〜最終章・守屋の夏〜
「今日は有難う。珈琲、ご馳走になって……」
玄関で靴を履き終わると、紅い顔をしたまま神崎がそう言った。
「予備校前でバス乗るんだろ? 送ってくよ」
「でも……」
「遠慮するなって」
そう言うと、俺も靴を履いた。
俺の背よりも高い門を潜り抜け、俺たちは夕暮れ刻の住宅街を黙って歩き始めた。
こいつ、こんなに肩が華奢だったっけ……。
俯いたまま歩く神崎を見下ろしながら、俺は思う。
二年の時より更に痩せて。
ちゃんと飯くってんのかな……。
「神崎」
「え?」
「いや……」
俺はそのまま口籠もった。
ちゃんと飯くってるか?なんて、そんな父親か兄貴みたいなこと言えるか。
でも。
こいつ、本気で勉強始めたらほんとに寝食忘れそうだもんな。
心配だよな……。
そんなことをぼんやりと思っていた。
気がつけば、綺麗な夕陽が西の空を彩っている。
しかし、相変わらず外は炎天下の温度を保ち、蝉が喧しいほど鳴いている。
俺の十八の夏──────
「神崎は大学、どこ受けんの?」
神崎の隣を歩きながら、俺はおもむろに問うた。
「うん。……東応大学、目指してるけど」
「やっぱ! すげえな」
東応は、東京トップクラスの国立大学だ。
「いまのままじゃとても受かんないけどね」
「そんなことないだろ」
「三年になって試験の出来も悪いから」
「悪いって言っても、成績いいもんなあ」
「そんなことないんだってば……」
困ったように神崎が言う。
そう言えば、神崎はこういう会話を好まないかもしれないと、思った。
マジメな自分というものに、こいつはどうもコンプレックスを抱いているらしい。
「だから。大阪浪速大の外国語学部。ドイツ語学科に志望変更も考えてる」
「どうしてドイツ語なわけ?」
「中学時代からなんとなく。ドイツ・オーストリアやスイスの山間地方に、憧れていて……。いつか。一人で旅してみたいの。その時はツアーのガイド頼みじゃなくて、自力でなんとかしたいじゃない。だから」
そう言うと、
「単純かな……」
と、神崎はまた顔を赤らめた。
「いいよな、そういう。夢があって」
俺は呟いた。
「俺は……何もないから。行きたい大学も、何が学びたいとか。何も」
俺は虚ろに視線を泳がせた。
高校時代を何に打ち込むことなく、空虚に過ごしてきたそれは俺の罰だ。
「夢は大学に進んでから探してもいいんじゃない?」
と、しかし、神崎はまっすぐ俺を見つめた。
「ほら、「モラトリアム」って言うじゃない。とりあえず大学に進んで、そこでいろんな勉強して。そこから、将来を考えても遅くないと思うわ」
「……やっぱり。しっかりしてるよな、神崎は」
「だから、そういうんじゃないんだってば」
俺たちは顔を見合わせ、そして笑った。
大事に。
大切に守ってやりたいと、俺は思う。
玲美を幸せに出来なかったことも含めて、俺は神崎を愛してゆきたい。
今度こそ、幸せになるために。
神崎を幸せにするために。
俺はこれからの人生を生きてゆく。
悪夢の夏は終わりだ。
これから夏が幾度巡ろうと、もう悪夢に魘されることはない。
俺は「悪夢の夏の朝」から目醒めたんだ……。
それは確信に近い想いだった。
「神崎」
俺は不意に神崎を抱き寄せた。
「も、守屋君……」
神崎が身を固くする。
しかし俺たちは、どちらからともなく口づけを交わした。
神崎の躰の温もりが、俺の中にいつまでも快く残っていた。
了
明日からまた、「十八歳・ふたりの限りなく透明な季節」
(https://ncode.syosetu.com/n1757ft/)
の連載を再開します。