればいつかはおさまるような気がした。こうして抱きしめられていたら、涙を流さずとも、心の傷があることを許してもらえるような気がした。


「そうか……急に抱きしめて悪かった。話の続きでもするか?」


 アルノーはやっと落ち着いたようで、フィーネから離れようとする。それを、彼の腕を掴んで制止した。


「どうしようも、なくはないけれど。……これからの事を考えなければならないけれど、大丈夫じゃない、のよ」

「……」


 咄嗟に出た言葉はそれで、母が死んだ日のフィーネと、今のフィーネは同じことを言っていた。けして意図していないのに、こぼれ出た言葉が同じだったことにフィーネ自身も驚いたが、やっとそう口にするとしっくり来た。


 涙は出ないけれども、あんなに情緒的に泣くことはできないけれども、大丈夫ではないのだ。現状だってどうしようもないわけではないけれど、フィーネ自身に出来ることもあって、やるべきでもあるけれどそれでも。


「……だいじょうぶじゃないわ」


 あんな目に合っているマリアンネの事も、望みをあきらめてしまっているカミルの事も、ローザリンデに言われたことも、人間じゃないらしいということも全部、堪えられるけれど……。


 大丈夫じゃない。だから……。


「こうしていて」


 それだけでいい、だから、なにも成果をなさない悲しむという事を許してほしい。


 フィーネはうつむいたままだった、小さく蹲ってアルノーの腕の中で、目を瞑っていた。その少女の背中があまりにも小さく見えて、抱き上げて自分の腿の上に座らせたくなったが、彼女はあの日のままの小さな幼女ではない。


 立派な女性で、可愛い人だ。だからアルノーもただ抱きしめてやるだけにとどめて、その長い髪にキスをした。以降何も言わずに、泣くことも無く、アルノーに抱きしめられる為だけに存在するような可愛い小動物を、思いつく限りの方法で甘やかして、ぐずぐずに溶かしてしまいたい衝動に駆られつつアルノーは時間を過ごした。





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