地下鉄のない街
地下鉄のない街
終点の地下通路の中でようやく解放された。
ラッシュ時の電車の中のこの空気は徹夜明けのぼくにはしんどい。
年をとるのは、年齢ごとに早くなっていく。
何も考えないことだ、とにかく気を取り直して、出社しなきゃ。
試験まであとすこし。頑張らなきゃな。
目をふさいで、鼻をつまんで。
いつもやってきたように。
「よ、おはよう」
駅を降りて早足で会社に行くぼくの後ろから、先輩が肩をたたいてくれた。
会社で唯一心を許せる尊敬できる先輩だ。
最近子供さんが生まれて、寝不足だって言ってたっけな。
時々遅刻するようになったなあ。
「おはようございます。先輩遅刻ですよ。急がないと。」
「大丈夫だよ、何分か遅刻したって」
以前は違ったんだけど、子供ができてから大胆になったみたいだ。
家庭をもった人の貫禄ってこういうものなのかもな。
ぼくは少しうらやましくなった。
「そうよ、関係ないじゃない、そんなの。たまには」
ひそかにあこがれている同僚が、肩に手を回した。
このひとも離婚経験者で、子供を保育園に預けてから出社だったよな。
この明るさと天真爛漫さは、子供がいるからなんだろうな。
「とにかく急ぎましょう」
ぼくは、動揺を覚られるのが嫌で、足早にロビーへ向かった。
「おはようございます」
タイムカードを見ると二分遅れだけど、まあ、許容範囲か。
席に着いて落ち着いたと思ったら、同僚のおんなのこが、耳打ちしてくれた。
「成田さん、課長のところに行ったほうがいいわよ」
「え?」
隣の席の同僚のおんなのこが、耳打ちしてくれた。
「昨日の税務の書類ミスだらけで、課長が今朝直したみたい」
「自分から行った方がいいわよ」
「そうなんだ。ありがとう」
朝からこれか・・・。おかしいなあ、完全にチェックしたんだけど・・・。
おかしいな。
「課長、昨日提出した書類ですが」
「優秀な部下を持ってうれしいよ」
課長はようやく顔を上げてくれた。
「なんだねここの部分、初歩的なミスじゃないか。今の会計基準に合っていない。
税効果会計で処理するべきところが20年位前の会計基準になっている。」
あれ、おかしい、こんな書類は書いていない。誰かが改ざんしたんだろうか・・・
「すみません」
「まあ、いいよ。ただ私の立場も考えてくれよ。上から叱責されるのはこの私なんだから」
すみません。
でも、おかしいな、どうしてこんな書類が出来上がったんだろう。
4人のチームで作成して、最終的にぼくがチェックしたんだけどなあ。
ちらっと、社内を見たが、だれも悪意を持っている人間など見当たらなかった。
「最近顔色がすぐれないね。きちんと寝てるかい。」
「はい」
「まあ、資格試験の勉強もほどほどにな。業務に支障が出たら困るよ」
なぜ知っているんだろう・・・。
このことは、会社の中でも数人しか知らないはずなのに・・・。
だれが何を、誰に言ってるのだろう。
どこからか、聞こえたんだろうな。まあ、これが人が集まるところにはかならずあるな。
しょうがないか。
「分かりました」
「いいよ、仕事に戻って」
「はい」
カタカタカタカタと、キーボードを打つだけだ。
何も考えなくていい、ただ、完璧にやればいいんだ。それで午前中は終わってくれる。
何も考えないと冷静に何かを考えられる。
何も考えないことだ、大切なのは。
誰が誰に。
そんなこと、もう無理だよね。
それはとっくの昔に終わってる。
誰に語りかけても、だれも自分のことは言ってくれない。
誰も、いない。
関係だけがあるだけだ。
人間関係の連鎖のなかで、自分の役割を果たせばいいんだ。
「よし、できたぞ」
これを税理士事務所に届けたら、午前中の仕事は大丈夫だ。
「じゃ、外出してきまーす」
やっと明るい声が出せた。
いまのは上出来だな。
「行ってらっしゃい」
と同僚の声。
神田、14:00帰社。さて、行ってこよう。
ホワイトボードに行く先を書くと、いつも開放感がある。
今朝駆け込んだエレベータを降りると、ロビーは落ち着いた雰囲気だった。
ふう、やっと落ち着いた。
あれ、なんだか変だな。街の景色がどこか変だ。
外に出ると、なんだか街の雰囲気がおかしい。
こんなに緑が多かったっけ。
あんなところに小学校がある。
随分小さく見えるな。
でもそんなことより小学校なんてないはずだ。
あそこは廃校になった後電機メーカーが市から手に入れて工場にしたはずだったけど。
あれ?地下鉄じゃなくて普通の路線になっている。
徹夜明けで、頭が変になったかな。
まあ、いいや、相手先の事務所がある駅名はそのまんまだから、乗ってみよう。
「おかしいな、駅名が微妙にちがっている」
切符売り場の路線図を見て、ぼくは思った。
まあいい、急がなきゃ。
電車の中で夢を見た。
悪いのはおまえじゃない
悪いのは、だれでもないんだ
誰も悪くない
だから誰も責められない
ほんの冗談
冗談を誰も責められない
おまえもそうだよな
冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ
自殺はしないよ
自分のためじゃない
おれが自殺したら、お前が困るだろ
悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ
どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
おまえにこういえたらどんなに楽だろう
でも、誰に言ったらいいんだろう
いつもおれをいじめるおまえか?
ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
だれににやらされているわけでもない
やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
相手のいないところへ向かって自己主張はできない
敵はどこにもいないんだ
ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
何かをすることは不毛なんだ
悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない
しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
何も考えていないとは、だれもいえない
たとえ、何も考えていなくても
何かしゃべらないといけないように
だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
だれもいないとは誰もいえない
たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
だれかを標的にしないと生きていけないからね
黙っていることができるところ
姉さん、あなたはこの世の中で唯一の場所だった
でも遠いところに行ってしまったね
いつか、教えてね 死ぬことの意味を
「神田ー神田ー」
車掌の声だ。
うとうとしてしまった。
課長の言うように、すこし勉強もセーブした方がいいのかもな。
確かに神田駅と書いてある。
でもちがう、こんな街じゃない。神田は・・・。
自分がどこをあるいるんだかまったくわからないや。
先生の事務所どこにいっちゃったんだろう・・・。
「すみません」
「はい?」
「菊地会計事務所というのはどこですか」
「ああ、そこの角を曲がって、道をあがったところですよ」
人のよさそうな、サラリーマンだった。
人見知りのするぼくもなぜだか自然と話しかけられた。
でもおかしい、場所が違う。そんなところにあるわけがない。
「ありがとうございます」
「いいえどういたしまして」
おかしいなあ・・・。まあ、とりあえず行ってみるか。
そういえば、父の会社がこの辺にあったな。
離れて暮らしてから一度も会ってないけど。
どうしてるかな・・・。
まあ、関係ないやあんなやつ、俺には。
坂道をあがるときに蝉が鳴いていた。
自分が蝉になって遠くから自分を見ていた・
雲が白い。
白い雲が遠くから自分を見ていた。
だれもいない
この世には。
ただ人間関係が網の目のように重なり合っている。
ぼくもいない。
だれもどこにもいない。
ずっと分かっていたことだよな。
あった。不思議だ。菊地会計事務所と書いてある。
随分昔風の事務所だな。
「ごめんください書類お持ちしました」
「ああ、成田さんご苦労さん。まあまあ、冷たいお茶でも飲んで。」
「はい」
なにかが違う。それに菊地先生ではないんだな今日は。
「あの、今日菊地先生はお留守ですか」
「何言ってるんですか、私がちゃんと対応してるでしょう」
え。この人菊地先生・・・。菊地先生は、書類に目を通していた。
「うん、なんですかこの書類は」
柔和な顔だったけど、少し困惑した表情だった。
「は?どこか悪かったでしょうか・・・」
「わたしもわからん訳じゃありません。この会計基準は現在制度を整備しようと
会計士や税理士が努力しているところですから。しかし制度ができていないのに、
いきなりこういう書類を作ってもらっても困りますなあ」
「え?しかしこの制度趣旨は一昨年から施行されていますが」
「ははは、何を言ってるんですか、まだ学者先生の頭の中だけですよ。
これを実際にやるには20年はかかるでしょう。いい方向だとは思いますがね。
会計学と税法を融合させるというのは」
「すみません、作り直します」
「悪いけどお願いしますよ。実務家と学者は違いますからね」
「はい」おかしいな、最新の会計基準で税務処理したのに・・・。
まあいいや、いっぺん会社に戻って課長に相談しよう。
あ、父の会社だ、ここが・・・。
あれ、今朝道聞いた人が出てきた。お礼言っておこう。
「先ほどは大変ありがとうございました」
「ああ、あなたですか」
「はい。大変助かりました。私こういうものですあついですね、まったく」
「あ、わざわざお名刺までいただきありがとうございます。経理を担当されているのですね
それで菊地会計事務所ですか私はこういうものです偶然ですね、あなたも成田さん、私も成田ですよ」
「本当ですね、びっくりです」
「またどこかでお目にかかりましょう」
「ぜひ。今日はありがとうございました」
「いえいえ、それでは」
とにかく早く帰ろう。しかし、地下鉄はどこにいったんだろう。
まだなくなったままだ。坂道を降りるときにまた蝉が鳴いていた。
自分が蝉になって遠くから自分を見ていた。
雲が白い。白い雲が遠くからまた自分を見ていた。
まるで、ぼくが蝉になったみたいだ。
ぼくは誰なんだろう。
雲になったぼくが、ぼくにやさしく微笑んでくれている。
この世の中には誰もいないいい人も、
悪い人も、そして人間そのものもどこにもいないそんなこと知っているのに、
いつも忘れている振りをしている交通ルールのように生きていかないと、
生きていけない
でも姉さんは違った生き方をしていたね。
交通ルールみたいな社交辞令で生きなくていい人だった
蝉から見たぼく、雲から見たぼく自分を他人にしないと生きていけない。
いつか教えて。生きることの本当の意味。
「課長、書類届けてきました」
「ご苦労さん。先生OKだって?」
「それが、この会計基準だとだめだということでした」
「なに?」
「新しすぎるということで、作り直してくれということです」
課長の表情が見る見る不機嫌になっていくのが分かった。
「何を言ってるんだよ。聞き間違いだ。
第一、君の会計基準を最新のものに私が朝から作り直したんだよ。
私の労力も考えてもらいたいね。」
「いえしかし。すみません。はい。申し訳ございません」
「まあもういい。私から電話しておくから」
「分かりました。よろしくお願いいたします」
やっと就業時間だ。昨日まで頑張ったから今日は残業なしで帰れるな。帰ってゆっくりできる。
そういえば、あのこと知り合ってから何かがおかしい・・・。
偶然チャットで知り合ったおんなのこ。
Y.Nっていうハンドルネームだったな。
宇宙人としゃべっているみたいに楽しいけど、どこか分からないところもあるなあ。
今夜今日のこと話してみよう。
「お疲れ様でした」
「お疲れ」
帰りの地下鉄の中今日の不思議な時間が頭の中を駆け巡っていた。
「ふう、やっと自分の自由な時間が来たな」
夕飯を終えたこの時間が自分の一番ほっとする時間だ。あ、接続されているや、あのこのパソコン。
「こんばんわ、Y.Nだよー。まあ、そろそろいいや、本名由紀子だよ」
不思議なこだ。
いつも唐突に現れて、顔も見えないのに、ぼくを明るくしてくれる。
「ああ、こんばんわ。こっちからチャットしようとしようとしてたんだ。由紀子ちゃんていうんだね」
「その名前でいいよ、これからは。もうしょうがない。だんだん近づいてきちゃった。
お父さんにあったね今日」
「お父さん?近づいた?まあいいや。今日不思議なことが沢山起きてね」
「うん。そうみたいね」
不思議なこだ。チャットなのに、声が沈んで聞こえた。
「あの人僕の父の若いころの写真にそっくりな人なんだ。
まあでも年齢的に言って父じゃないけど、びっくり。それからね。取引先にいこうとしたら
、地下鉄がなくなっちゃって」
「ハハハハー。疲れてるね」
「いや、本当なんだ。」
「まあ、不思議なこと人生に沢山あるさ」
「お父さんに会えてよかったね」
「え?」「あなたのこと、いろいろ聞いたから」
「え?ぼくの父に?」
「うん。小さいころから」
「どういうこと?」
「まあ、それはまたあとで。今日は何かいいことあった?」
「いやべつに何にも」
「そうか」不思議だな。なんで彼女には何でも話せるんだろう。
「君はいいことあったの」
「いや別に何にもないよ。あたしには何もないの」
どういっていいか分からなかった。しばらくアイドリング状態が続いた。話題を変えなきゃ。
「会社の女の子のこと話したよね」
「ああ。由貴さんね」
「うん。控えめで、とてもよく気がつくこなんだ」
「あたしと正反対ねえ」
「控えめかどうかはわからないけど、君もいい人だとおもうよ」
「きみのことがだんだん好きになっちゃったよ、なんだか」
「由貴さんとはどうしてるの?」
「どうって」
「昨日あなたの誕生日だったでしょ。お祝いしてくれた?」
「あれ?どうして知ってるの?そんな話してないけど」
「あなたの誕生日忘れるわけないでしょう」
「どういうこと」
「あたしのイニシャルのNは成田よ」
「え?」
「それで、Y.Nさんか。しかし偶然は重なるものだね」
「そうだね」
「その人どんな人だった?」
「うーん、エネルギッシュで、優しかったな」
「そうでしょ。ちょっとこわいけど、不器用で誠実な人。厳しいことも多いけど、
あなたのこと思ってのことなんだから。
銭湯に行ったときに飲んでたコーヒー牛乳覚えてる?とてもうれしそうだったわね」
「ちょっと待ってくれ、そんな話どこから聞いたの?」
「だから、お父さんから。」
「君いっただれなんだ」
ぼくはだんだん不安になっていった。
いけないところに、行けない所に行ってしまうような恐怖が沸き起こって来るのが感じられた。
「お父さんのこと赦してあげてね。お父さんももう年配だしさ」
「そんなことは今はいい。誰なんだ君は」
「あなたの姉よ」
「だからお父さんに会ったんだって言ったの。あたしのね」
「ははは。何をバカなこといってるんだ、君まだ17歳だろう」
怖い。笑うしかなかった。
「そうよ。久しぶりね」
「なんだよ姉って、そんなバカな話あるものか」
「今日神田行きの地下鉄が無くなったっていったでしょ」
「うん。あしたまた確かめるけど」
「昔はなかったわ、あなたの会社から神田まで地下鉄なんて」
「昔っていつ?」
「あなたが生まれたころ」
なにを言っているんだろうこのこは・・・。
「かわいかったよ。お風呂に入れてあげようとして、
浴槽にぶくぶくすべって顔つけちゃってごめんね」
「なんで、死んだ姉のその話のこと知ってるの?」
「だから、あたしはあなたのお姉さん」
「一度会って話をしたいよ」
「いいわよ。終わりの始まりね・・・」
「どういう意味?」
「ううん、なんでもない」
「どこに行ったらいいの?」
「神田にしましょう」
「神田?いいけど、どの辺?」
「千鳥が淵公園でどう」
「いいよ。あした土曜日だけど、1時くらいに会えないかな」
「いいわよ。地下鉄ないから、驚かないでね」
「また、消えてるの?なんでそれが君に分かるの?」
「会って話すわ」
「分かった」
「じゃあね」
「じゃあ」文字だけの会話・・・。
そこにはだれもいない。明日だれがいるんだろう。千鳥が淵公園に・・・。
翌日やっぱり地下鉄はなかった。
でも神田まではいける。ちょっと歩くけどな、千鳥が淵まで。
ぼくはどこに向かって歩いているんだろう。本当に公園に彼女はいるんだろうか。
ああ、ずいぶんあるいたな。しまった、服装の特長とか聞いておくの忘れたから、
どのこか分からないや。まぬけだなあ。どうしよう。
「こっちよ」
明るくて、まぶしいかわいい女の子が手招きをしていた。
「ああ、君が由紀子さん。
はじめまして。よくぼくのことが分かったね」
「当たり前じゃない」
「え?学校の帰りか。もしかして九段高校?その制服」
「そうだよ。今の制服と同じだね」
「今の?」
「まあいいや」
「いろんな話したねえ。パソコンで」
空から降る木漏れ日の中、ぼくたちは、恋人同士のように散歩したね。
「そうだね、なんだか初めてあった気がしないや」
「はじめてじゃないよ」
「え?なんていったの」
「ううん。なんでもない」
どこか懐かしくて、どこか切ない。なんなんだろう、この感情は。
もうずっと前になくしてしまった感情だ。
「話をしているうちに君のこと好きになっちゃったんだ」
思わず自分の気持ちを正直に言ってしまった。
「あたしもよ、ずっと前から」
雑談を続けるように、前を見ながら、君は言ったね。
「ずっと前ってなに?」
「ごめん、なんでもない」
千鳥が淵公園は新緑の木漏れ日の中、優しく二人を包んでいた。
「今日も地下鉄なかったでしょ」
「うん、なかった。どうしてなんだろ」
「知りたいの?」
「うん。それになんか変だ。この公園歩いているおんなの人の髪型とか、
服装とか、ものすごく昔のかんじがする」
「そうかもね、あなたにとったら」
「あなたにとったら?」
「ねえ、あそこの喫茶店でお茶でも飲みましょう」
「いいね。行こうか」
ぼくは早足で歩いていく彼女の後をおった。
鬱蒼とした木々の中を抜けると、陽射しがまぶしく、まるで別世界だった。
「こんにちはー」
「いらっしゃいお嬢さん。今日はお父さんは一緒じゃないの?」
50代くらいの柔和なマスターが、笑顔で迎えてくれた。常連さんなんだな。
「今日は彼氏といっしょよ」
「あ、それはそれは」
他意のない笑顔で、ぼくの方を見てくれた。なんだか恥ずかしい。
「いや違いますよ、彼氏じゃないです。今日初めてあったんですから」
「ははは、なにどぎまぎしてるのよ。初めてじゃないって言ってるでしょ」
「え?」
いいから座ろう。あたしはモカ。なんにする?
「いやコーヒーのこと詳しくないから」
「そうだったね。じゃあ、モカ二つお願いします」
「はいかしこまりました」
カウンター越しから、マスターが小さく応答していた。
「お待ちどうさまです」
「あいかわらずちっちゃいね、このカップ。量が少ないよ」
「また、そんなこと言って」
「お父さんもあなたも、おいしいおいしいって言ってくれるじゃないですか」
マスターの柔和な笑顔とあけすけな話は、このこがこの店にいつも来ていることを物語っていた。
でも次の瞬間、リラックスしかけた気持ちが、緊張してしまった。
「お父さんのこと好きじゃないの?健太郎は」
しばらくは何を言っているのか分からなかった。外に飛んでいる鳥の声が急に大きくなって、
その音に気をとられた。何秒くらいたっただろう、30秒かな、もっとかもしれない。
「ちょっとまってよ、なんでぼくの名前知ってるの」
君はそのことには答えず、ぼくの瞳の中を覗いた。
「お父さん、健太郎のこと好きだよ。あなたもそうでしょ。だから地下鉄消えたんだよ。
あたしとも会えたしね」
「いっている意味が分からないよ」
「お父さんはすごい人よ。」
確かにそうかもしれない。業界で最大手のゼネコンの取締役だ。
つまらない事務処理をしているぼくなんかとは、比べ物にならない。
「そりゃ、認めるけど、なんで君がそんなこというの。
悪いけどいろいろあって、ぼくは素直になれない」
「でもあなた地下鉄消してここにこれたじゃない。」
「よく分からないや。いっていることが」
不安を打ち消すように、ぼくは少しぶっきらぼうなしゃべり方をした。
「ここは地下鉄ではこれない神田よ、はるか昔の」
「頭が混乱してダメだ。きみがいかれているとは思わないけどね」
しばらく間が空いた。どう理解していいんだかまるで分からない。
なんで、何もかも理解している顔してるの。誰なんだ君は。
どうしてぼくしか知らないことを知っている?
「コーヒー終わったし、また今度会おうね。楽しかったわ」
「うん。今度はいつどこで会う?」
「来週の土曜日でもいいわよ。ただ場所は神田だけ」
あのチャットのときに文字から伝わってくるさびしそうなニュアンスは、この表情なんだね。
「どうして?」
「神田にしかあたしはいないの」
「意味が分からないけど、じゃあまたこの公園で?」
「そうじゃないと会えないのよ。次に会った時話そうかな」
「分かった。じゃあね」
「さよなら」
「またね、さようなら。地下鉄で帰ってね」
「そうするよ」
「ああまだ、眠いや。電車で寝るなんてめったにないんだけど。
あ、そろそろ会社を過ぎるからあと二駅だな」
「あれ、学校がなくなって、もとの電機メーカーの工場に戻ってる」
「町並みも普通だ」
地下鉄の通路を出ると、ありふれた町並みが広がっていた。
「ただいま」
「といっても誰もいないけどな」
しんとした、独り住まいのアパート。蛍光灯のスイッチをいれると、
現実にようやく完全に引き戻された。
「そうだ、なくなった姉の写真見てみよう」
「たしかなくなったの17歳だったな。あのこと同じ年だ」
おかしいな、由紀子ちゃんにそっくりだ。瓜二つだ・・・。
小学校のことといい、神田のことといい、父によく似た親切な人のことといい、
地下鉄が無くなってしまったり、またでてきたり、最近おかしなことが多すぎる・・・。
だめだ、眠すぎる、仮眠しようと僕はそのまま月曜の朝まで寝てしまった。
沢山夢を見た。あの悪夢のような日の、磨り減っていった人生の始まりの日の。
悪いのはおまえじゃない
悪いのは、だれでもないんだ
誰も悪くない
だから誰も責められない
ほんの冗談
冗談を誰も責められない
おまえもそうだよな
冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ
自殺はしないよ
自分のためじゃない
おれが自殺したら、お前が困るだろ
悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ
どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
おまえにこういえたらどんなに楽だろう
でも、誰に言ったらいいんだろう
いつもおれをいじめるおまえか?
ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
だれににやらされているわけでもない
やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
相手のいないところへ向かって自己主張はできない
敵はどこにもいないんだ
ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
何かをすることは不毛なんだ
悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない
しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
何も考えていないとは、だれもいえない
たとえ、何も考えていなくても
何かしゃべらないといけないように
だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
だれもいないとは誰もいえない
たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
だれかを標的にしないと生きていけないからね
黙っていることができるところ
姉さん、あなたはこの世の中で唯一の場所だった
でも遠いところに行ってしまったね
いつか、教えてね 死ぬことの意味を
もう一度会えたらな
姉さんに
大変だ。死んだように寝てしまった。
いったいあの日はなんだったんだろう・・・。
とにかく出社だ。
「おい成田、なんだか疲れてるな」
昼休みに先輩が話しかけてくれた。
「気分転換に、飯でも食いに行かないか」
「ああ、神田さん。そろそろお昼ですね」
「10分前だけど、出るか」
「はい」
「じゃ、行こう」
行きつけの定食屋は、12時前だったのですいていた。テーブル席に座ったぼくは、
朦朧とする頭の中でおもわず、本当のことを言ってしまった。
「最近変なんですよ」
「税理士試験の勉強で疲れてるだろ。見てて分かるよ」
「ああ、それもそうなんですけど、工場は消えてしまうし、地下鉄も時々なくなる。
女性のチャット友達とこの間会ったんですけど、自分は僕の姉だっていうしなあ」
「おいおい、大丈夫か、もう少し受験勉強のペース落としたら、はははは。試験に落ちたらしゃれにならないけどな」
「そうですねちょっと根を詰めすぎたかもしれませんね。」
ぼくは冷静になって話を切り出そうと思った。
「でも不思議なんですよ」
「何が?」
「そのチャット友達のおんなのこ、死んだ姉さんにそっくりなんです。写真で確認したんですけど、
まるで同一人物なんです」
「まあ、他人の空似ってことはよくあることだからな」
Kさんはメンチカツ定食の野菜をほおばりながらちらっとこっちをみた。
「そうなんですけど、そういえば、しゃべり方とか、目のあてかたとかもそっくりだなあ。
しかも、ぼくの姉だって言うんです。自分から。」
神田さんは、曖昧に微笑みながら、年上の顔で優しく答えてくれた。
「君のお姉さんだったら、もう随分な年だぜ。いくつくらいの人?」
「セーラー服着てました。まだ17歳だそうです」
ぼくもおかしなこといっていると思いながら、言ってみた。
案の定回りに聞こえるくらいの声で笑われてしまった。
「ありえねーよ。なにいってるの。からかわれているんだよ。ははは」
やっと合点がいったという顔で笑ってくれたが、ぼくにはどうしても、笑い飛ばすことができなかった。
「そうですよねえ。からかわれているんですかね」
「当たり前だ。はははは」
「今度の土曜日もう一度会うんです」
「そうか、まあ、気分転換にいいじゃないか」
「ええ。そうですね。」
まだ休憩時間があったので、お茶を飲みながら雑談をした。
「ところでさ、由貴ちゃんとどうなってるの」
「進展ありません」
「もしかして、そのおんなのこのことが気になるのか」
「少し」
「ははは。勉強疲れだな。大切な人を大事にしないとな」
「はい」
「まあ、昼間は淡々と仕事こなして、夜は受験勉強。謎の女子高生はその次だね」
「そうですね」
「よし、そろそろ会社戻ろう」
「はい」
戻るところ、どこなんだろうそれは。
いい。そんなことは。
とにかく会社に戻る時間だ。
淡々と業務をこなすこと。そして試験勉強をすること、そして彼女と会うこと。
これが続くといいな、いつまでも。
ああ、しかし大変な一週間だったな。
そろそろしたくしないと由紀子ちゃんとのデートに遅れちゃう
あれ?デートって言っていいのかな。まだ付き合ってるわけじゃないもんな。
たぶん、今日は工場が小学校に戻っていて、地下鉄が消えているんだろうな、
きのうまではあったのに。
小学生が遊んでいる。
「はははは」
やっぱりそうだ。これになれていく自分が怖いな、どっか。
こんなことありえるんだろうか・・・。
地下鉄はなかった。
地上を走る電車は、まるで、素直な昔のぼくの心のようだった。
日差しが明るい。
人の声が聞こえそうだ。
いつからぼくは地下鉄を必要とする生活を送るようになったのかな。
この陽射し、このさわやかな線路の音。
踏み切りのない地下鉄。
でも、踏み切りの音って、こんなに楽しいんだね。
なんだかわくわくするよ。
もうすぐ君に会えるね。
踏み切りの音はうるさいだけだと思っていた。
今は違う。
君に会うためのファンファーレかな。
地下鉄に踏み切りはなかったね。
「もう、おそいよー。待ちくたびれた」
少し不機嫌だったけど、すぐにかわいい笑顔に戻った。
「ごめん、ちょっと寝坊しちゃった」
ぼくは、とりあえず謝るしかなかった。
「いいよ。あまり時間が無くなってきたからさ、ちょっと言いたくなっちゃった」
視線を遠くに遣って、少しさびしそうに彼女はつぶやいた。
「あれ、?今日何か用事あるの?」
「違うよ・・・」
「あたしの話だれかにしたでしょ」
ちょっと怖くて、さびしそうな眼だった。
「え?」
「お友達とかに」
「え!したけど少しだけ。どうしてわかるの?」
「やっぱりそれでか・・・」
「それでって?」
「あたしがいなくなる時間が短くなっちゃったよ」
なんだか姉に怒られてたときみたいだった。
「意味がわからないよ。待たせたのは本当に悪かった。待っていてくれているとは思わなかったよ」
「4時間もおんなのこ待たせて・・・。それじゃおんなのこにもてないよ健太郎。」
「あ、いや、そうだけど、・・・ごめんなさい」
「いいよ」
おかしいな。なんだろうこの感覚。
「あした休みでしょ。」
「うん」
「山の上ホテルでお食事しましょ」
「いいよ、でも・・・」
「できれば、そのまま泊まりたいな。時間がないから」
「え?」
いきなり誘われて、ぼくはびっくりしてしまった。
「いやなの?」
「いや、いいけど」
「だから、あなたが来ない間に、私服に着替えてきたのよ。踏み切りの音聞こえる?」
踏み切りの音・・・。
「ああ、わかったよ」
ぼくの耳に踏み切りの音が鳴った。ぼくを励ますように。やさしく、懐かしく。
「キスしようか」
「・・・」
その場ではできなかった。
「じゃあ連れて行って。歩くのいや。タクシー拾って」
「わかった」
もうあっち側に行こう。踏み切りの音がそういっていたように聞こえた。
「つきあっているこいるの」
ディナーを食べながら、由紀子は優しく微笑んだ。
「いや、前から好きなこはいるけど、なかなか進展しないよ」
「ふーん」
「ところでさ、由紀子ちゃんの発言でわからないことがたくさんあるんだよ」
とうとうこのときが来たかな。
もう戻れないや。
「何?」
「君がぼくのお姉さんって、どういう冗談?それから時間がないってどういう意味?」
彼女は、すました顔で答えてくれた。
「お姉さんいなかった?あなたに」
「いたけど17歳のときに死んでしまった」
「そう。
あたしと同じ年齢ね」
「千鳥が淵公園の近くにある学校から、その近所に会社があった父と、
一緒に待ち合わせして自宅に帰る途中に車にはねられて死んじゃった」
「そうなんだ」
「父親が、先に渡っちゃって、はやくしろ!なにしてるんだ!って怒り出して、
信号無視して渡ったところをはねられたらしい。最低な父親だよ」
「だいぶ話が違うみたいね」
「え?何言い出すの?」
「あたしは、パパが来るなって合図したのに、はやくあっち側に行きたくて、勝手に走ったのよ」
「あたしってだれ」
「もうわかってるんでしょ」
この笑い方どこかでみたことがある。
「わからないよ。そんなこと」
「おいしかったね。そろそろ疲れた。部屋に行きたい」
「うんわかった、じゃあお会計してすぐ行くよ・・・」
「ここはホテルよ。ルームにつけておけばいいのよ。
チェックアウトのときお姉ちゃん払っておくから。
あたしには時間がないの。いきましょう」
「うん」
由紀子は部屋に入ると、健太郎の口に軽くキスをした。
「久しぶりだね」
「え?なんで久しぶりなの?先週会ったよ」
「ちがうよ。キスしたの」
ポニーテールを解くと、髪の長いのに驚いた。
ふわっと女の人の香りがして、部屋中が大人の匂いで満たされた。
「会ったの先週じゃないか、初めて」
「もっと、昔よ。あなたが15歳のとき。あたしが17歳のとき」
健太郎は、静かに恐怖に揺れる心を静めるように気になっていることを語りだした。
「お姉ちゃんなの?」
「そうよ。あなたの亡くなったお姉ちゃんの名前由紀子でしょ。」
「うん」
「あたしの名前は成田由紀子」
由紀子ちゃんは艶然と微笑んだ。
なんてことだ・・・。そんなこと・・・。
「かわいい弟だったな、あたしによくなついてくれていた。
ちょっと気が弱くて、でも優しいこだった。
学校でいぢめられて帰ってきたときは、胸に抱いてあげたね」
健太郎は知らず知らずのうちに涙を流していた。
「ああ、そうだったね」
「泣いてもいいから、その優しい気持ち忘れないでねって言ってたね」
「由紀子姉さんだったのか、あなたは」
「そうよ。久しぶりだね」
「だから、事故のあった神田でしか会えないの?」
「そうよ。やっとわかった?」
「ここはあなたが15のときの街なの。あたしの死ぬちょっと前の」
「あなたが道を尋ねた人。あれがお父さんよ」
「この間あなたと入った喫茶店にパパと行く途中で、交通事故にあっちゃった」
「誤解しないでね。パパはくるなって言ったのよ。手で。」
「でも、あっちにさがれっていう手が、反対向きに早く来いって見えたの」
「わかるでしょ。こんなふうに」
姉さんはおいでおいでと、あっちいけを繰り返した。
「気持ちの問題だね。あたしは早くパパのところに行きたかったから。
振っている手は、自分から見たら、父の内側に誘われているように見えたから」
「もう、お父さんのこと赦してあげて」
姉さんは優しく微笑んだ。
足が震えてきたので、ぼくはベッドに腰を下ろした。
「姉さんは今生きているの?」
「生きているわよ。ほらこの通り」
ぽんぽんと、自分の足をおどけてたたいて見せた。
「でも何で17歳の高校生なの?」
「あたしが17歳で死んでしまったからよ」
「じゃあ幽霊・・・じゃなくて、ぼくがあの頃にもどったの」
「うふふ。じゃあ幽霊かどうか試してみよう。あのころみたいにね」
由紀子は健太郎の手を引いて、ベッドにたおれた。
「お姉ちゃん」
深く胸に顔をうずめると、一気に昔の記憶がよみがえった。
ないしょよこれは、誰かに言ったら、もう二度とこんなことできなくなるからね、
ってせつないこえを出していた姉の姿が頭の中いっぱいに広がった。
「もう時間がないの。交通事故まで。半分はあなたのせいよ。本当はもっといられたのにね」
「なんでぼくのせい?」
「はやくして」
「わかった」
「健太郎は、姉のブラウスのボタンを一つ一つはずしていった」
幼いころのように。
「健太郎」
「なに?姉さん」
ぼくは、ベッドの中で朦朧とした意識のかなで姉の声を聞いた。
「もうチェックアウト済ませたよ。もう10時だよ、早く服来て出よう」
姉はもう身支度を済まして、歯磨きをしていた。
「そんな時間か。ちょっとまって急ぐから」
ベッドの横に脱ぎ散らかしたぼくの服は、姉がきれいにたたんでくれていた。
「朝ごはんどうしようか。あ、そうだ、すずらんどおりのタイ料理やさんでおかゆでもたべようよ。
よく行ったじゃん」
「そうだね、おいしかったねあそこ、岩波ホールの裏の。・・・。本当に姉さんなんだね」
「もうわかったよね」
にっこり、ってこういう笑顔なんだな。
姉さんにはこういう笑顔が似合うよ。ぼくには絶対にできない。
「うん。全部分かった」
「でもおれもう35歳になったよ。おじさんだ」
「ははは。あたしは17歳のピチピチよ」
「そうだね」
不思議な朝だった。年下の姉とデートか。
店はすいていた。
おかゆ二人前だけのシンプルなオーダー。
「会社どう?」
「信頼できる先輩と、優しい同僚。一人ずつ。あとは普通の付き合いか、普通以下の付き合いだよ」
「つまんないの?」
少し心配そうに姉さんは聞いた。
同じ事を聞いてくれたね、その表情で。
ぼくが中学生の頃。
「あまりおもしろくはないよ」
「お父さんとは話したりするの?」
「全然会ってない。お姉ちゃんの死の誤解は解けてよかったけど、あれ以来、ぎすぎすしちゃってね」
「あたしもどれなくなっちゃうじゃない。それか健太郎が向こうの世界に戻れなくなるよ、
そんなこといってたら」
「あなたに道を教えてくれたあの優しそうな人があなたのお父さんよ。思い出したでしょ。
うわ、辛い!このおかゆ」
「だから、それやめろっていったじゃん。昔もそんなこといってたよ。こっちと替えてやるよ」
「ありがと」
「外ではあんなに親切なんだね。父さん」
まだどう受け止めていいか分からなかった。
「あたしには優しかったわよ」
「ぼくにはつらかった」
「あんなことしてたからよ。パパ多分知ってたと思うよ」
「・・・」
「でもまあいいよ。姉さんは後悔してないよ。かわいい弟だし、ああでもしないと壊れそうだったから。あなた。」
「あのさ、とっても気になることがあるんだ」
聞くのが怖い。でも、聞かないといけない。
「なに」
「昨日さ、半分はあなたのせい っていったよね」
「そうね」
なんでそんなにさびしそうな表情するんだよ。
「どういう意味?もう会えなくなるの」
ぼくは、感情を抑えられなかった。
「散歩しながら話しようか、千鳥が淵公園で」
いつも姉さんはこういうとき明るく笑うね。
ぼくはそういうとき、胸が潰れそうになるよ、反対に。
姉さんの明るさは、どこかとっても痛い。
「いいよ。話そうか」
「じゃ、食べちゃお。おいしいな、最初ッからこっちにすればよかった」
「昔も同じこといってたよ。おかげでこっちは辛いのばっかり好きになったよ。この年までずっと」
「ははは、そろそろでようか」
「まって、ここはぼくが出す」
「あらそ、ご馳走さま。一人前になったな。お姉ちゃんのバイト代せびってたくせに」
聞かない振りをして、レジで会計をしている間、あのころのことを思い出していた。
この人は本当の姉さんだ。あの人も父さんなんだな。
なんで姉さんはここにいるんだろう・・・。
なんでここでしか会えないんだろう。
ぼくのせいってなんだろう。
「行こうぜー」
「うん」
店を出ると、陽射しがまぶしかった。
瑞々しい新緑が、少しぼくの心をやわらげてくれた。
「姉さん」
「なに」
「歩くの早いよ、昔から」
ぼくは後を追いかけながら言った。
「あんたが遅いのよ」
後ろを振り向かずに、姉さんはぼそっとつぶやいた。
「ぼくに、ひとのことあんたなんて呼ぶなといっていたくせに、いつもいってたね、ぼくには」
「いいの。あんたには」
「またいった」
「ははは。あなたはかわいい弟よ。からかいがいがあるな」
「・・・」
「ねえ、ぼくのせいってなに?」
「そのことね・・・いいのよ別に」
あの笑顔だ。
さびしくて明るい。怖いよ。その笑顔は・・・。
「よくないよ、ぼくのせいで会えなくなるの?」
「もうすぐ事故で死んじゃうから。それが少し早まっただけ」
「どうして?ぼくなにしちゃったんだろう」
「会社の先輩にあたしのこと話したでしょ」
「うん、いけなかったの?」
なんで分かるんだろう、しゃべったこと・・・。
でももういいや、不思議なことは詮索するのやめにしよう。
「いいよ。」
「よく歩いたね、この辺」
「そうだね。いまでもかわらないでしょ」
「え?今でも・・・これは過去の街なの?」
「かわらないっていいことだよね・・・。」
姉さんはぼくの話を聞こえなかったかのように話を継いだ。
「今帰ろうとしても、地下鉄ないよ」
「・・・」
「過去と今は交わっちゃいけないのよ。本当は」
「・・・」
「昨日のホテルでのことみたいなこともほんとはしちゃいけない。
でも、また姉さんと、あたしとしたかったんでしょ」
「・・・」
「お父さんとほんとは、向き合いたかったんでしょ」
「・・・」
「未解決のまんま毎日毎日が過ぎていく日常に耐えられなくなったんでしょ」
だからここに着たんだよ
あたしも、お父さんの手招きの誤解あなたにいいたくてね。あなたがあたしを呼ぶのを待ってたの」
「そうだったんだ」
「会社の近くの風景が変わったりしたでしょ」
「うん」
「神田がそこまで広がっちゃったの」
「お姉ちゃんの胸に顔を押し当てて眠りたいんだったら、そうしてもいいんだよ」
あの優しい姉の笑顔だ。ぼくはこれがあったから生きてこれた。
そうじゃなかったらとっくにこの世にいなかったかもしれない。
「何考えているかわかるよ
だからお父さん余計に憎んだんだね。
あなたも、あたしが死ぬまでに戻らなきゃ。元の世界に」
「ここは20年前の世界よ。最新の会計理論は、事務所の先生に持っていってもだめよ。ふふふ」
「ぼくはお姉えちゃんが、いればいい」
「神田しか住めないよ」
「・・・」
「そしてあたしはもうじき死んじゃう。そうしたら、あなたは一人ぼっちだよ
だから会社の先輩に話をしたことはいいことなんだよ。
話をもっとしてご覧。あなたははやく向こうの世界に戻れる。
あたしは、向こうの世界に戻る。」
「秘密の関係なんだよ。あのころのあたしたちみたいにね」
優しい笑顔で、さびしく言った。
「いったでしょ。あなたが初めてあたしとしたとき。秘密を誰かにいったら、
もう二度とこんなことできないって。そのこと忘れないで」
「分かった」
「よく考えてね。そろそろ帰る」
「どこへ?」
「あなたのおうちよ。あなたは帰れないけど」
「そうだけど・・・」
「大丈夫。地下鉄あるよ。また会おうね」
「いつ?」
「来週の土曜日。もうあと2ヶ月だもん。事故にあうまで」
「嫌だよそんなの。いかないで。」
「もどれなくなるよ。由貴さんのこときちんと考えてね」
「いっている意味がわからない。ぼくが好きなのは・・・」
一瞬気を失ったようになった。
確かに地下鉄はまたいつものようにあった。
とにかく姉はもうここにいない。
帰ろう。
これ以上秘密はもう言わない。
そうしたら、2ヶ月じゃなくてもっと一緒にいられるかもしれない。
とにかく帰ろう、この地下鉄で・・・。
悪いのはおまえじゃない
悪いのは、だれでもないんだ
誰も悪くない
だから誰も責められない
ほんの冗談
冗談を誰も責められない
おまえもそうだよな
冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ
自殺はしないよ
自分のためじゃない
おれが自殺したら、お前が困るだろ
悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ
どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
おまえにこういえたらどんなに楽だろう
でも、誰に言ったらいいんだろう
いつもおれをいじめるおまえか?
ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
だれににやらされているわけでもない
やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
相手のいないところへ向かって自己主張はできない
敵はどこにもいないんだ
ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
何かをすることは不毛なんだ
悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない
しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
何も考えていないとは、だれもいえない
たとえ、何も考えていなくても
何かしゃべらないといけないように
だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
だれもいないとは誰もいえない
たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
だれかを標的にしないと生きていけないからね
黙っていることができるところ
姉さん、あなたはこの世の中で唯一の場所だった
でも遠いところに行ってしまったね
いつか、教えてね 死ぬことの意味を
「わかったよ、もうすぐお姉ちゃんが教えてあげる。そのためにあなたと会ったんだもん。さびしいけど。少し待ってね」
「成田さん」
「ああ、由貴さん」
「最近顔がげっそりやせてるけど大丈夫なの?なにかあったの」
心配そうに微笑んでくれるのは、姉さん以外にはこの人だけだ。
「うん、べつに」
「それならいいけど、何かあるんだったらあたしに相談してね」
心配そうな顔で、由貴さんはぼくの顔を覗いた。
「ありがとう」
「今日食事でもしない」
「そうだね。ぜひ」
「じゃあ、定時に終わってそのあと行こうか」
「うん。多分大丈夫だと思う」
いい人だな。
なにくれとなく、ってこういうこというんだろうな。
由貴さんとの食事は久しぶりだな。
感謝しなきゃ。
今日はあっという間に会社の時間が過ぎた。
「お疲れ様でした」
「とりあえず乾杯」
「お疲れ様」
「受験勉強しんどいの?」
「いやマイペースでやっているよ」
「それならいいんだけど」
「課長とちょっとうまくいかなくてね。なぜか受験勉強しているのを知っていて、
ねちねちといってくるんだ。疲れちゃうよ。業務はきちんとやっているんだけどね」
「あ、ごめんなさい。それ私だわ」
申し訳なさそうに由貴さんは目を向けた。
「昼休みのときに、課長がいるのにKさんにいっちゃったの。成田さん受験勉強大変そうだねって。
Kさんは、目で今そんな話するなって合図したけど、課長に気がつかれたかもしれない。
ごめんなさい、本当に」
「それで知っているのか、まあいいよ。
あんな課長。ただちょっとやりにくいかなあ」
「ごめんね、おわびに私のおごりでさ、もう一軒付き合って。おいしいハウスワインのお店があるの」
「いやいいよ、気を使わなくても。割り勘で行こう」
「いいからいいから
行きましょう。私のお詫びの気持ち受け取って」
「じゃあ、そうしようか。ありがと」
「随分ボトル開けたねえ、これで6本目だよ」
「君のおごりだ。飲ませてもらうぞー」
なんだか気分が高揚していた。
あの子のことを考えながら。
「それはいいんだけど、何か最近ボーっとしているときがあるけど、他に悩み事でもあるの?」
「うんちょっとね」
「話してよ」
「実はね、最近女子高生と知り合いになってさ」
「成田さんもやるわねえ」
「いや、そんなんじゃないんだけど
そのこが、あたしはあなたの姉だっていうんだよ」
「女子高生があなたのお姉さんなんてありえないじゃない」
神田さんと同じだ。由貴さんも。
「うん、そうなんだけど
だれにもしゃべったことのない、ぼくと姉のことを全部知っているんだ」
由貴さんは少し心配そうに微笑んだ。
「ちょっと疲れてるかな」
「いいや。それに、神田の街がおかしい。今の街と違うし、地下鉄が通っていない」
「おかしいんだ」
「あらら、随分酔っちゃったね」
「今夜泊まっていいよ。そろそろ帰ろうか」
「いいの?」
「顔青いよ。お酒はもうこのくらいにしましょう」
「続きは、横になってから一緒に聞くから」
「ありがと」
健太郎は朦朧とした意識の中で、姉とのことをいろいろと話してしまった。
もちろん、体の関係のことは薄れる意識の中で、口を封じていたが。
「もう寝ようかあすは土曜日だから寝坊しても大丈夫よ」
「うん。そうか、もう土曜日か」
「お姉さんとデートなんでしょ」
「デートじゃないけど」
「おやすみ」
「ああ」
夢を見た。
あーあ、やっちゃったね・・・。健太郎・・・。
「何?姉さん。どういう意味?」
「悪かったな成田」
悪いのはおまえじゃない
「いえ別にいいですよ。先生のせいじゃないです」
「いや、本当に別枠を取ってあったんだ。お前がダウン症の理事長の息子さんの手を引いて最下位
でゴールした後の決勝進出枠は。お前は件大会でも優勝したこの学校で一番速い陸上選手だ。
決勝で勝つのは当たり前だったから、協力してもらおうと思ったんだ」
悪いのは、だれでもないんだ
「ただ、あのブーイングと、奇麗事やるなというあの雰囲気の中では」
誰も悪くない
「いいですよ、べつに。あの雰囲気で走っても、どこかで他の選手と交差して、
両方ゴールできないのがオチですよ。足引っ掛けられるかもしれないですしね」
だから誰も責められない
ほんの冗談
「正義の味方はやっぱり苦手です
「すまない」
冗談を誰も責められない
「いえ、野次を飛ばしていた連中も、まああれはあれでしょうがないです。
野次は、踏み絵ですからね」
おまえもそうだよな
冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ
「すまない」
自殺はしないよ
自分のためじゃない
おれが自殺したら、お前が困るだろ
悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ
「まあ、そんなものですよ。気にしないで下さい」
どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
おまえにこういえたらどんなに楽だろう
でも、誰に言ったらいいんだろう
いつもおれをいじめるおまえか?
「おれは、こんなときばかりお前を利用して、最低な教師だ。
普段はお前のことを疎んじているのに」
「・・・」
「自分が否定されているように感じるんだ。授業中は寝ている。学校の成績は入学したときからすべてトップ。
寝ているくせに、突然あてても、
完璧にできる。そういうお前が少し憎かった」
ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
「いえ、ぼくは態度悪いですから」
だれににやらされているわけでもない
「先生が悪いわけじゃないですよ」
やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
「ブーイングも別に気にしていません」
相手のいないところへ向かって自己主張はできない
「誰の声かまるで聞こえませんでしたから」
敵はどこにもいないんだ
「その場の雰囲気ですよ。あれは」
ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
何かをすることは不毛だ
悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない
「誰に腹を立てることもできません」
しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
何も考えていないとは、だれもいえない
たとえ、何も考えていなくても
何かしゃべらないといけないように
「雰囲気に飲まれて、みんなぼくを非難したんでしょう」
だれか嫌いな人間いないの?
だれもいないとは誰もいえない
たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
だれかを標的にしないと生きていけないようにね
「先生も止めるのは難しかったと思います。謝らないで下さい」
黙っていることができるところ
姉さん、あなたはそんな場所だった
でも遠いところに行ってしまったね
いつか、教えてね 死ぬことの意味を
あの運動会の日から、ぼくへのいじめは強烈になった。
ある日突然、日常はかわってしまうんだね。
先生は、もっとぼくにつらくあたるようになった。
でも、しょうがない。
だれも悪くない。
お願いだ。姉さん。この意味を教えて・・・。
その日初めてぼくは姉さんと一緒のベッドで寝たんだったね。
目が覚めた。大変だ、もう昼だ。
「ごめん、出かけないと」
「うん。楽しかったよ。体大丈夫?」
「ありがとう、誰かに聞いてもらって気が晴れたよ、じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
「ぎりぎり遅刻しないで大丈夫だ
でも、変だな。どうして今日は地下鉄が走っているんだろう。」
街並みが一変していた。
いつもの神田だ、これは・・・。
とにかく急がなきゃ。この間は大遅刻だったしな。
千鳥が淵のあのベンチだったよな、走ろう。
よかった、まだきていないや。
座って待っていよう。
「あれ、なんだこの手紙
ぼく宛になっている
姉さんからだ」
ざわざわとする雰囲気の中、人だかりができていた。
救急車の音がした。
まさか!
人ごみをかき分けて汗びっしょりで交差点に行くと、由紀子姉さんが救急車に運ばれていくところだった。
「まって下さい。一緒に乗せてください。この人はぼくの姉なんです」
「はあ?あなたのお姉さん?倍以上年齢違うでしょ
この方は意識不明の重態です。変な話はやめてください」
救急車を見送る中、ひざががくがく震えて、地面に座り込んでしまった。
あと2ヶ月あるって言ったのに・・・。
そのときものすごい恐怖が健太郎を襲った。
「秘密をもらしたらいけないって」
「由貴さんにしゃべってしまった。半分はあなたのせい、ってこれか?
全部ぼくのせいだ。2ヶ月が今日になっちゃったんだ。だから、地下鉄もなかったのか。
取り返しのつかないことをしてしまった。姉さんいかないでくれよ」
姉さんの手紙か。
とにかく読まなくちゃ。
健太郎は震える手で、封を開けた。
姉より弟へ
楽しかったよ2回のデート。
今日朝ね、出勤するパパから
「昼休み、一緒に喫茶店でご飯食べよう」
っていわれちゃった。
あのころは、まだ土曜日も会社あったもんね。なつかしいわ。
そうなの、あの日のことよ。
きちゃったんだって思った。
全部同じだった。
ママがご飯作るの遅くて、パパが不機嫌になって、喧嘩になってあたしが作って。
急いで食べようとしたから、卵をスーツにおとして、着替えを手伝って。
すまないな、ってかんじでやさしく誘ってもらったの。
お父さん、本当は不器用でやさしいひとよ。わかってあげて。
ああ、来たんだなと思った。
ちょっと早かったね。もう少し健太郎と遊びたかったな。
あたしとのこと、誰かにいっちゃった?
それだめっていったのに。
でも、いいよ。
いつかはこういう時が来ないといけないから。
お互い伝えたいことが全部伝わったかはわからないけど、でも一緒にすごせてよかったね。
気持ちだけは、伝わっていなかったことが伝わったと思う。
ほんとは、知ってるよ。
お姉ちゃんがいなくなった後は、地下鉄に乗って、由貴さんに会いに行きなさい。
もう、小学校もないよ。工場に戻ってる。心配しないで。
山手線の中は全部地下鉄だよ。
好きな人ができてよかったね。
だから、今日も普通に朝ごはん食べて、今これ書いてるの。死んじゃうのにおかしいね。
パパとママには何も書かない。
いつかあなたから、教えてあげて。この不思議なおはなし。
そろそろ公園行かなくちゃ。
今日はデートの日だったね。
でも、パパの約束がはいっちゃったから、手紙だけおいておく。
横断歩道渡る前に、待ち合わせ場所に。
ごめんね。
さて、いかなくちゃ。
楽しかったよ。
手の振り方を見間違えに、交差点に行くんだ。
見間違えに気をつけてね。
あたな、ときどき、お父さんの手の振り方見間違えてるよ。
お父さんは、あっちにいけじゃなくて、こっちにおいでって言ってるんだよ。
わかってあげてね。
楽しかったよ。
ありがとう。
あなたが大好きだった由紀子お姉さんより
弟より
由紀子姉さんへ
この手紙が届くかどうかわかりません
ただ、どうしても書きたかったので書いています。
今でも昔でも、ぼくは甘えん坊の弟でした。
今回も姉さんに甘えて、姉さんの死期をはやめてしまった。
もっとずっと一緒にいたかったけど、それもできなくなってしまいました。
なんども、なんども、右手をばたばたと、振ってみました。
確かに、あっちにいけと、こっちに来いは、同じだね。
手首が痛いよ。何回もやりすぎて。
でも、わかったような気がする。姉さんの死の意味と、お父さんのぼくに対するしぐさ。
姉さん、どうしてわかっていて神田に出かけたのかなってずっと考えてた。
姉さんらしいや、もしそうだったら・・・。
お父さんの気持ち台無しだもんね。断ったら・・・。
それと、ぼくに何かを伝えたかったんだね。
もしかして、お父さんの手の振り方を、ぼくにわからせるためかな。
この1ヶ月ちょっと体調壊していたけど、姉さんにこういう手紙も書けるようになった。
この1ヶ月で、姉さんが直してくれたのかな。
とにかく、千鳥が淵公園の、ベンチに置きに行く、この手紙。
さいごに一言だけ、なにか言って欲しい。
ありがとね、姉さん。
携帯メールだ・・・。
由紀子お姉さんより
手紙ありがとう。
会えてうれしかった。
どうしてもつらいときには、また、地下鉄を消してあげる。
地下鉄に踏み切りはないわ。
ずっと、暗いトンネルの中を走るだけ。
だれも人はそこを横切らない。
あと何十年かすると、人が人と交わる踏み切りは、東京からは無くなるわ。
そのまえに、踏み切りの音覚えてね。
あなたなら、その音を聴くことができる。
その時はいつでも会いにきてね。。
あたしでない人が健ちゃんの踏み切りをわたっても、さびしくないよ。
横断歩道も踏み切りと同じだよ。
やけになって信号無視をしないでね。
あたしの事故は幸せな誤解。
それをあなたに伝えたかった。
あなたは誰かを憎めて幸せだったのよ。
お父さんを赦してね。
交差点のない、踏切のないそんな場所では、
人は人を憎むことすらできない。
地下鉄のない街からずっと見守っている。
交差点の向こう側から。
本当はあの朝さびしかったよ。たまらないくらいに。
でも、今はさびしくない。
さびしくてどうしようもなくなったら、踏み切りの音に耳を澄まして。
気をつけて、交差点を渡りに来て。
だれも悪くない。そのこことを忘れないでね。
姉さんはそういうあんたが好きよ。
さようなら
由紀子