小さな不幸
怒りを全面に押し出したような表情の典子さんは、私と森本さんを交互に睨みつけた。
「なんであたしの相談事は聞けなくて、この女のために時間は取れるのよ」
何もこんなところで、しかも大声で喧嘩を売らなくてもいいのに、と思った。初対面もそうだが、常識的な感覚を持っているとは到底思えないその態度に、思わず眉をひそめる。
「居場所、言っちゃったんですか」
私は、森本さんに小声で確認した。
「……新百合でデートって、言ったかも……」
前世の傾向から察するに、相談を断るついでに、うかれ調子でうっかり口を滑らせたのだろう。私は小さくため息をついた。まあ、それでわざわざそのデートの現場に割り込んで来る方もどうかと思うが。
「典子、とりあえず場所を変えよう、な。ここじゃ他の人の迷惑になるし」
なんとか宥めようとした森本さんだったが、逆効果だった。
「話をごまかそうったってそうは行かないから! 息子が病気で大変だから、またちょっと工面してよって言ったのに。女子大生とデートする余裕があるんなら、助けてよ」
話の方向性が見えてこない。てっきり仕事とか、人間関係の相談か、または相談を口実としたアプローチかなにかだと思っていたのだが。しかも息子がいるということは、シングルマザーなのだろうか。
彼女のことを配慮してか、森本さんは典子さんに向かって、小声で答える。
「お前最近おかしいぞ。先週も渡したばかりだろ? 本当にそんなに大変なら、市役所の窓口でちゃんと相談しろ。色々制度もあるし、長い目で見たらそのほうがいいから」
森本さんは本気で心配しているようだったが、私は彼女の身なりを見て、彼女の話がすぐに嘘だと思った。
肩にかけているバッグ、カットソー、ジーンズも、どう見ても安物ではない。しかもネイルアートまでしている。爪の根本がほとんど伸びていないところを見るに、比較的最近サロンにいったのではないだろうか。
どう贔屓目に見ても、生活困窮者がするファッションではなかった。
「あの……部外者が口を挟んで申し訳ないんですけど。典子さん……そのネイルアートって、いつしました? 私も友達に付き添って行ったことあるんですけど、それ、結構凝ったタイプのやつだと思うんです。ワンカラーじゃないし、装飾も全部の爪についてるし。軽く見積もって、一万円以上しますよね。根本がほとんど伸びてないところをみると、たぶん、一週間以内には行ってると思うんですけど……」
一万円、という金額を聞いて度肝を抜いたのは森本さんだった。
「え……! あれってそんなにするもんなの?」
男性でもネイルアートを楽しむ人はいるが、ごく一部だろう。やったことがなければ、値段など知るはずもない。
「森本さんからもらったお金、何に使ったんですか? ……息子さん、本当に病気なんですか?」
鈍い音が、自分の耳の近くで鳴った。それと同時に、じわりとチリチリとした痛みが頬に広がる。
典子さんが、私の横っ面を、思い切り平手で叩いたのだ。
もう一発たたこうとしたのを、森本さんが典子さんの腕を掴んで止める。
「おい! 何すんだよ!」
「あんたに何がわかんのよ! 」
通行人が、ちらちらとこちらを見ているのがわかる。多分、男の取り合いか何かだと思われているだろう。
頬の痛さよりも、好奇の目にさらされていることのほうが辛かったが、とりあえず問題を収めることが先決だ。
「あの……社会に出て働いたことない私がこんなこと言うのもあれですけど。
あなたが森本さんからもらったお金は、この人が一生懸命、自分の家族の生活のために汗水垂らして稼いだお金なんです。
もしも……もしも嘘ついてお金を無心しているなら、金輪際、そんなことしないでほしいんです」
「お前本当に、嘘なのか? ……息子との生活で、お金が必要だって……」
彼女は、苦虫を潰したような顔でこちらを見たまま、何も答えなかった。
もしかしたら、使い方が間違っているだけで、親子二人生きていく上でのお金が厳しいのは本当なのかもしれない。
――ただ、答えないということは。少なくとも「病気」というのは嘘か、もらったお金の使いみちに後ろ暗いところがあるのだろう。
しばらく黙ってこちらを睨みつけていた彼女の口から出た言葉は。謝罪でも、言い訳でもなく――森本さんへの罵倒だった。
「女子大生とちょっと仲良くなれたからって、いい気にならないでよ! 定時制高校卒の、大学も出てない、将来性のない土建屋のあんたなんかね、学生のうちの遊びなんだから。それなりの身なりしてるみたいだし、いいとこのお嬢さんなんでしょ。あんたみたいなクズ、捨てられて終わりよ!」
腹いせなのか、周囲に聞こえるような大きな声で、彼女はそう叫んだ。
頭にきた。いくらなんでも言っていいことと悪いことがある。一言言ってやろうと踏み出そうとした私を――森本さんは背中で制した。
彼は、自分への罵倒には一切答えなかった。その代わり、もう一度彼女に問うた。
「息子が病気ってのは嘘なんだな」
感情の起伏のない彼の声に逆に恐れをなしたのか、ふてくされたような声で、彼女は今度は正直に答えた。
「……病気じゃないわよ。もういいでしょ。あんたにはもうお金のことは頼まないから」
その言葉を聞き、深呼吸をした彼は、穏やかな声でこういった。
「そっか……。チビが病気じゃないなら、よかった。小せえ子が辛いのは可哀想だからな。生活の方は、ホントにきついなら、一度市役所に相談に行け。わかったな。……みさきちゃん、行こう」
森本さんはこちらには顔は向けずに私の手を握り、刺さるほどのギャラリーの視線の合間を抜け、デッキの方へ歩き出した。