ステップ・ファミリー
「あいつって、お前のなに?」
この春から環境が変わって、似たような質問を投げ掛けられる事が増えた。
今は六月。今日明日にでも梅雨入り宣言が出されそうな不安定な天気に、傘を持って来なかった僕は、憂鬱な気持ちで窓枠に切り取られた灰色の空を見上げていた。
「あいつって?」
まぁ、誰の事を言っているのかは分かる。
たぶん。
「あの、いっつもお前に張り付いてるヤツ。彼氏?」
彼氏っていう単語がすんなり出てくるような相手。
それが不自然じゃない、僕とあいつの距離。
「弟かな?」
僕に『張り付いて』いるのは、あいつくらいだから。
大学構内に出店している珈琲ショップ。その窓際の席で、長ったらしい名前の甘い珈琲を片手にスマートフォンを操作していたら、見知った顔に声を掛けられた。
「……もう少しマシな嘘を吐けよ。」
何度となく繰り返される問答。
「義兄弟ってやつ。親が再婚して兄弟になった。」
名字が同じなのに、どうして他人だと思うんだろう。
他人だけどね。家族だ。
あいつとは保育園から一緒だった。そして学区も一緒。片親なのも一緒。気が付いたら、親がそういうことになってた。
最初、父は息子のクラスメイトとその母親に同情して、気に掛けているだけだった。それは僕も知ってた。
何故なら、父にあいつの話をしたのは僕だったから。
『身体が弱くて、今週もずっと学校を休んでる。』
『うちと同じ一人親の母子家庭で、子供が病気がちだなんて大変そうだよね。』
『あいつのお母さんて、凄く可愛い人なんだよ。』
あいつによく似て、美人。
心配する振りをして、同情心を煽って、父が興味を抱くよう仕向けた。
子供に出来ることなんてたかが知れてる。
それを僕は、よく知っていた。
僕は親に心配を掛けない子供だった。
その僕が、父の心を揺さぶる存在を取り出して、目の前に広げて見せた。
『今度の授業参観、休みが取れたから。』
そう言われた時には、もう掴んだと思った。
僕の運命の糸の端っこ。
「俺が飲みたいって言ってたヤツ!」
のっそりと現れた弟は、僕の背後から包み込むように抱きついて、当然のようにテーブルのドリンクを手に取った。
「三分。」
「え?」
「僕がSNSにアップしてから、お前がここに来るまでの時間。」
「ちょ、ひど。俺をストーカーみたいに言わないでよ! 待ち合わせしてたんだから、来て当たり前でしょ。」
ブーブー文句を言いながら、甘い、季節限定の珈琲をゴクリと飲む。
そして「あ、やっぱり美味しい。」ってご満悦。
でも、待ち合わせの時間より随分早いし、インスタをチェックしたことは否定しないんだ? 通知設定でも入れてるのかな。
「お前が話してたし、たまにはいいかと思ったけど。やっぱり匂いだけで血糖値が上がりそうで躊躇ってたとこだよ。自分用に珈琲を買ってくるから、ちょっとどいて。」
僕が椅子を立つ素振りを見せると、弟が言った。
「嘘ばっかり。俺を釣ろうとしたくせに。だから、これは俺の。話の途中だろ? 俺が買ってきてあげる。何がいい?」
「本日のお勧め珈琲。」
「ブラックね。」
分かってる、と。弟は楽しそうにレジへと向かって行った。
傍で一部始終を見ていた男が、呆れたような顔をしている。
「兄弟、ねぇ。」
「なんで疑われるのかな。戸籍謄本見る?」
間違いなく、あいつは僕の弟。
父が再婚して、僕は義母とも上手くやったし、病弱だった弟の面倒もちゃんと見た。あいつは学校を休むことも少なくなり、段々と体も丈夫になっていった。今では僕より体格もいいし背も高い。図体がデカくなっても、幼い頃に甲斐甲斐しく世話した僕を一途に慕っている。
二人はとても仲の良い兄弟になり、勿論、夫婦仲も良く、僕らの家庭は常に円満だ。
「ところで、なんの用だった?」
なんで話し掛けられたんだっけ。
男は困ったような、照れたような顔をした。
「あいつが彼氏じゃないっていうなら、俺はどうかな。取り敢えず、お試しで付き合ってみない?」
「は?」
「ずっと気になってたんだ。」なんて言われても困る。
弟と仲良くしているからって、男を恋愛対象としている訳ではないんだけど。よく誤解され、告白してくる男は多い。
不思議なことに、男前な弟より、人当たりの良い僕の方がモテるようだった。
「ごめんね。この人、お試しとか、ないから。」
薄っすら漂いかけた緊張感を、のんびりした声が遮る。
「はい。本日のお勧めはモカだったよー。」
テーブルの上にカップを置いて、当然のように僕の隣に腰を下ろす。体はこちらに傾け、僕の方を向いて。僕の頭を愛おしそうに撫でる。
そのまま頭の形を確かめるように指を滑らせ、耳を擽って肩に触れ、僕の膝の上を定位置とばかりに手を落ち着けてしまう。
男は眉を寄せ、それをじっと見つめていた。
「おまえら……。」
「兄弟だよ。ところで、君って誰だっけ?」
外面のいい僕は知り合いが割と多い。でも、名前まで記憶しているのはほんの一握りだ。それで僕の世界は事足りる。
僕は昔から、大人しい、イイコだった。
大人たちが口さがない噂話をしていても、それを告げ口する母親のいない安全な子供だった。
父を狙い僕を懐柔しようと近づいてくる女も、とても多かった。父は資産家で、僕の母親という人も財産目当てだったから。一度あることは二度ある、って勘違いした輩。
幼子との生活を心配した親類たちが、父に再婚話を勧めているのを聞いたのも一度や二度ではなかった。
でもだからといって、赤の他人が自分の家に入り込む事を甘受出来るほど、流されてやれるお人好しでも弱者でもなかった。
僕は子供だったのだ。
好きと嫌いは、昔からハッキリしていた。
その頃の僕の一番は父だった。
生みの親である性悪女を追い出して、やっと手に入れた父との穏やかな生活を守るため、僕は運命の糸を自ら紡ぎ出すことにした。
ちょっと思い描いていたのとは違うけど。結果には概ね満足している。
『男同士は結婚出来ないんだよ?』
寂しそうに。悲しそうに。僕に教えてくれたのは、優しく大人しく、でも芯の強い保育園の先生。男の、先生。
僕は、遅れて来る父のお迎えを待つ間、先生と沢山話をした。僕はいつだって良い聞き手だった。
結婚は出来なくても家族にはなれる。
元々家族なら、他の人と結婚させなければいい。もしくは、僕の望む相手とさせたら、いい。
義母は、保育園で下世話な井戸端会議に参加する事など一度もなく、穏やかな目線と挨拶だけをくれる人だった。僕はその頃から好感を抱いていた。
僕は弟を僕の家族に選んだ。弟と、弟に似て優しくて穏やかな弟の母親を。
見目が良く、性格が素直で可愛いかったから。
大人しくて弱くて、弟は僕がコントロール出来ると思った。
不安や心配事を排除するためにも、弟には少しでも健康になってもらわなくちゃいけなかった。
僕は何より平穏な家庭を望んだ。
弟が僕を好きになるなんて流石に予測出来なかったけど。気に入って手に入れた相手に不快感を抱く事はなかった。
体なんて、いくらでも好きにさせてやる。
「帰ろっか。」と、耳元で囁く声が甘い。
「傘を忘れたんだ。」
外は雨が降りだしていた。
「俺が持ってるから、一緒に入ろ?」
頷きながら、相合い傘だなと思ったら、
「相合い傘して帰ろ。」と言われ、「うん。」と応える。
今は、弟が僕の世話を焼きたがる。
僕たちの距離はいつも近くて、周囲もそのうち慣れてしまう。
騒がしいのも今だけだ。
父さんは、今日は何時に帰るだろう。
雨音が大きくて、僕の呟きは誰の耳にも届かなかった。
初出 2018.06.12 Twitter