あなたの幸せのために、私ができること
仁くんが泣き止むまで、私はそのまま彼を抱きしめ続けた。どれだけの間、一人で抱えてきたのかと思うと、胸が締め付けられる想いだった。
落ち着いてきたタイミングを見て、他に頼れる大人はいないのかと問うと、祖父母とも他界していて、普段連絡を取り合うような親族もいないという。
この状態の仁くんをこのままここに置いておくのはあまりに可哀想だ。事情を知ったからにはなんとかしてやりたいと思い、まずは母に相談してみることにした。
「……あ、もしもしお母さん? ちょっと相談があって……」
電話越しに、母の様子を探りながら話を切り出していく。
「とりあえず、もう四時だし帰らなきゃと思ってるんだけど。けどまだ仁くん泣いてて……どうしようかと思ってるんだけど」
既に泣き止んでいる仁くんが、エッ、という顔をしたが、唇に人差し指を当て「静かに」のポーズで合図を送る。
すると、母からは、思った通りの回答が返って来た。
「ちょっとあんた! その子まだ十六歳なんでしょ? 置いて帰るなんてとんでもない。連れて来なさい、お母様のお骨も持って。お父さんには私がうまく言っとくから。世の中、持ちつ持たれつよ。とりあえず落ち着くまで、うちに居させてあげましょ」
私は母のその言葉を聞いて苦笑いをするとともに、やっぱり母だなと思った。母は、元々東京の下町出身で、情に熱いところがある。きっとこの話を聞いていてもたってもいられなくなるだろうと思っていた。
しょっちゅう喧嘩はしているが、私は母のこういうところをとても尊敬している。
「わかった。ありがとうお母さん」
電話を切った後、私は仁くんにとりあえず数日暮らせるくらいの衣服と持ち物をまとめるよう言った。
「ありがとうございます」と何度も繰り返し、再び泣きながら支度を始めた仁くんの荷造りを、私は一緒に手伝った。
* * * * *
翌日。
大学の授業の最後のコマを終えた後、私はその足で市民病院へ向かった。
川崎駅に着いたあと、駅ビルのトイレで身なりを整える。
(一世一代の勝負だから。綺麗にしていかなきゃ)
今日はここぞというときに着る、アイボリーのきちんと目のワンピースに身を包み、血色のよく見えるメイクを施した。化粧が濃くなりすぎていないから、髪の毛が乱れていないか、再度鏡をチェックする。
そして病院に向かうバスに乗る直前に、あるものを買ってきた。
――あの人は。絶対に人に弱ったところを見せない人だから。きっと励ましや同情は受け付けないだろう。
昔仕事で辛いことがあったとき、信じていた人に騙されたとき、そして抗がん剤の副作用が辛い時。家族には「まぁ、なげえ人生生きてりゃ、こういうこともあるよなぁ」と困った顔で言って、なんでもない風を装っていた。
しかし一人で夜更けに近くの桟橋まで足を伸ばして、こっそり涙に暮れていたのを、私は何度か見たことがある。人に心配させたくない、自分のせいで、家族を不安にさせたくない。だから辛いことは、自分一人で引き取る。それが彼の矜持だった。
実際、森本さんも、着実に体は弱っているものの、口だけは達者で、看護師さんや相部屋の患者さんに、しょっちゅう冗談を言っているらしい。
彼のその笑顔の裏に、静かな絶望と悲しみが潜んでいることを、知る人は多くない。
(きっと、「元気出して、一緒に頑張りましょう」なんて言ったって、「ありがとな、みさきちゃんも学校頑張れよ」で、終わり。人知れず傷ついたまま、静かに終わりに向かおうとしているあの人に、もう一度生きる気力を取り戻してもらうためには――)
バスが、目的の停留所に到着した。森本さんが入院している病院はバス停からすぐ見える場所にあった。
ネットの予約システムから、事前に面会受付は済ませてある。わざわざ病院で受付票を記載しなくていいのは便利だなあと思った。世界的にある感染症が流行った際に導入されたものらしい。
(森本さんが入院してるのは……南棟の三階か)
エレベーターに乗り込み、三階のボタンを押す。彼の病室が近づいてくるに連れ、だんだんと緊張して来た。耳の近くで、ドクンドクンとなる音が聞こえる気がする。
手が白くなるほどに、右手を握り締めながら、開いた扉の外に一歩、二歩、三歩と踏み出していく。
ナースステーションに挨拶すると、こちらも機械の受付システムへと案内された。スマホに表示した受付票を読み込むと、扉が開き、病室の方へ入れるシステムになっているそうだ。
(生まれ変わってからは、誰かのお見舞いに来るなんて初めてだなあ。最後に病院にお見舞いに来たのは、あの人が亡くなる前日だものね。そりゃ、色々仕組みも変わるわけね)
いよいよ私は彼の病室の前に立った。深呼吸をして、呼吸を整える。そうっと覗き込むとーー窓の外に目をやる、最後に会った時から根本がだいぶ伸びた、金髪の頭が視界に入った。
部屋は相部屋で、四人部屋のようだった。一人はどこかに行っているようで、残りの二人は、私の姿を見て、おもむろに病室を出て行った。……なんだか気を使わせてしまったようで申し訳なくなる。だが、これから自分がしようとしていることを考えると、正直ありがたい。
ゆっくりと、歩みを進める。うしろ姿の彼は、だいぶやつれて見えた。その姿に、胸が苦しくなる。
この人は今世で、どれだけの苦しみに一人耐えて来たのだろう。
「森本さん」
「……お、今日の点滴担当はだれかな? ……って、みさきちゃん?!」
振り返った森本さんは、驚愕の表情で固まった。状況が理解できないらしい。
「仁くんが、連絡くれて……」
「……ああ、そういや俺のスマホ、家に置きっぱなしだったなぁ。あいつめ、余計なことを。……ごめんな、心配さして……でもよ」
食事をとっていないせいか、肌艶が悪く、頬もこけていた。困ったような笑顔を浮かべた森本さんは、私が予想していた通りの言葉を口にした。
「今うち、こんな状態だしさ。俺の仕事も、この通り危険と隣り合わせの仕事だし。……みさきちゃんは、前途有望な大学生だろ。俺みたいなのとかかわってると、幸せ逃げちゃうと思うんだよな」
典子さんの言葉が、やはり彼の心に深く突き刺さっていたのだろう。そして、自分の不幸に、私を巻き込むまいとしているのだ。
「だからさ。勉強頑張って、いい会社入って。んで、いい男捕まえて、幸せになれよ。応援してるからさ」
「あの……!」
下を向いていた森本さんは、ここで初めて、私が目にいっぱい涙を溜めていることに気がついたらしい。
「えっ。おい泣くなよ、ていうか、なんで泣いてんの……」
「お母様のこと、お悔やみ申し上げます。大変な状況の中だと思いますが、私、どうしても森本さんに伝えたいことがあって来ました」
私の言葉を聞いた森本さんは、キョトンとしていた。予想していなかった反応だったのだろう。
「森本さんは……お人好しで、人に騙されやすくて、軽くて、お調子者で……」
「え……? ちょっと待って、俺、軽くディスられてる……?」
「でもっ、誰よりも暖かくて、情に厚くて……優しくて。誰かのために、掛け値なしに、捨身で尽くせる素晴らしい人だと、私は思っています」
私の真剣な眼差しに、それまでふざけていた森本さんも真顔になった。
「私はそんな素敵な人を、不幸にしたくないんです。私が、幸せにしたいんです」
私は背中に隠し持っていたあるものを、森本さんの目の前に、両手で差し出した。――それは前世で、彼が私に差し出したと同じ、ワインレッドのバラの花束だった。
「森本さん、大好きです。一生大事にするので……私があなたの幸せを守るので。だから……私と、結婚してください」