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不幸を背負って、親父は笑顔で逝った  作者: 春山 潮
第三章 白い猫と神主:詠み人知らず
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後悔と懺悔

(ふん・・・少しは反省したか、自分の行いを)


疲れ切り、生気のない後ろ姿を、ワシは複雑な心境で見つめていた。

この女のことは好きではない。・・・だが、大事な家族を失った悲しみは理解できる。


淑恵は、秀明が廃材で直した、つぎはぎだらけの板の間を、固く絞った、使い古した雑巾で、ゆっくり、ゆっくり拭いていく。


時折休みながら。それでも着実に。床を拭き終えた雑巾は、たいして汚れていなかった。おそらく毎日、この拭き掃除を繰り返しているからだろう。


次は玄関を掃除するらしい。つっかけを足に引っ掛け、左手にちりとり、右手に箒を持ち、頼りない足取りで外へ出た。


するとたまたま通りかかった、近所の顔見知りらしき老女が淑恵に声をかけた。


「毎日えらいねえ。でもこんだけ暑いんだからよ、あんまり無理しちゃいけねえよぉ・・しかし、もう半年か。ヒデさんが亡くなってからよ。はええもんだなぁ」


この海辺の街の年寄は、男でも女でも、似たような訛りがある。静江はいいとこの娘ということもあり、あまり訛ってはいなかったが、秀明と同じくらいの年代の者達は、この様な話し方をしていた。


「・・主人が、きれい好きでしたから」


愛想笑いを浮かべながら、淑恵は泣きそうな顔をしていた。その顔を見て、老女は哀れに思ったのか、励ますような調子で言葉を続けた。


「あんたが一生懸命看病してたんだもの。きっとヒデさんも、今は極楽で幸せにくらしてるよ。あんたは精一杯生きてよ、残りの人生楽しまないと、ヒデさんの分もよ。あんたが悲しい顔してたら、きっとヒデさんも悲しむよ、な」


「私、でも、あの人がこんなに早く逝くなんて、思ってなくて。自由に外に出れなくて、毎日怒られて、なんで私がって、ずっと思っていて。・・もう余命幾ばくもないあの人に、ひどいことを言ってしまって・・・きっと、私のことを恨んでると思うんです、あの人」


そう言って泣き始めた淑恵を見て、老女は淑恵の背中を優しく擦る。


「あんただけじゃないよぉ。あたしもよ、旦那の介護をいやいややってさ、だいぶひどいことを言ったもんだよ。あんた一人で世話してたんだろ、家で。ヘルパーさんも毎日来てくれるわけじゃねえし、腹が立って、ひどいこと言っても仕方ねえよ。きっとヒデさんはあんたに感謝してたと思うよ」


「そうでしょうか・・・」


淑恵は自分の袖で、涙を拭いながら、腑に落ちない顔をしてうつむいた。


老女が去った後も、定期的に誰かがやってきては、淑恵に声をかけている。

このあたりは年寄りが多いので、お互い支え合って生きているのだろう。


しかし、誰に声をかけられ、励まされ、慰められようとも、淑恵の小さく丸まった背中が、伸びることはなかった。


夕食の時間になり、淑恵はようやく、自分の食事の支度を始めた。


だが、淑恵が作ったのは、クタクタに煮た米と、わかめの味噌汁と、梅干しだけだった。それをまずは小さな食器に盛り、仏壇に飾られた秀明の笑顔の遺影の前に静かに置く。


そうして仏壇の前に座り、手を合わせた淑恵は、再び泣き始めた。


「お父さん・・ごめんなさい。最期に優しくできなくて。こういうのじゃないと、食べられなかったのよね。脂っこいものとか、固形物じゃなくて。今頃気づいてごめんなさい・・・」


やせ細った老婆の背中は、小さく、震えていた。


「お父さんは、いつも、私に優しくしてくれたのに。生きてるときは、当たり前になってて、全然気づけなかった。


足が悪い私のために、歩調を合わせて歩いてくれてたわよね。段差では手を貸してくれて。


買い物好きな私のために、悪態つきながらも、いつも付き合ってくれたわよね。


それから・・それから・・・・」


ぼろぼろと、大粒の涙を畳に落としながら、淑恵は、秀明への感謝の言葉を、ひとつ、ひとつ述べていった。


噛みしめるように、謝罪の言葉を合間に挟みながら、自分が食事をすることも忘れて、ひたすら仏壇の前で言葉を紡ぎ続けた。



ワシは、ひたすら、淑恵が紡ぐ言葉を、隣でずっと聞いていた。

いにしえに作られた、「人を呪い殺す道具」に、感情は存在しない。そして涙を流すことはできない。なぜなら、人間ではないからだ。


そのはずだった。


だが、ワシは確かに「泣いて」いて、「悲しい」と思っていた。

ハラハラと自分の目からこぼれ落ちるしずくは、地面に落ちては、その場に溶け込むように消えていく。


そして淑恵の後ろ姿に、静江を失った直後の、自分自身を重ねていた。


(なぜ、生きているうちに、わかりあえなかったのだろうか。確かにお互いを想っていたのに、どうして、想いは通じ合わなかったのだろうか)




この日から、ワシは淑恵の家にいつき、懺悔の日々を重ねる淑恵を、静かに見守っていた。


淑恵は毎月の月命日に、秀明の墓を訪ね続けた。

雨の日も、風の日も、暑い日も寒い日も。


風邪をひいて、多少体調が優れなくても、彼女が毎月の墓参りを欠かすことは一度もなかった。


そして毎回、小高い丘の上にある最愛の夫の墓に、謝り続けた。


しかし、秀明の死から、ほとんど眠らず、きちんとした食事も取らなかった淑恵は、秀明が亡くなってからちょうど二年が経とうとしていた頃、墓参りの帰り道で気を失い、病院に運ばれた。




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