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不幸を背負って、親父は笑顔で逝った  作者: 春山 潮
第一章 親父の背中:鈴木祐也
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身代わり

 中学二年の冬、俺は放課後の校舎の屋上から飛び降りた。


 気温の低い、空気の澄んだ快晴の日だった。特に何かきっかけがあったわけではない。積み重なったものがついに溢れ出し、命を手放す決意が固まってしまったのだと、今になって思う。


 校舎から飛び出した瞬間、これまで抱えていた重しが体から離れ、まるで羽が生えたかのように心が軽くなった。だがそれもつかの間、固く冷えた砂利の地面に叩きつけられ、息が止まるほどの痛みを味わった。


 幸い打ちどころがよく、足を骨折しただけで済んだ。飛び降りる二週間前からほとんど食事を取らなくなったこともあり、念の為一週間ほど入院することになったのだが、只々白い天井に向き合いながら、生き残ってしまったことへの絶望にひたすら苛まれたこの七日間は、十代の自分にとって苦しみの極みだった。このときを超える苦痛を、俺は未だ経験したことがない。


 しかしこの退院後、不思議なことにいじめがぱったりと止んだのだ。


 複数の保護者から調査を依頼する連絡があっただとか、ただ傍観していた生徒たちから証言があっただとか、とにかく明確ないじめの状況が明らかになったことで、主犯のグループが糾弾されることになった。


 俺が自殺未遂をした日、父のノートには、自分がただ何もしなかったことへの後悔が綴られていた。


「なぜ俺は祐也に何も声をかけなかったのか」


「あいつのつらい思いを少しも理解していなかった」


「親として失格だ」


 そんな言葉が、強い筆圧で日記帳には記載されていた。そして芳名帳には、文面を繰り返し推敲したのか、何度もシャープペンシルで下書きをし、消しゴムで消した形跡が残った、幸せの譲渡記録が記載されていた。


 ――― 祐也が受けているいじめを、俺が肩代わりしたい ―――


 その記載に、母が目を見開いた。何か心当たりがあるようだった。このあたりは確か親父がリストラにあったタイミングだった記憶があるが、「いじめの肩代わり」というのが自分にはピンと来ない。


「母さん、何か心当たりがあるの……?」


 そう母に声をかけた瞬間、スマートフォンのアラームが鳴る。母も自分もまともに頭が働いていない状態だったので、葬儀場に打ち合わせにいく時刻の三十分前に、アラームをセットしていたのだった。


「……とりあえず、行きましょう。後でまた話すから」


 芳名帳と日記帳をもとの箱の中に戻し、二人で手早く支度をして玄関に向かう。


 玄関の引き戸を開けると、アプローチの前にどこからともなく一匹の猫が姿を現した。真っ白な美しい毛並みを持つ猫だったが、かなり老齢の猫のようだ。


「あら、ミイちゃん。……お父さんねえ、もう亡くなってしまったのよ。最後にあんたに会えなくて、お父さんも残念だったと思うわ。これから葬儀の打ち合わせだからね、今日はご飯あげられなくてごめんねえ」


「何、飼ってるのこの猫」


「違うわよ。地域猫で、この辺に住み着いてるの。お父さんが子どもの頃かららしいけど、一匹の猫が、かならず家にこうやってご飯を貰いにくるのよ。もう何度も代替わりしてるんだけど、毎回、『ミイ』って名前をつけて、お父さんが可愛がるのよねえ」


 母はそう言って、猫に手を振りながら車に乗り込んだ。俺はエンジンをかけながら、バックミラーに写る猫の、うしろ姿を見送った。


 * * * * *


 走水の海岸線を、眠気に腕を持っていかれないよう注意しながら、安全運転で進んでいく。

 

 うちの近くもそうだが、この辺も漁船が群れをなして泊まっている。この海辺の風景は、俺が子どもの頃からほぼ変わらない。


 唯一変わったことは、市の政策か何かで、横須賀美術館という、ガラス張りの近代的な美術館が山側に建ったくらいだ。異質で美しい白亜の造形物は、このあたりの自然の雄大さを引き立てている。


 母は漁船に視線を向けながら、先程の続きを話そうと口を開いた。


「あんたには言わなかったけど。お父さん、リストラされたあと、なかなか職が見つからなくてね。以前と同じ設備業で仕事に就けたは就けたんだけど、アルバイトだったの」


「えっ」


 てっきり正社員で再就職したのだと思っていた。だが確かに、その頃から母がいくつも仕事を掛け持ちしていたことを覚えている。


「それでね……入った会社があまり良くなくて……。いじめみたいなことをされてたのよ」


 訊けば親父が入った会社は、二代目の若社長が継いだばかりで、その若社長というのが、母曰く相当プライドの高い意地の悪い人間だったらしい。


 そして、すでに五十代だったアルバイトの親父を蔑んだ目で見ており、使い捨ての雑巾のごとく、ボロボロになるまで働かせていたのだそうだ。


 それなりに技術もあり、仕事に対して真面目だった親父は使い勝手が良かったようで、残業代を出さずに大量の仕事を任せたり、仕事がうまく回っていないときは罵声を浴びせたりと、サンドバックのごとく都合よく使っていたという。


「極めつけはね、下水道の……マンホールの下の水路の点検の仕事っていうのがあるらしいんだけど、ひどい雨の日に一人で派遣されて。普通そんな日に、点検させないらしいの。マンホールの穴のところにね、足を引っ掛けて、狭い水路の中を点検する仕事で……お父さん、足を滑らせてね。下水道の中を流されて……なんとか戻ってこれたけど、溺死しててもおかしくなかった」

 

 その日の父は、全身糞尿にまみれ、作業着を真っ茶色に染めて帰ってきたそうだ。


 財布から何から全て下水道に流されながらも、命からがら戻ってきたらしい。


 そんな話、聞いたこともなかった。いじめから開放された俺は、高校入学を転機に楽しく毎日を過ごしていた頃だった。


 いじめられていた時期に何もしてくれなかった親父に対する反抗心が募り、当時かなり辛くあたっていた記憶がある。


「そんなことがあってね……それでお父さん、うつ病になったのよ」


「なんでそんな会社、辞めなかったの。というか、なんでそんな事になってたの、言ってくれなかったの。そしたら俺――」


「大学進学諦めてたでしょ、知ってたら。だからお父さん、絶対に言うなって言ってたのよ。精神が限界を迎えるギリギリまで、なんとか耐えたの。貴方が受験を終えるまで」


 親父が自宅で倒れ、狭心症と重度のうつ病を発症している事がわかったのは、俺の大学入学直後だった。


 俺は心から、自分が親父に投げつけた、暴言の数々を心から悔いた。


 俺がいじめから開放されたのは、親父のお陰だったかもしれないのに。

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