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不幸を背負って、親父は笑顔で逝った  作者: 春山 潮
第三章 白い猫と神主:詠み人知らず
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白い猫と赤子

 一体、自分はどれだけの年月をこの崩れた御殿の中で過ごしていたのだろうか。


 久方ぶりに外へ出てみて、そこはかとない違和感を感じた。ワシと静江が居所にしていた建物は、海岸線にほど近い小さな山の上にある。その山から見下ろす風景が、自分の知るそれとはだいぶ違うように思えた。


 静江と神社で逢引をしていた頃に比べると、町全体がどことなく、みすぼらしい。自分の御殿のひどい有様までとは言わないが、補修の跡だらけの家もあるし、道をゆく者の服装もどこか薄汚い。かつて着ていた着物よりも、動きやすさを考慮したような作りのものを着ている。


(まるで、戦の後かのような様子だ。ワシが引きこもっている間に、どこぞの国と大きないさかいでもあったのであろうか――)


 山の上にいても、これ以上様子を探ることができない。相変わらずおぼつかない足取りで、もはや何十年と手入れのされていない荒れた山道を、ゆっくりと、滑り落ちたり転んだりしながら、なんとか町のあたりまで降りることができた。


(ああくそ、四本足の動物が、これほど動きづらいとは思わなんだ。昔は猫の体を乗っ取ることなど造作もないはずだったのだが。人の形で長くいすぎたせいだろうか)


 町を歩く人間共は、誰もが皆痩せこけ、疲れ切った顔をしている。誰かの写真を抱えて涙を流し続けるものもあれば、お腹が空く子どもを困った顔であやす女の姿も見た。たまに道端で笑いあう人々の姿も見かけたが、皆、これからの行く末に不安を覚えているような表情だった。そして見慣れた顔立ちの人間たちに混じり、堀の深い顔立ちで、変わった色味の目をした軍人らしき男たちの姿がある。


(なるほど、あの変わったいでたちの人間の国に、おそらく負けたのであろう。これはしばらく、いい餌場は期待できそうもないな・・・)


 時代の変化を目の当たりにしたことで、御殿にこもっていたときよりも気は紛れてきたように思うた。そして――すくなくともここに住む住民の何割かが、おそらく自分と同じように、最愛の者を亡くした悲しみにくれているであろうことを想像すると、少しだけ、頑なに閉じられた心の紐が、緩められたように思う。


(――やはり猫になって彷徨う、というのは悪くない案だった)


 慣れない体で一通り町の中を歩き回ったことで、思っていた以上に疲労が蓄積されたのであろう。眠気から足元がおぼつかなくなり、桟橋の入り口でのんびりとうたた寝をし始めたところで――「おぎゃあ、おぎゃあ」という赤子の大きな泣き声に起こされた。


「なんじゃうるさい。お陰で目が覚めてしまったではないか・・。どれどれ、ワシを起こした犯人の顔でも拝んでやるか・・」


 ブツブツ心の中でそう言って、人間の大人の背丈ほどある塀から、ひらりとコンクリの地面に飛び降り、上手に着地を決めた。


 桟橋の目と先にあるその家も、他の家と同様、みすぼらしい外壁をしている。縁側から家の中を覗くと、まだ若い母親が、先程の泣き声の主であろう赤子に、乳をやっていた。


「母さん、ひであきおなか空いてたんだね。もう泣かないねえ」


 まだ五、六歳くらいだろうか。その赤子の兄らしき、これまた痩せこけた子どもが、母親に向けて話しかけている。


「そうねえ。ちいさいころは、あんたもよく泣いてたのよ。秀明、たんと飲んで、大きくおなり」


「ひであきは、ばくだんがおちてこないときに生まれてよかったね。ぼく、ひであきが大きくなったら、たくさんたくさん、ひであきとおそとで遊ぶ。ね、いいでしょ? もうかくれなくてもいいんだよね?」


 少年は期待を込めて母に尋ねている。


「そうねえ・・もう、戦争が終わって三年も経つからね・・。」


 親子は、どこか遠くを見るような眼差しをして、しばらく黙っていた。二人が話している間に「秀明」は、満たされたのか、穏やかな顔をして眠りに落ちている。


(・・・静江も子どもが好きだった。――きっと、人間の男と結婚していたら、生まれた子どもを、それはもうかわいがったことだろう。もしも、生きているうちに思いが通じ合っていたとしても、ワシに子どもを与えてやることは出来なかった。・・人間とあやかしの間に子どもは出来ぬ)


 子どもを抱くこの母親の姿が、なんとなく静江の姿に重なった。するとなんとも言えなく心が締め付けられ、せつない気持ちになる。


 彼女を想って胸が締め付けられるこの感覚は、きっと自分の生がある限り消えないのであろう。



 それからワシは、何となくこの赤子の「秀明」のことが気になって、この家の縁側に定期的に入り込むようになった。


 特に意味があってしていることではない。「暇つぶし」であるとも言えるだろう。


 ――ただ、なんとなく、子どもというもののの成長を、見守ってみたい気分になっていたのではないだろうか。

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