夜逃げと提案
彼女が去った後、鳥居の向こう側に見える海をしばらく眺めていた。
今日はどうやら風が強いらしい。いつもに比べ、波が高く、海面のあちこちで白い水しぶきが上がっているのが見える。
(彼女の結婚を阻止し、願いを叶え且つ、自分のそばに置いておくには――)
彼女の希望を叶えながら、自分の欲望を満たす方法について、頭を悩ませた。気に入らないものは排除し、相手の感情など関係なくやりたいようにやってきたワシにとって、相手のことを思いやりながら最善の策を考えるということは、とてつもない難題に思えた。
ふと、もはや忘れかけていた「日記帳と芳名帳」のことが頭をよぎった。
ワシが横にいて、不具合の出ないよう目を配っておけば――医者にしてやることは出来ないが、人の病を治したいと願う、彼女の希望を叶えつつ、この先ずっと彼女と一緒にいることができるかもしれない。
結婚話は、人の心を操る術を得たワシにかかれば、破談にするのは容易い。そして、「病を治す不思議な力を操る巫女」として、認知を得れば。ワシは巫女を支える側仕えとして、彼女を支え続けることができる。
ワシはほくそ笑み、思いつきではあったが、自分の身から出た素晴らしい策に、心から満足した。そして早速、その策を実行に移すことにしたのだ。
(――ただ問題は、彼女が再びここに来てくれるかどうかだ。彼女が来てくれねば、計画を実行に移すことが出来ぬ。どうかどうか、明日、またここに来ておくれ。ワシはどうしても、お前のそばにいたいのだ)
しかし彼女は、翌日も、その次の日も、神社に姿を現さなかった。
たった数日など、瞬きの瞬間にも届かぬ短い時間だと思っていたワシが、こんなにも焦れることは、この数百年のうち一度もない。
一日中神社の境内をウロウロしつづけたワシは、彼女の悩みを聞いてから、ようやく五日後に、求め続けた愛しい相手の姿を、鳥居の前で見つけた。だが、彼女が現れたのは、いつもの夕刻ではなく、丑三つ時に近い頃だった。
――彼女はいつもの「せえらあふく」ではなく、和服を着ている。そして目に涙を溜め、決意の表情で、手には大判の風呂敷に包まれた大荷物を持ち、背中にも荷物を背負っていた。
私の姿を認めた彼女は、力強い足取りで、小走りに私の元へやってきた。
「よかった・・お会いできた。こんな真夜中に、申し訳ありません。事前にご連絡したら、両親に私の謀が知られてしまう可能性があるのではと思って。恥を偲んで、参りました・・お願いです、私を連れて、逃げていただけませんでしょうか・・」
彼女の大きな目に溜まった涙が、ポロポロとこぼれ落ちた。
「無理なお願いを・・・無理なお願いをしているとは重々承知しております。毎日ご挨拶をして、先日初めてお話をさせていただいただけの関係にございます。・・実は正式に結婚が決まりまして・・。女学校も、退学の日取りが決まりつつあります。もう、頼れる方が、あなたしかいないのです・・」
顔を覆い、その場で泣き崩れた彼女を、両手で抱き寄せた。
どれだけの決意で、ここまで来たのだろう。この真っ暗な闇の中を、不安な思いを抱えて一人、ここまで歩いてくるのは、さぞ恐ろしかったことだろう。
そう思うと、彼女を抱きしめずにはいられなかった。
「お名前をお伺いしても?」
両腕で強く抱きしめたまま、彼女に問うた。
「・・勝浦・・静江と申します。・・あなたの、お名前もお聞きしてもよろしいでしょうか・・。神主さんと思いこんでおりましたが、こちらの神主さんはご年配の方だと父から伺いまして・・どちらかから修行か何かでいらしているのでしょう?」
そう聞き返されて、困った。
地の人間であれば、確かにここの神主がどんな人物かを知らぬはずがない。遠方から修行に来ている、という彼女の勘違いに乗るにしても、名前に関しては、考えたこともなかった。
使役されていたときの呼び名はあったような気がするが、それは名前ではないし、第一覚えていない。視線を泳がせているうち、近くにかかっていた絵馬が目にはいった。彼女の直接の知り合いに当たらないことを願いつつ、絵馬から名前を拝借することにした。
「・・貴久、荏田貴久と申します。貴久とお呼びください。・・それと。逃げるよりも良い方法があります。私に任せていただけますか。結婚も破談に出来ますし、お医者様にして差し上げることは出来ませんが、静江さんの『人のために尽くしたい』という願いも叶えることが出来ます。ただその代わり・・私をずっとそばに置いてはいただけませんか。結婚してくれなどとは言いません。――ただ、私はあなたのそばにいたいのです」
ワシの一世一代の告白に顔を赤らめながらも、彼女はやはり「逃げずとも自分の希望をすべて叶えられる」という突拍子もない話に困惑したらしい。
「あの・・あなたは一体・・? どうやってそれを実現できるというのでしょう」
それは当たり前の疑問であるだろう。今の世の中で、女が家のしがらみや、結婚から逃げるには、失踪するか駆け落ちするか、身を投げるかくらいしか選択肢はない。
「・・私はね、神の力をお借りできるのです」
自分があやかしの類である、と打ち明けることはできなかった。それによって、彼女が恐れて自分から逃げてしまうのが怖かった。それに、世間一般のあやかしに対する認識がよくない。まあ、悪さをする人外のものの総称を言う言葉ではあるし、自分もこれまでさんざん命を弄んできたので、間違ってはいないのだが。
この九百年で初めてワシは、今日、「見栄」というものが何かを理解したのだった。