青春を夢見てラブコメの練習をする華麗な同級生の話
「──いや、ないだろ」
俺がため息まじりに呟くと、
「ええ、ないわね」
と、彼女──美浜あらたは、諦めたように目を伏せて同調した。
そうして。俺たちの不毛極まりない、机上で弄びつくした空論をキャッチボールするだけの議論は、ようやく終わりを告げたのである。
「ないない。ないったらない」
「そうね。ありえないことを期待しても仕方のないことだし、くだらないことを夢見るのも時間が勿体ないわ」
美浜がペットボトルの紅茶に口を付けるのに釣られて、俺もペットボトルの水を口に含んだ。20分にも及ぶ無意義な討論で、喉までからからに乾いていた。
そんなにも長い間、俺たちが何について意見を交わしあっていたのかというと──発端は「青春とは何か」という、如何にも漠然とした議題であり。
冒頭から、俺たちが何に対して「ない」と繰り返し否定し続けているのか、といえば。
それは、「俺たちの身にラブコメチックな出来事が起こりうる可能性はあるのか?」という──なんとも頭の悪い疑問だった。
「そもそも、なんでそんな疑問に至ったんだっけか」
「さあ?そもそもは、貴方が鼻息を荒くしながら『路上でキスしてるカップル』の話をしたのが議論のきっかけだった気がするけど」
「ああ……そうだっけ。いや、鼻息荒くはしてねえけど」
「私と同じクラスの……なんとか川さん、だったかしら。その子の話してたじゃない」
「クラスメイトの名前くらい覚えとけよ」
「だって、興味ないもの。仲良くなれそうな人種じゃないし」
「まあ、あっちは陽キャでお前は陰キャだしな」
「お淑やか、と言ってくれる?」
言いようのない圧を感じたが気づかない振りをして、読み止しの文庫本をパラパラとめくった。
古くからある名作青春小説で、たまたま本屋で見つけて買ったものだ。
高校生の恋愛や葛藤を描いた、いわゆる王道、悪く言えばありきたりな作品。面白いかと言われれば面白いけれど、まあそこまでと言ったところ。
俺が美浜に『青春』なんてクサい話題を振ったのも、この本の影響によるところはあった。
ひとしきり文章を流し見してから、顔をあげ教室内を見渡す。
東の壁には天井まで高さのある本棚、西の壁には文房具やプリント類が押し込められた背の低い棚。
俺の背後、北側の壁には黒板。美浜の背後、南側は一面窓ガラスで、差し込んだ夕陽が後光のように、美浜の姿を神々しく照らしていた。
その部屋の端と端、無造作に並んだ机の、対角線上に俺たちは座っている。
文芸部の部室には、俺たちしかいない。まあ、所属する部員が俺たちしかいないのだから、当然のことなのだが。
「そもそも、学生の本分は勉強だろ。だったら、友情やら恋愛やらスポーツやらだけじゃなく、勉強に励んでいるやつだって青春を謳歌せし者と呼んで然るべきだ」
「その理屈だと、貴方は青春を謳歌せし者と言えるのかしら?」
「友達も恋人もいないし、スポーツもしてない。無論勉強もしてない」
「じゃあなんでそんなに自信満々に持論を語ったのよ……」
呆れたように、美浜は額を押さえる。絹のように滑らかな髪が、簾となって彼女の顔を隠した。
美浜あらた──高校二年生。成績優秀、眉目秀麗。
圧倒的なまでの完璧主義者で、如何なる綻びも許さない。彼女の前では、どんな妥協も矛盾も泡となって消える。
そして、彼女は文芸部の部長でもある。先も言った通り、二人しか部員のいない小さすぎる部活ではあるが。
なぜ二人だけになってしまったかは、今語ることではないが──その理由に美浜が大きく関わっていることは言うまでもない。
「随分なご紹介をどうも」
「人のモノローグまで読むのやめてくれない?」
「ああ、やっぱり失礼なこと考えてたのね」
とまあ、こんな感じで。
淡々と物事の本質だけを捉え続け。
完璧を追い求めるがゆえに、少しずれている──それが、美浜あらたという人間なのである。
「まあともかく。結論として、俺たちにはアオハルな出来事もラブコメ的展開も縁がないだろう、ってことだな。なぜなら、異性はおろか同性の友達だってロクにいないんだから」
その真っすぐすぎる性格から、美浜あらたには友人と言える友人がいない。
彼女の容姿や頭脳に、嫉妬して嫌う人間がそう少なくないのも、友人がいない理由に挙げられるだろうけど。
「なんだか、貴方にはっきり言われると無性に腹が立つ」
そしてまた、俺も友人がいない。俺のほうは周りから嫉妬されるほどの物を持ち合わせていないので、単純に性格とコミュ力の問題だろう。
「でも」
美浜はその整った顔を挙げて、凛と背筋を伸ばした。射るような眼光が俺を射竦める。
嫌な予感が背筋を駆け抜ける。何か突拍子もないことを言いそうな気配を彼女から感じる。
「ラブコメ的展開が私たちの身に起こる可能性が限りなくゼロに近いとしても、起きてしまった場合のことを考えて事前に対策を講じておく必要はあるわ」
「うん……うん?え、そう?そうではなくない?」
「だって、私嫌だもの。突然ラブコメ的展開に巻き込まれたときに右往左往するの。予習しておけば、毅然とした対応をとれるでしょ」
「いや、そういうもんじゃないと思うけど」
ラブコメ的な展開で、冷静な対応されたら冷めるだろ。なにその可愛げのないヒロイン。
「とにかく、今からラブコメ的展開のロールプレイングを行うわ。貴方、仮想の相手役をやりなさい」
「はあ……白馬に乗った王子様役とは、随分荷が重いな」
「そうね。いつも泥船に乗りっぱなしの貴方には、少し難しいかもしれないわね」
酷い言われようだが、食って掛かるようなことはしない。意味があるかわからないロールプレイングを否定して、やりたくないとごねるようなこともしない。
なぜなら、そんなことをしたら後々が怖いからだ。俺のような小物では、美浜に勝てるわけがない。俺は負ける戦はしない主義だ。
「……で、シチュエーションは?」
俺が問うと、美浜は「そうね」と何かを考えるような素振りをする。しばらく沈黙してから、ふと壁に並んだ本棚を見上げた。
「あれを使いましょうか」
「本棚?それとも本?」
「両方よ」
〇
本棚に並んだ背表紙の中から、目当ての本を探す。
右から左へ順に眺めていって、棚の中央辺りまで来たところで、ようやく俺は、探していた本のタイトルを見つけた。
「あった」
左手をあげて、目当ての本に指を伸ばす。
すると──丁度その時、反対から伸びてきた誰かの細い指が、俺が取ろうとしていた本の背表紙に触れた。自然、二人の指先がぶつかる。
「あっ、すいません──」
謝りながら、俺は手の主のほうを見る。
その先にいたのは、まるで花瓶に活けられた一輪の花の如く儚げで、寂しげな。そんな危うい美しさを持つ、一人の少女。
流れる黒髪は絹のように滑らかで、人形のように整った顔立ちに、雪のように透ける白い肌。
ここまで美しい人間を、見たことはないとさえ俺は思った。俺は彼女に見惚れ、言葉を失い立ち尽くす。
そんな俺を不思議そうに見る彼女は、やがて薄っすらと微笑みを浮かべた。慈しむような優しい微笑みが、冷たく感じられた彼女の印象を暖かく溶かしていく。
ふと、ためらうような素振りを見せて。彼女はゆっくりと、薄い色の唇を開いて。弦楽器のように透き通った声音で、
「当たり前だけど、ぜんっぜんときめかないわね。むしろ指先が触れたのが気持ち悪いわ」
と、ありえないくらいの毒を吐いた。
「ねえ、流石に言いすぎじゃない?俺一応手伝ってる側なんだが?普通に傷つくんだが?」
はい、ロールプレイング終わり。彼女の一言で、一瞬にして張り詰めた空気が弛緩する。
俺は気疲れでぐったりと肩を落とし、近くにあった椅子に腰を下ろした。
「それに、なんなのあの陳腐な小芝居。さむっ」
「いや、ロールプレイングするって言ったのお前だろ……俺はお前のためを思って迫真の演技をだな」
「よくよく考えたら、ときめく要素のない人間を相手に練習しても何の意味もないわね」
「お前な……」
というわけで。
ロールプレイング『図書館で本を探しているとき、偶然同じ本に手を伸ばした異性に一目惚れしちゃうやつ』は、美浜の早期リタイアにより終わりを告げた。
「まあ、いい練習になったわ」
「本当かよ」
「ええ」
疑いの目線を向けつつ、俺は机の上にぐだっと伸びる。
それを見た美浜は、薄っすらと笑みを浮かべて。
「これで、気持ちの悪い虫とかに触れた時に慌てふためかずに済みそう」
「そんなことだろうと思ったよ」
彼女は再び、楽しそうに笑った。俺の知りうる限り、美浜が笑うのは俺を罵倒している時か、もしくは課題で苦しんでいる俺を見ているときだけだ。それ以外はいつも、冷たい氷のような無表情。
いつか、彼女の凍った表情を溶かす青い春はやってくるのだろうか、と心配になる。
触れるだけで火傷を起こすような冷たい氷に。自ら手を伸ばすような人間は現れるのだろうか。
まあ、そんなことは俺に関係ないのだが。人の心配をする暇があったら、自分の心配をするべき立場だ。
なんて、俺がぼんやり考えていると、
「にしても」
と美浜は背後の本棚を振り返る。
「本当に汚いわね、この棚」
サイズも厚さもジャンルもバラバラ、縦横無尽に並び積み上げられた本たちが、天井まで届く高さの本棚をぎゅうぎゅうに満たしている。
辞書、海外文学、古典の全集、ライトノベル、新書、ハードカバー、ファッション雑誌……長い年月をかけて歴代の部員たちが隙間を埋めてきた本棚は、文芸部の歴史そのものと言っても過言ではない。
「まあ、一度も整理したことないしな。整理したいとも思わない」
「整理したところで誰も気にしないでしょうしね」
「時間の無駄だろうな」
さっきのロールプレイングみたいに。
言葉には出さず、心の中で俺がそう呟くと、
「さっきのロールプレイングみたいにね」
美浜は実際に声に出して言った。
「いや、お前が言うなよ……」
ため息を吐く俺を余所に、美浜は何やら本棚を見上げている。
何か気になるものでもあるのだろうか、と彼女の視線の先を追った。
彼女の見つめる一角には、何冊かの小説が、分厚い英和辞典の下敷きになって横向きに積まれている。
「でも、気になる本もあるわ」
「やめとけ、危ないぞ」
美浜がご執心の一角は、彼女の背よりも高いところにある。手を伸ばして、ようやく届くくらいだろう。
無理に取ろうとしたら、周りの本たちが崩れる危険性がある。
そう、忠告のつもりで声をかけたのだが──彼女はどうやら、挑発と受け取ってしまったらしく。
「大丈夫」
と、ムキになって。細い腕を精一杯、頭上に向けて伸ばした。
「おい、やめとけって」
俺が制止したところで、火に油を注ぐだけだ。
完璧主義者である彼女は、大の負けず嫌いでもある。無理だと言われたら成功させたくなる、そんな人間だ。
だから、彼女は手を伸ばす。つま先立ちになって、目当ての本を手に取るために。
幾度か指先が背表紙を掠めて、数回目の挑戦でようやく、彼女の指が本の背表紙を捉える。
美浜の口元が、ニヤリと笑った。そして、そのまま力を込めて。
一思いに、その一冊を引き抜いた──その時だった。
引き抜かれた本の周り。
支えを失ったその一角は崩れ、バランスを崩した本たちが、まるで失敗したジェンガのように、一斉に棚から降り注ぐ。
「美浜!」
その瞬間、俺は反射的に飛び出していた。椅子を蹴り飛ばし、彼女の上に覆い被さるように、その場に倒れこむ。
辞書か何か、大きく固い本の角が背中に当たり思わず息が漏れた。続けざまに大小さまざまな本が、俺の体に雹の如く降り注ぐ。
痛すぎて声も出ない。ひとしきり棚から本が降り終わった後も、俺はしばらく身動きをとることができなかった。
「いったぁ……大丈夫か?」
ようやく動けるようになって、俺は美浜に声をかけながら上体を起こした。
俺の体の下で、細長い板のように固くなっている彼女と、至近距離で視線が交差する。
目の前数センチの距離に、彼女の整った顔があった。思わず、俺は仰け反って距離をとる。
「えっと……あの……」
上気したように赤くなった彼女の顔には、珍しく、申し訳なさの色が浮かんでいて。
瞳を潤ませ、震える唇からはなかなか言葉は出てこない。
俺が背中に走る痛みを我慢しながら立ち上がると、美浜はその場に座り込んだ。心配するように、上目遣いで俺を見る。
「その、ごめんなさい……なんとお詫びしたらいいか」
「いや、まあ別にそんな……」
彼女にしおらしくされると、なんだかこっちの調子までおかしくなって。なぜか俺もしどろもどろになった。
微妙な空気を誤魔化すように、床に散乱した本を拾い集める。美浜も倣って、何も言わないまま片付けを始めた。
「まあ、なんだ……次から気を付けるように」
俺が慣れない注意をすると、
「ええ、次からちゃんと周りに気を配れるようにする……本当にごめんなさい」
美浜は余計しおらしくなって、沈黙が二人の間を流れる。片付けの音だけが、夕暮れの部室に響き渡る。
落ちた本を棚に全て戻したところで、ふと──俺の心に、一つの疑問が浮かび上がった。
「……そこまでして手に取りたかったのって、なんの本だったんだ」
傍らに立って、棚の整理をしていた美浜に問いかける。
彼女は少し戸惑ったような様子を見せて、それから。
一冊の文庫本を、顔を隠すように掲げて、恥ずかしがるように、小さな声で呟く。
「……これ」
その文庫本の表紙とタイトルには、見覚えがあった。
「……別に、言ってくれれば貸したんだが」
「……そうじゃない」
そうじゃないならなんなのだろうか。彼女はその答えを言わずに、本の上からちらりとこちらを覗く。
美浜の持っている本は──俺が先ほどまで読んでいた小説と、全く同じものだった。
〇
翌日の放課後。
文芸部の部室へ向かう道すがら、俺は昨日の出来事を思い出していた。
今思えば──あれは、ラブコメ的展開と言っていいのではないだろうか?
「うーむ……」
まあ、確かに。容姿だけで言えば、美浜は学内トップクラスと言って過言ではない。
しかし、中身があれすぎる。そんな彼女と仮にそういう関係になったとしても。
心労で疲弊しきった自分の姿が目に浮かぶようだ。
なんて、身も蓋もないことを考えているうちに部室の前にたどり着いた。
引き戸を開けて中に入る。いつも通りの光景が目の前に広がる。
大きな窓を背に、本を読みながら机に向かう美浜。
ただ、そのいつも通りの光景の中で。一つ、目についた違い──彼女が読んでいる文庫本。
昨日、俺がとてつもなく痛い思いをして手にしたもの。
俺が今読んでいるものと、全く同じ本。
「ういっす」
小さく挨拶をすると、彼女は本から顔をあげた。栞を挟み、本を閉じて傍らに置く。
「さっそくだけど、今日もロールプレイングをするわ」
「まだ懲りないのか」
「昨日のでわかったけど、そういう展開はいつ自分の身に起こるかわからないの。だから、時間の無駄なんかじゃなかったわ。これから毎日、ロールプレイングに付き合ってもらうわよ」
俺は「はあ」と相槌ともため息ともつかない返事をして、「で、今日はどんなシチュエーションですか、部長さん」と、諦めきって言う。
つい先ほどまで、美浜と送る青春を夢想した自分を今更ながら恥じる。彼女と過ごす青春は、薔薇色なんて鮮やかなもんじゃないだろう。
美浜は顎に手をあてて、考えるような素振りを見せる。
「そうね──今日は『ヒロインを助ける代わりに自分が本棚の下敷きになる王子様』、かしらね」
「初日からハードすぎん?そもそもどんなシチュエーションなの?」
俺が呆れながら言うと。
美浜は、氷のように凍てついた無表情を溶かし、楽しそうに笑いながら。
「そんな青春もありじゃないかしら」
と、とぼけたように言った。
彼女は今日も、いつか訪れる青春に夢を見る。
その青春が何色なのか──それを俺が知るには、体がいくつあっても足りなさそうだった。