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不幸を背負って、親父は笑顔で逝った  作者: 春山 潮
第一章 親父の背中:鈴木祐也
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幸せを切り売りする力

 藍色の日記帳の初めには、『この日記帳を契約書とし、契約の履行については別に用意された芳名帳に幸せの譲渡先を詳細に記載すること』と手書きで記載されていた。


 筆跡はかなり達筆、というか昔の人の字のようで、見覚えのある父の字ではない。契約書としては形式が妙だし、「幸せの譲渡先」という表現に首をかしげる。一体これは何なのだろう。


 その一文の下には親父の署名と血判が押されていた。さらにそのあとに、この日記帳を書くに至る経緯が親父の言葉で綴られていた。


『契約書のためにノート一冊無駄にするのはもったいないので、この機会に日記を始めることにする。文章を書くのはあまり性に合わないが、この契約を履行する経緯を記録に残し、後々後悔しないために筆を取ることにした』


 俺と母は、顔を見合わせた。父は誰とこの不可解な契約を結んだのだろうか。


 想像もしていなかったような内容から始まったノートに二人とも戸惑いながら、とりあえず読みすすめてみることにした。


 そこには、数奇な運命に翻弄された、人の幸せを誰より願う、愛すべき父、鈴木秀明の人生が詰まっていたのだった。


 * * * * *


 昭和四十年当時、鈴木家は牛乳販売店を営んでいた。高校二年生だった父親は、勉学に励みながら早朝と夕方の牛乳配達に精を出していた。


 親父は六人兄弟の次男で、上に兄が一人、下に弟が二人と妹が二人いる。長男はすでに高校を卒業しており、外に働きに出てしまったため、父が弟妹の面倒をみながら、家業を手伝っていた。


「おうい、あきら、配達の時間だぞ!起きろ!」


 くりくりした目が印象的な丸顔の秀明は、二つ下の弟の頭を軽くひっぱたいた。


「いてえよ兄ちゃん。もうちょっと優しく起こしてくれよな」


 眠気眼を両手でグリグリとこすりながら、三男の彰はむくりと起き上がった。


「もたもたしてっと配達先回りきれねえだろ、早く着替えろ」


 すでに制服姿の秀明は、先に牛乳を積み込む準備をしていたらしく、額に汗が光っている。彰より小さな弟妹たちは、まだ配達を手伝える年ではないので、皆すやすやと眠っていた。


 鈴木家は決して裕福な家庭ではなく、子どもが多かったこともあって生活はカツカツだった。そのためアルバイトをたくさん雇うことはできず、次男の秀明と三男の彰は、牛乳配達業務における貴重な戦力だったのだ。


 秀明は一足先に、二丁目の配達に出かける。漁港に面した家の前の通りは、海風が気持ちいい。晴れた夏の朝に浴びるこの海風が、秀明は大好きだった。


 時刻は七時を回るか回らないかの時間帯だが、すでに家の前を掃いている主婦たちの姿が見える。カチャン、カチャンと、牛乳瓶同士がぶつかる音をさせながら、各宅に設置された木製の牛乳箱に秀明は牛乳を配達していった。


「あら、秀明くん、今日も早いわねえ」


「おはようございます! 朝自転車とばすと、一日調子がいいんですよ。はい、山田さんちは三本でしたね。おばあちゃん、具合はどうですか?」


「心配してくれてありがとうねえ。もうすっかりよくなったわよ」


 人懐っこい秀明は、近所の人によく可愛がられた。小さな弟妹がいるせいもあり、子どもの面倒見もよかったため、地域の子どもたちは秀明のことを「秀ちゃん」と呼んで慕っていた。


 漁港沿いのコンクリ塀の上には何匹も猫が丸まっている。このへんの猫は皆、毛並みが良い。漁師が傷物の新鮮な魚を、桟橋でおこぼれを待つ猫たちに分け与えてやるからだ。


 青魚を食べてまるまると太った猫たちを横目で見ながら、「気持ちよさそうに寝てらぁ」と一言呟き、秀明は自転車を走らせる。


 この日も一通り宅配先の人々と立ち話をしてから、自宅である牛乳店に向けて自転車を走らせ始めた。


(いけねいけね、喋りすぎちゃったな。急がないと学校に遅刻する)


 急いで自宅に到着すると、何やら家の前に人だかりができている。


 背中に、不意にヒヤリとしたものが走った。


 (なんだか……嫌な予感がする)


 家の間の道路には、流血の跡があった。


 秀明は急いで自転車を家の脇に止め、人だかりの中心に分け入っていく。



 ――そこには、血を吐いて横たわる彰の姿があった。



 先程まで暑さで吹き出していた汗が一気に冷え、たちまちに冷や汗と変わる。あまりの惨状を目にして、秀明は息がうまくできずにいた。


「彰! おい、しっかりしろ」


 弟に呼びかける悲痛な叫び声を聞き、一部始終を見ていたらしき本家のおじさんが、秀明を認めて声をかけてくる。


「彰くん、牛乳配達から戻ってくるところで、脇見運転をしてた車に轢かれたんだ。轢いた相手は逃げちまった……。こんないい子が、なんでこんな目に」


「救急車は?」


 秀明は再び叫んだ。血みどろの三男は、呼吸が浅く、顔が真っ青だ。誰が見ても重症なのは明らかだった。


「もうちょっとで来るらしい! 彰くん、頑張れよ!」


 当時消防車が配備されていた数と場所は限られており、今ほどの短時間で救急車が到着することはなかった。三十分ほどたった後、救急車が到着し、彰は近くの総合病院に運ばれていった。




 彰が運ばれてから数時間後、救急車に同乗していた父から電話がかかってきた。父の説明によると、彰はかなり危ない状態で、今夜が山らしい。


 秀明は一番仲の良い弟の命の危機に、とても家から離れる気になれず、これまでの人生で初めて学校に行くことができなかった。



 夕方まで部屋の隅に体育座りをしていた秀明は、何か思いついたように、重い体を引きずるようにしながら、ゆっくりと立ち上がった。


 まるで幽霊のように虚ろな表情で、家族にも何も告げずに家を後にする。秀明が向かった先は――家からほど近いところにある、八幡神社だった。


 秀明の姿を目にした近所の人たちは、秀明のあまりの落ち込みように、誰も声をかけることができなかった。


 小さい町のことなので、すでに彰の交通事故は、ご近所中に広まっている。


 ゆっくりと鳥居をくぐり、手を清めると、一回、二回と、丁寧に参拝を積み重ねていく。彰の回復を信じ、自分の命を差し出さんばかりの勢いで祈りながら、三十回、四十回と繰り返し、ついに百回目を達成する頃には、あたりは闇に包まれていた。


 願いを成就させるために、口を真一文字に結んで、黙って参拝を続けていた秀明だったが、ついに耐えかねてその場に崩れ落ち、ワアッと声を上げて泣いた。


(どうか、どうか、神様。弟を助けてください。俺の大事な弟を、天国に連れて行かないでください。まだ、中学生なんです。これからたくさん、楽しいことがあるはずなのに)


 どんなに声を枯らして泣いても、神様がそこに現れて、秀明の願いを聞き入れてくれるわけではない。


 そんなことは秀明にだって重々わかっている。しかし、諦めきれなかったのだ。


 一縷の望みでもあれば、今はすべての可能性にすがりたかった。



 そうしてしばらくの間、その場で泣き崩れていた秀明だったが、すでに日はとっぷりと暮れ、子どもが外を出歩くには遅い時間でもある。


 (母ちゃん、心配してるよな……)


 地面に伏していた体を起こそうと、立ち上がろうとしたその時。


 ――自分が跪いていた神社の地面から、音もなく漆黒の闇が広がった。



 あたりから一瞬にして、一切の明かりが消える。

 驚いた秀明がおそるおそる顔を上げると――目の前には、まるでそこだけ暗闇をくり抜いたかのように、神主姿の男が立っていた。


 だが、秀明が知っているこの神社の神主ではない。絹のように滑らかな肌をしており、この世のものとも思えないほどに美しい顔立ちをしていて、涼しげな目元は人の心を全て見透かしているかのような恐ろしさがあった。妖しげな男を怪訝な顔で見つめていると、かすかに後光を放つその人物が口を開いた。


「……ワシはお前の純粋な魂を、これまでずっと見守っておったものだ。周囲の幸せを願い、自分を犠牲にするお前の清らかな心に敬意を評し、特別な力を授けよう」


 目の前で次々と巻き起こる、想像もつかないような不思議な出来事に、腰を抜かしかけていた秀明だったが、男の言葉を聞いて即座に飛び起きた。


「弟を……助けてもらえるんですか?」


 鼻水でグシャグシャになった顔で、秀明は神主に問う。


「弟が助かるかどうかは、わからん。ワシがお前に与えられるのは、『自分の幸せを他人に切り売りする力』だ。与えたいだけの幸せと与える相手をこの芳名帳に記載せよ。弟に幸せを分け与えれば、お前の弟の命は助かるだろう。……ただし」


「ただし……?」


「力というものは等価交換だ。お前は幸せを与える見返りに、相手から相応の金銭を受けよ。さすれば均等は保たれる。命を助くるならば、かなりの額が必要になるが」


「……弟や助けた人から……お金を受け取るなんてできません」


「……そうか。そうなるとお前はその分の不幸をかぶることになる。分け与えた分の幸せは補填されん。度重なれば命を失うことになるかも知れぬ。それでもいいというのか」


 鼻水を腕で拭い、太陽のような笑顔でニカッと秀明は微笑んだ。


「俺が不幸せを被ることでみんなが幸せになれるんなら、安いもんだ。ありがとう、神主様」


 悩みもせず、間髪入れずにそう答えた秀明に、神主の姿をした男はあっけにとられた。そして戸惑ったような、困った顔をした後、懐から出した芳名帳と日記帳を、秀明に手渡した。


「ここに署名と血判を。そして、こちらの芳名帳に、弟の名前と、受け渡す幸せの子細を書け。本来ならばお前は大きな不幸を被ることになるが、……私が半分受け持ってやろう。その代わり、もうお前に助言をしてやることはできなくなる。ーー大切に使え、自分の幸せが尽きぬよう」


 秀明は渡された小刀で迷いなく親指の表面を切り、血判を押した後、筆で署名し、神主の言うとおり子細を芳名帳に記載した。


 そして借りた道具を神主に返そうと前を向くと、もうすでに目の前にいたはずの神主の姿はない。手に持っていたはずの小刀と筆も消えていた。――秀明の手元に残ったのは、真新しい日記帳と芳名帳だけだった。



 翌日、奇跡的に弟の彰は意識を取り戻した。もはや諦めていた医師は度肝を抜かれ、家族は狂喜乱舞した。その後まるで魔法のような回復力を見せ、無事退院した彰は、再び牛乳配達に復帰できるほどに元気になった。


 しかしその後、秀明たちの父親の菊次郎が体調を崩し、療養を余儀なくされる。


 国公立も狙える学力があると、担任の教師にも太鼓判を押されていた秀明だったが、家族の生活のため家業を優先し、大学進学を泣く泣く諦めることになった。

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